始章 ~月昇(つきので)~
《 ――待てよ 》
「ん?」
《 それってつまり、どういうこった? 》
涼やかな風が肌に心地いい初夏の夜、昔話をしていると。鳥かごの中の仔猫がそれをさえぎった。
六月。涼やかな風が肌に心地いい初夏の夜。まるで月や星を観るのを邪魔するように、空は低い雲に埋め尽くされていて地上からは何も見えない。それはここからだと、真っ白な大海原のように見える。
星たちは、いつもなら空いっぱいに散らばって、目に騒がしいほど瞬いている。だが今夜は空に点々と散らばって、控えめに瞬いている。
その様子が、皓晧と輝く月に遠慮しているように俺には思えて、笑ってしまった。
星たちをおとなしくさせているつもりのない月は、パッと見、満月のように見える。しかしよくよく観ると、細い眉の分だけわずかに欠けている。
満月からひと晩過ぎた十六夜の月。
雲海が十六夜月に照らされた蒼皓い世界を、俺は箒に跨って飛んでいた。
昔話をさえぎった仔猫の名は、アルテという。シャルトリューというフランス原産の種類の猫で、ブルーやグレーの毛色が一般的。だがコイツはねずみ色に銀を混ぜ込んだような色の体毛をしている。体躯が仔猫のように小柄なので便宜上『仔猫』としているが、実際の年齢は俺も知らない。
箒の柄先に引っかけたドーム状の鳥かごの中でぬいぐるみのように行儀良く四足を揃えて佇んでいるものの、その顔はなぜか、眉間に眉根を寄せていた。
《 相思相愛なのに付き合えないって、意味がわからん 》
「……ふむ」
もっともな疑問だった。
コイツが一般的な猫と違うのは、ヒトの言葉を理解し、特定の人間となら対話も出来ることだろう。その口調はこの通りオヤジ臭い。だがコイツの〝声〟は、特定の人間以外には、そこいらの猫と同じ、ただ「にゃあにゃあ」鳴いてるだけにしか聞こえない。
そのため傍目からは、コイツの口調がオヤジ臭いことなどわかるはずもないばかりか、むしろいまコイツと普通に話している俺の方がよっぽど奇妙に映ることだろう。
「つまりだな。告白そのものに対してはOK、だけど恋人同士になるのはNGってことだよ」
《 それくらいは俺様にも理解出来る。理解は出来るが納得がいかん。お前はそれで納得したのか? 》
「したさ。というより、するしかなかったんだ。このあと二人は、北海道と首都圏に離ればなれになってしまうんだから」
アルテには、いまのように何かしら疑問を持つと尻尾をハテナマークのように曲げ、解決するとビックリマークのようにピンと張るクセがある。これが意外と可愛いのだが、以前それをコイツに言って、顔を爪アートのキャンバスにされた過去がある。
以来、可愛いと思いはしても口には出さないようにしている。
《 別に離ればなれでも、エンキョリレンアイってやつをすれば良かったんじゃないのか? 》
猫の世界には遠距離恋愛など存在しないのか、言い難そうだ。
「彼女がそういうのを嫌がったんだよ。告白する前も、けっこうな遠距離だったから」
《 どっちも遠距離に代わりないならなおさら疑問だぞ。ただ単に距離が延びるだけの話だろ? 》
「物理的な距離が延びると、心の距離も延びるんだよ」
《 はんっ 》
真面目に経験則を言っただけだったのだが、何をキザったらしくばかなことを言いやがるとでも言いたげに、アルテは鼻息で嘲笑った。
「本当のことだぞ?」
《 そうなのか? 》
「そうなんだよ。ま、恋愛経験自体がないお前にゃわかるワケないよな」
《 む。失敬な 》
また眉根が寄った。さっきとは違い、嫌味を言われて癇に障ったようだ。
「なんだ、あるのか?」
《 う。……エンキョリレンアイの経験は……ない 》
痛いところを突かれたのか、答えに詰まって言いよどむ。
「はんっ、微妙な答えだな」
《 鼻で笑うな! 》
恥ずかしさをごまかすように怒鳴る。
「お前だってさっき、俺の経験則を鼻息であしらっただろう? お返しだ」
こんなに人間臭い猫はおそらくお前以外にはいないだろうし、見ているぶんにはすごく楽しい――なんてことは、口が裂けても言わない。言ったが最後、顔を爪アートのキャンバスにされるのがオチだ。
「けど、お前が言いたいこともわかるよ。一理ある」
《 ……ふん、まあいい。これ以上、よく知りもしないエンレン談義などしてもつまらん 》
「なっ……」
自分から始めた話であるのにもかかわらず、賛同の意思を見せたとたん、興味は失せたとばかりに言い捨ててそっぽを向いた。それを見た俺は文句が喉元まで出掛かったが、寸でのところで飲み込んだ。
《 と言うかだな 》
人間は、息を吸うと緊張し、吐くとリラックスするらしい。文句の代わりに息を吐くと、そむけたままのアルテの横顔に意地の悪い笑みが浮かぶのが見えた。
その瞬間、次に何を言うのかがわかってしまった。そうか、そこを訊くのか……まあ、そりゃそうだよな。
《 告白の答えだけでなく、告白そのものも知りたいんだが? 》「断固拒否する」
《 なんでだよ! 》
振り向きざまに投げられた想定通りの問いを、脊髄反射ばりのスピードで俺は打ち返す。するとアルテは、食ってかからんばかりの勢いで鳥かごの柵を前足でつかみ、俺に抗議した。
「恥ずかしいからに決まってるだろ。どうしても知りたきゃ、告白された方に訊け」
いや、それもダメだろ。
淡々と言い捨ててすぐさま、自ら墓穴を掘ったことに気付いて口を抑えたが、時すでに遅し。
ぽふ。
《 おぉ、なるほど。その手があったか 》
いったい何処でそんな仕草を覚えたのか、アルテは立てて握った一方の前足でもう一方の肉球を叩く。捨てた言葉を拾う間もなかった。
要らんこと言ったなあ……。
《 ちなみにそれは、お前の目の前でいいよな? 》
「いいワケあるかっ!」
アルテの妄言を一蹴してから咳払いひとつ、冷静さを取り戻して、ひとつの可能性を俺は口にした。
「たぶん、訊く前に向こうから話してくる」
《 なんだ、それは推測か? 》
「いや、予言だ」
《 そんなチカラも持ってたのか 》
「そんなにいくつも無理だよ」
《 でも予言なんだろ? 》
「推測かもな」
《 どっちなんだよ 》
正解はどちらでもない。別にどちらでもいいことだ。しかしこのやり取りが楽しくなった俺は、敢えてすっとぼけることにした。
「さあな」
《 はっきりしろよ 》
「そう苛立つな。どっちだろうと、会えばわかることだろ?」
《 ……ふむ。それもそうか 》
「ああ」
そう。会えばわかることだ。
この月明かりの中、思い出の丘の上で、彼女たちに会えば。