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第1章 ~ 東:月夜の天使 ~

  その日は先客がいた。

  いつもは俺だけの特等席であるはずのそこに誰かいるなんてことは初めてだったし、病棟の屋上で星見(ほしみ)をしようなんて物好きが自分の他にいるなんて考えもしなかった。

  しかしそんなことよりも、俺は目の前の光景に心を奪われた。

  闇色の空に散らばる星々。

  皓々と輝く十六夜の月。

  その冴えた光に照らされた、蒼皓い天使。

  それは真っ白い入院着を羽織った少女の姿だったのだが。長い黒髪と白い入院着が月明かりで蒼皓く輝いて見え、少女がまるで天の使いであるのように思えたのだ。

  両腕を広げ、月の光を全身で浴びるように立つ少女の姿を目の当たりにした俺は、息を呑み、言葉を失い、まるで何かの呪縛に掛かったかのように声が出せなくなった。その一方で、足は勝手に前に出て、少女の(かたわ)らへ向かって進んで行った。


  やがて少女のすぐそばまで来ると足は止まったが、その間、俺の視線は片時も少女から離れず、近づくにつれて、少女が自分より背が高いのがわかった。

  髪は絹のように(つや)やかで、腰まで届くほど長かった。入院着の中には、薄翠(うすみどり)色のパジャマを着ていた。シルクのような光沢のある素材のシンプルなデザインは、子供心にも大人っぽさを感じさせた。

  目をつむって空を仰ぐ少女の横顔は可愛いというよりも――


「……きれい」だった。


「そうだね」


  思わずこぼれた(つぶや)きに返ってきたのは、風に揺れる風鈴のように(りん)とした、涼やかな声。


「え?」

「きれいって、キミが言ったから。キミもコレを見に来たんでしょ?」


  驚くと、人懐っこい笑みを見せて、少女は欠け始めの月を指さす。

  息を呑み、ふたたび呪縛に掛かった俺は、少女の誤解を指摘するのも忘れて、ただうなずいた。


「そっか、君も星を見るのが好きなんだね、わたしとおんなじ」

「…………」


  間違いなく初対面のはずなのに、もうすでに仲良しのように接してくる少女に、俺は戸惑った。


「むぅ、無言? ねえひょっとしてキミ、今夜わたしが自分より先にここに来たことを怒ってる?」


  視線の高さを俺と合わせるように(ひざ)を折り、小首を(かし)げて不安げに訊いてきた少女に、怒りのせいで(しゃべ)らないのではないことを伝えるために俺は、思いきり首を左右に振った。


「ほんと? ならよかった」


  安堵(あんど)した少女は、花が咲くように笑う。


「でも……」


  そうするのがクセなのか、うつむき加減に口元を指で()きながら、少女は何事か考え込む。そして、そこに小さなほくろを見つけた俺の視線に気づいた――のかどうかはわからないが、唐突に少女は顔を上げて、


「ここに来たとき驚いたでしょ、わたしみたいな物好きがいたことに」


  照れの混じった苦笑いでそう言われて、俺は目を丸くした。


「わ、豆鉄砲に撃たれた鳩みたいな顔になった」


  驚いてそんなことを言った少女が可笑しくて、思わず俺は吹き出してしまう。

  それで呪縛が解けたのか、そのまま声をあげての大笑い。人前でこんなに笑ったことは、そのときが生まれて初めてだったかもしれない。


「え、何? わたしいま笑えること言った? それともわたし自身が可笑(おか)しいって意味?」

「両方、かな」

「なんだとー? キミねー、初対面の女の子にそれはないんじゃない?」

「ごめんなさい。でもね、それ」

「え?」


  何を指して『それ』と言っているのかわからなかったのだろう。今度は少女の方がきょとんと、豆鉄砲をくらった鳩のような顔をする。


「ぼくとお姉ちゃん、いま初めて会ったんだよ? それも、こんなとこで。それなのにひとっつも驚かないなんて、おかしくない?」


「んー……」


  ふたたび口元を指で掻きながら考え込むこと、数秒。ちなみに『ひとっつも』というのは、全然という意味だ。


「まあ、それは確かにそうかも、言われてみれば。何でかな?」

「それはぼくに聞かれても……」

「あはッ、それもそっか」


 それは、呪縛が解けたというより、まるで何かの魔法にかかったようだった。そう思えるほどとても自然に、少女とは難なく会話が出来た。たぶん、このときにはもう心のどこかで、少女に好意を持っていたのだろう。


「――ね、キミ」

「うん?」

「わたしは、りなって言うの。でも姉さんや妹は、ルナって呼ぶわ」

「ルナ?」

「そう。これはラテン語で、月っていう意味なんだって。りな姉さんは月が大好きだから、月をあだ名にしましょう。でも月やムーンじゃ女の子っぽくないから、ルナがいいいわって、妹がつけてくれたの。すごく気に入ってるから、キミもそう呼んでね?」

「えっ、あ、あの――」


 そう言われても初対面なのに無理だよと伝えることが出来ないまま、ルナはどんどん話を先に進める。


「キミの名前は?」

「あ。えと……」


 わたしも教えたんだから、君のも教えてくれるよね? ルナの屈託(くったく)のない笑顔にそんな無言の圧力を勝手に感じて、俺は心の中で後退(あとずさ)りした。


「ぼくは……ときや」

「うんうん。ときやくんね。で?」

「う……」


 あだ名を催促(さいそく)されていることはわかったが、このころの俺には、あだ名などなかった。友達を作れなかったのだから、あるはずもない。

 親や親戚(しんせき)が使っていた愛称というか呼び名はあったが、果たしてそれを初対面の相手に言ってもいいものかどうか、ルナに心を開いて大丈夫か、ためらいがあった。俺が当時から人を遠ざけていたのは、暗い性格だけが理由ではなかったから。


 しかし結局は、言った。

 知って欲しいという思いが、言っていいかどうかという迷いより強かったんだろうと、いまは思う。


「ええと……親や親戚には、トキって呼ばれることも……ある」

「ん、わかった。じゃあわたしは、トキくんって呼ぶね」


 ルナは微笑んで、二つ返事で快く受け入れてくれたのだが。このあとに続いた言葉が衝撃だった。


「んじゃ、トキくん。これからは、毎晩、ここで会おう。ねッ」

「うん。――え、毎晩?!」

「うんっ、毎晩♪」



 ルナと初めて出逢ったその日は、小学三年の初夏。当時、俺は旭川の医大――医科大学付属病院に入院していた。病を(わずら)っていたわけではない。

 しかしある疾患(しっかん)があって、手術は絶対に必要で。そのためには、田舎の町立病院や隣の市の総合病院よりも大きく、設備も整っている医大に入院しなければならなかった。

 小児科病棟もあり、同年代の入院患者もいたが、当時の俺は地味を通り越して暗く沈んだ性格で、社交性が極端に乏しかったため、その子たちと同室になることを頑として拒んで個室に入れてもらい、一緒に遊ぼうともしなかった。


 検査以外で自分の意思で個室から出るのが唯一、夜空を眺めることだった。

 俺は『星見』と呼んでいたが、性格的に光の乏しかった俺は、空に浮かび瞬く光を観るのが好きだった。

 入院中に星見をするのに最適なその場所が、本来ならば関係者以外立ち入ることの出来ない、病棟の屋上だった。


 このときはまだ、なぜルナがここまで積極的に俺に関わろうとしていたのかも、実はこの出逢い自体、複数の人間によって仕組まれたものだったなんてことも、知る由もなかった。



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