左手首に、Baby-G
夏至らしく、夏のお話を。
べっとりした、汗の感触。僕が経験した、ただ一度のセックスについては、そういう印象しか持っていない。そしてその第一印象が、「二度目以降」を躊躇させていた。
と言って、女性という存在自体を嫌悪するようになったわけではない、と思う。以後も何度か女性を好きになることができたし、性欲のほうも別段以前と変わったようには思わない。けれども、それに至る最後の一段だけが、どうしても踏み込めないでいる。互いにそれを望んでいる――そのことが判りすぎるほど判っても、僕のほうから欲求に任せて最後の一歩を踏み出そうという気にはなれなかったし、相手が僕をその段まで引き上げる(あるいは押し上げる)ような素振りを見せても、頑なにそれを拒んだ。生理的なものに近いぐらいの嫌悪感がそうさせてきたような、そんな気がする。
大学に入学した年の夏だった。同じ学科の連中の顔と名前をようやく覚えきった頃だ。休みに入る前日の金曜の夜。とりあえず前期試験からの解放を祝って開かれた飲み会で、僕はその女とずいぶん長いこと話し込んだ。飲み慣れないアルコールの酔いのせいもあって、何を話したかはよく覚えていない。覚えていないぐらいだからどうせ大したことは話していないのだろう。ともかく、僕はその女と一緒に、飲み会を途中で抜け出した。以前、先輩に連れられて一度だけ行った別の店があった。駅からは少し離れたその店まで、女を連れて行ったことも覚えている。その先は、途切れ途切れにしか思い出せない。
何となく、そうするのが当然なように思えて、店を出た後、その女を連れてホテルに入った。薄いライトグリーンで塗られた壁。機械の故障か、それとも調整ミスなのか、七月も下旬になるというのにろくに冷房の効いていない部屋。室温自体が、まるで質量でも持っているかのように覆い被さって、皮膚の表面にじっとりと汗がにじみ出てくる不快感。その時は、まさかこんなに後味の悪いことになるとは思わなかった。息せき切るようにして、無駄に大きなベッドの上に女を押し倒した。女のほうも、男を焦らすような芸当は身につけていなかったらしい。
けれども、そこから先がどうもはっきりしない。本来記念すべきはずであったその行為は、僕にとって「こんなものか」という程度のどうでもいい記憶にしかならなかったということだろう。ひょっとすると、それまでに耳にし、目にしていた知識から、僕のほうがセックスに対して過剰な幻想を抱きすぎていたのが原因かも知れない。他に理由らしい理由も考えつかない以上、「かも知れない」ではなく、それが原因だったのに違いない。
記憶がはっきりするのは、ベッドの上で目が醒めた時からだ。部屋に入った時のべたつく空気の感触が、何倍にもなって僕を圧し潰そうとしていた。空気だけじゃない。横で寝ている人間の体温と体臭、水蒸気となって空気中に溶け出た自分の汗。その汗に含まれる老廃物の臭い。そんなものが混ざりあって、部屋に入ったときからつきまとっていた不快感をさらに著しく増幅させていた。なんだこれは、と思った。理不尽だが、この不快感の中でも平気で寝ているその女に腹が立った。耳に入ってくる寝息の音すら、ひどく苛立たしかった。
酒が完全には抜け切っていない僕の体内に、どうしようもなく嫌な感情が生まれた。色で言うならば、暗く濃い灰褐色あたりだろうか。その感情はすぐさま「一秒でもここにいたくない。一刻も早く、このベッドを抜け出し、この部屋を立ち去りたい」という、明確な欲求に姿を変えた。
そして僕は、ためらうことなくその欲求に従った。手を伸ばさずとも届くような位置に、自分とは違う、意地汚いまでの生命力を備えた一個の肉体が転がっている。僕は、まるで細い道の真ん中に落ちている汚物から遠ざかりでもするかのように、慎重に、しかし素速く、体をベッドの端に向かって滑らせた。その時、女がはっきりしない発音で何事か呻いた。僕の背筋と脇のあたりに、嫌な汗が染み出る。
ベッドから下りたとき、思わず大きな息を吐いた。さっきから、ずっと息をしていなかった。この部屋の空気を吸い込むことさえ苦痛に感じられたからだ。無性にシャワーが浴びたかった。皮膚の表面にへばりついた不純物全てを流してしまいたかった。けれども、シャワーの音が女の目を覚まさせるかも知れない。その可能性がある以上、諦めざるを得ない。
脱ぎ捨てた時のまま、床の上に散らばったシャツとトランクス、それからデニム地のパンツ。僕はそれらを拾い上げる。トランクスを履き、デニムの固さに小さく舌打ちしつつ、強引に足を通す。Tシャツを頭から勢いよくかぶると、一度だけベッドのほうを振り返る。
女は、先ほどの姿勢のまま寝息を立てている。なぜこの女と寝たのか、思い出そうとして、やめた。どうせしっかりとは思い出せないだろうし、もし思い出してしまったら、それはそれで自己嫌悪の材料になるだろう。
そっと、ドアのロックを外す。極力音を立てないようにして。幸運なことに、きしむ音も立てずドアが開く。体を押し出して、薄汚れた空気の中から一息に抜け出す。
部屋を出た瞬間には途轍もなく綺麗に感じられたホテルの廊下の空気が、二、三歩歩いただけで胸につかえてくる。自然に足が早くなる。目の上にかかった前髪が邪魔に思えてしかたがない。それを指ではね上げながら、合成樹脂の匂いのきつい、どうしようもなく安っぽい造りのエントランスを駆けるように抜け出た。
駅までの道を、足元を睨みつけながら歩いた。アスファルトから立ちのぼって来る微かな揮発成分ですらも、自分の身体を汚してゆくような気がしてならない。何もかもが苛立たしく、自分がみじめに思えた。感慨もなにもあったものじゃない。けれども、ガキではなくなったんだろうとは実感した。自分はもう二度と、ガキのように「無性にやりたい」とだけは思わないだろう。その自信ができたのは、確かだった。
明日から夏休みに入る。あの女とはとりあえず当分は顔を合わせなくて済む。その事実だけが、ひどくありがたかった。
けれども、長過ぎるほど長い僕の大学一年の夏休みが自己嫌悪から始まったのは言うまでもない。そのどうしようもない憂鬱さを紛らわせてくれたのは自動車学校通いだった。家には親父の車が一台あるだけで、免許を取ったからといってその車を自由に運転できるというわけでもなかった。自分用の車を買うというあても無く、つまるところ「運転免許ぐらい暇な学生のうちに取っておいたほうが良いだろう」という、かなりいい加減な気持ちで申し込んだのだが、こうなってみるとありがたかった。免許を取ることよりも、むしろ気分転換と時間つぶしのために、大いに役に立ってくれそうに思えた。
通い始めて二日目に、思わぬ再会があった。
次の受講時間を予約する端末の前。行列の後ろについて、自分の順番を待つ。僕の前にいた女性が手続きを済ませると、立ち上がって振り向いた。
「河井さん?」
「え?」
彼女が、首をかしげてこちらを見る。目が合う。
「あぁ」
多分、三年半ぶりぐらいに見る彼女の笑顔。同じ中学に通い、同じ吹奏楽部に入っていた。
「竹岡くん? 久しぶり」
予約を済ませた僕と彼女は、そのままロビーの椅子に腰掛けた。
「背、伸びたな。一瞬判らなかった」
「高校入ってからね。でもちょっと伸び過ぎたかな。一七二もいらないってのに」
「インパクトあり過ぎだ。驚いた」
「あ、やっぱり? 中学の頃は小さかったもんね。こんなに大きくなるなんて、本人も予想してなかったし」
「今、どうしてる?」
「浪人中。予備校行くのに二輪の免許取ろうと思って。朝の電車って混んでるでしょ? あれ、嫌いだから」
「余裕だな」
「まぁね。で、タケオのほうは? 今何してるの?」
中学の頃のあだ名で、彼女が尋ねる。
「懐かしいな。その呼び方」
「うん。で、何してるの?」
「大学生。県立大の経済」
「えー!」
突如、だった。彼女が立ちあがって僕を睨みつける。
「なんでタケオが受かってわたしが落ちてるの? なんか腹立つー!」
「受けてたのか」
彼女を見上げながら言う。
「受けてた。落ちたけど」
彼女が続ける。
「絶対受かると思ってたのになぁ。勉強だってしたし。みんなタケオのせい。責任取って」
「なんだそれ」
「冗談だけど」
「当たり前だ。そんな責任取れるか」
「それにしても」
腰を下ろしながら、彼女が言う。
「次はもう落ちないからね。絶対合格する。……でもそうするとタケオの後輩ってことになっちゃうのか。それはちょっと悔しいかも」
「待っててやるよ」
「やな言い方」
もちろん、本気で怒ったりしているわけではないのだろう。彼女が言う。
「でも、ほんとに待っててよね。もし受かったら何かくれる?」
「何だそれ?」
「先輩から後輩にプレゼントとか」
「バカ言うな」
「ケチ」
「ケチってなぁ」
「冗談だけど」
そこまで言うと、彼女がもう一度立ちあがる。
「もうすぐバス来るから、帰るね」
「ん」
「じゃ、また。免許頑張って」
「そっちもな」
「あはは。こっちはあと二回ぐらいで終わりだけどね」
「そうなのか?」
「うん。ちょっと前から通ってたから。タケオは?」
「通い出したばっかりだ。まだまだ」
「じゃ、わたしのほうが先輩なんだ」
「何かくれ」
「バカ言うな」
「ケチ」
笑い合って、そのまま別れた。その後、自動車学校では彼女の姿を見かけなかった。試験に通って二輪の免許を手に入れられたのだろう。僕のほうも、学科やら実技やらの講習を受けているうちに、彼女のことはあまり考えなくなっていた。
というよりも、わざと自分を講習に没頭させようとしていたのかも知れない。余分な時間があると、ホテルでの一件がどうしても思い出されてしまう。吐き気を催すほどの自己嫌悪から逃れるためには、何か別の「思考の行き先」を見つけてやるほかなかった。
十ヶ月過ぎた。梅雨の時期に入る直前。心地よい気温と湿度。やっと、と言うべきか、昨夏から続く自己嫌悪は薄らいできた。けれども不安を拭いきったとは到底言えなかった。すぐに汗の季節に入る。汗をかくたびに、あの夜の不快感を思い出してしまいそうだった。
『次はもう落ちないからね』
河井はあの日そう言ったが、新年度が始まって二ヶ月経っても大学の構内で彼女を見つけることはできなかった。あれだけ大口を叩いたのだから、相当に自信があったのだろう。不合格だったとは考えにくい。もしかしたら、どこか別の大学に受かって、そっちに進学したのかも知れなかった。といって、彼女が僕の後輩になったかならないか、などということは、実際のところ僕にとって気にはなっても影響を受けることはなかった。つまるところ「他人事」だったのだろう。あるいは、所詮他人事だ、と考えようとしていたのかも知れない。
ともあれ、いま一つ晴れ晴れとしない気持ちのままで僕は盛夏を迎えようとしていた。
「あのさ、タケオ、河井って知ってるよな。事故ったんだと」
六月の末だった。彼女と同じ高校に行った仲間からの電話で、そう聞かされた。
「事故? バイクか?」
「知ってたのか?」
「去年教習所で会ったから。そんな気がした」
「ちょっと前から入院してるって。もらい事故で」
声の調子から、命がどうこうという怪我ではないだろうということはすぐに予想がついた。
「どこの病院?」
「市民病院」
「外科だな」
「外科。足折ったとか言ってた」
「重傷だな、おい」
「声は元気だったけどな」
病室の場所を教えてもらったあと、頭の隅に引っかかっていたことを聞いてみる。
「なんでいちいちこっちに連絡してきたんだ?」
しばらく、無言。
「……あのな」
受話器の向こうで何か言いかけて、それを取りやめるように一度言葉が切れる。
「……お前、河井と同じ大学なんだろ?」
「そうなのか? 受けるって聞いてたけど、学校で会ったことないぞ」
「そうか? まぁどうでもいいんだけどな、俺は。ともかく」
底意のありそうな声で、言葉を続ける。
「見舞ってやれよ。先輩になったんだからさ」
高台の上。新興住宅地として開発された、すっきりしているだけが取り柄の街並み。似たような表情の建て売り住宅と、やたらと駐車場が広いマーケット。その住宅地の西端、開発前の面影をわずかに残した辺りに、駅前から移転したばかりの市民病院がある。病院の裏は、まだ雑木林のままの斜面。七階建ての中央棟の前には、四つのバス路線が集まる大型ロータリーと二百近くの車を収容できる駐車場。初夏の陽射しにあぶられた舗装路の上の逃げ水。
その逃げ水を踏みつけるようにして、駐車場の一角に車を入れる。ドアを開けると、車内に圧力を持った熱気が入り込んで来る。汗をかくのが嫌で冷房を強めにしているせいか、熱せられた空気に直接当たった瞬間、軽い眩暈のようなものを感じる。キーをロックすると、直射日光を避けて日陰を選びながら受付に向かう。正面入り口の自動ドアが開くと、ようやく涼しげな空気が流れ出して来た。
「暑いね。六月なのに」
病室の彼女は、僕の顔を見るなり笑ってそう言った。ベッドの上の彼女は比較的元気そうだった。それだけに、包帯とギプスで覆われ、器具で吊るされた両足が痛々しく思えてならなかった。
「わざわざありがとう。座って。そこに椅子あるから」
うなずいて、スチールの折り畳み椅子に腰を下ろしながら尋ねた。
「具合は?」
「うーん。秋まで動けないんじゃないかな。リハビリもあるしね」
「骨折か」
「うん。上に『複雑』とかいろいろ付くんだけどね。まぁ骨折って言えば骨折」
「貰い事故だって? 相手は?」
「おばさん。脇見運転だってさ」
「判らないなぁ」
「ん? 何が?」
彼女が姿勢を直しながら聞く。
「こういう時さ、何て言ったらいいか」
「判らないよね。いいよ、別に。変な言い方だけどさ、慰めてもらいたいわけじゃないし」
「そんなもんかな。でも元気そうだから安心した」
「うん」
彼女が着ている寝間着が、窓からの陽光を浴びてまぶしいぐらいに白い。
「もう痛くはなくなってきたし。話し相手になってくれるだけで嬉しいから」
「いつ頃事故ったって?」
「連休。緑の日。信号待ちしてたらさ、後ろからドーンだって。たまんないよね。大学もせっかく受かったのにろくに行ってない」
「災難だなぁ」
「大災難。バイクも一発廃車。『もう乗るな』って父さんから言い渡されちゃうし」
「ご愁傷様。まぁ親心ってやつだよ。それも」
「判ってるんだけどね。でも、冥福を祈ってやって。わたしのSRVの」
同じ型のバイクに乗っていた先輩がいたから、形を思い出すことができた。クラシカルな、ネイキッドのマシン。女性にしては大柄な彼女には似合ったことだろう。
「またちょっと変な話になっちゃうんだけど」
彼女が話し出す。
「足のね、長さが変わるんだって。こういうケガすると。わたしの場合は右足が二センチちょっと短くなる。左と比べて」
空元気とすぐに判る言葉の調子。何と言っていいのか判らず、僕は黙ったままでいる。
「どうせなら両足短くなればって思った。そうすれば一七〇割るから」
彼女はそう続けたが、僕の表情を見て口をつぐんだ。
「ごめん。つまんないこと言ったかも」
うつむくいて、彼女が言う。顔を上げると、今までの空気を振り払うように言った。
「退院したらさ、今度は車の免許取るから」
「懲りないな」
「懲りないって。自分のせいじゃないんだし。それに車かバイク無きゃダメじゃない。このへん」
「そりゃそうか」
「でしょ?」
そう言って彼女が笑う。
「今、何乗ってるの?」
「車? カリブ」
「ワゴンかぁ。四駆って燃費悪くない?」
「多少。荷物積むからワゴンにしたんだけどね」
「荷物って、楽器?」
僕がうなずいてみせる。
「まだ続けてたんだ。羨ましいなぁ」
「河井は止めたの?」
「うん。止めちゃった。何となくね。まぁ始めたのも何となくだったんだけど」
「続けてるのも何となくだよ」
「そう?」
彼女が、窓の外に目をやる。
「覚えてる?」
「ん?」
「こんな風にね、話し込んだじゃない。どうでもいいことばっかり」
「ああ」
中学三年の夏休み。五年前には全国大会にまで出場したうちの部は、僕らが入学してからの二年間、地区大会止まりだった。僕らにとって最後の年、せめて県大会には出場したいと練習を重ねていた。
その年、顧問の先生が選んだ自由曲は、前衛音楽まがいの、少なくとも中学生に演奏させるにはあまり向いていない代物だった。何度も転調をくり返したあげく、拍子まで二度も変わるという複雑さ加減で、僕らは楽譜を前にして当惑するしかなかった。
(こんな曲ばっかり選んでるからダメなんだ)
胸の奥ではそう思いつつも、拒否権を与えられていない僕らは黙ってその曲を練習するしかなかった。
地区大会の一週間前。オーボエと楽譜を抱えた彼女が、やって来るなり言った。
『ここからなんだけど』
彼女が楽譜を広げて指を差す。かなり長いオーボエとユーフォニウム一本づつの絡みがあった。その間、他のパートはパーカッション以外長々と全休符が続いている。
『特訓しない? ここミスったら全部ぶち壊しだよ』
彼女の言う通りだった。曲を通じて、この部分がヤマだというのは僕にも判る。最初に楽譜を見た時には「なんとかなるだろう」と思っていたが、ステージの上で自分以外に一本しか鳴っていないというのは想像以上にプレッシャーがかかった。いっそソロのほうが気が楽だったかも知れない。
僕と彼女は、夏休みの誰もいない教室で、何度も何度もその部分を吹き合わせた。クーラーも無く、涼を取るには開け放ってある窓から入ってくる風を頼りにするしかなかったが、陽が高くなるとその窓からも熱風が吹き込んでくるだけだった。
『暑いね』
練習中、彼女は何度かそう言った。その割りには嬉しそうな顔で。
『暑いの好き?』
『うん』
彼女がうなずいて、続ける。
『寒くて震えるよりも暑くて汗かくほうが好き。生きてるなって気がするっていうか。わたしもともと汗かきだしね。さすがにこんなだと集中できないけど』
『休憩しようか』
『うん』
楽器を机の上に置いて、僕らはしばらく他愛のない話をした。妙な自由曲を選んだ顧問に対する批判から始まって、最近買った腕時計や、進学のこと、同じ部の仲間のこと。陽が傾きかけるまで、練習と雑談を繰り返して、その日は過ぎた。
「覚えてる」
僕は、ベッドの上の彼女に向かってうなずいた。
「暑かったね。今日より暑かった?」
「八月近かったから、暑かったと思う」
「これ、あの時の」
彼女が、左腕を突き出すようにして僕に見せる。日焼けしていない手首に、あの日彼女が僕に自慢した白いBaby-G。
「物持ちいいなぁ」
「そう? 全然壊れないよ。これ」
そういえば、と思って僕が病室を見まわす。
「時計?」
彼女がそれに気づいて言う。
「ここ。後ろ」
彼女が指差したのは、ちょうど彼女の頭の真上。ベッドに足を投げ出す格好のままの彼女には見えない位置に掛け時計が掛かっている。
「見えないでしょ? だからずっと着けてる。時間が判ったからって、こんなだと何になるってわけでもないけどね。それに」
左手首を指さしながら、笑って彼女が言葉を続ける。
「これ見てると、色々思い出せるから。五年分ね」
それだけ言うと、僕から表情を隠すように、彼女が窓のほうを向く。
「ね?」
「ん?」
「こうやってて、一番思い出すのって、いつのことだと思う?」
突然、彼女が聞いてくる。
「判らない」
「判らない、か。そう言うと思ってたけど」
彼女がこちらに振り向く。短めに揃えた髪が、一瞬ふわっと広がる。
「五年前。だって」
少しの間。彼女が口ごもる。
「一緒だったから。タケオと」
もう彼女は視線を逸らさなかった。僕のほうをまっすぐ見据えて、そう言った。
「気まぐれで言ってるわけじゃないからね。うちの高校に来た子たちだったらみんな知ってる」
それに気がつきもしなかった僕はかなりの鈍感ということなんだろう。内心、自分を責めながら言う。
「知らなかった。ごめん」
「謝らなくていいって」
自分では判らないが、僕は今どんな表情をしているのだろう。僕を見て笑い出しそうな顔をした彼女が言う。
「タケオって、フリー?」
「今のところは」
「わたしが退院するころも?」
「おそらく」
「わたしが予約してもいい?」
畳みかけるように、今度は真顔で彼女が聞いてくる。
「……いい」
「OK。じゃ、そういうことで。よろしく」
彼女の、満足そうな笑顔。
現金なようだが、僕もずいぶん気が楽になった。彼女となら、多分次の夏は苦痛に感じることなく迎えることができるんじゃないか、と。
「そういえば、タケオは夏、苦手?」
「苦手でなくする」
「汗かきにくい体質だって言ってなかった? 確か」
僕が笑って答える。
「そうなんだけどね。汗かける体質がうらやましくなった。さっきの話」
「『生きてるな』っていう、あれ?」
「うん。生きててくれて良かった」
不意に、本当に不意に両目から涙が溢れてきた。運命の歯車というやつがほんの少しずれていたら、彼女が僕を好きになってくれたことすら知らないまま、永遠に彼女と会えなくなっていたのかもしれない。そう考えると、涙が抑えきれなかった。
「タケオ、どうかした? タケオ?」
うつむいた僕に、彼女が心配そうな声で言う。
「大丈夫。安心しただけ。泣けるくらい安心した」
そういう理由で泣けることに、初めて気づいた。恥ずかしくはなかった。むしろ、そういう理由で泣けることが嬉しいと、心の底からそう感じた。