第5章 ~ 南中:准看護師の話。仔猫の秘密 ~
今から二年前の夏。
初めて上京した俺は秋葉原で璃那たちと二度目の再会を果たし、そのあと、交通事故に遭った。
事故自体は大したことではなかった。当日のSNS上でちょっとした騒ぎになり、翌日の朝刊の片隅に小さく書かれて済まされる程度のありきたりなことが、俺の身に降りかかったのだ。
幸い外傷はなく、命には別状なかったものの。それでも頭を打っていたので救急病院でMRIにかけられ、検査と問診の結果、脳にダメージを負っていて、後遺症が残っていると診断された。
すなわち、手足の痺れと部分的な記憶喪失が。それもなぜか、璃那に関する記憶だけが、俺の中から失われてしまっていた。
医者の話では、記憶喪失の症状でそういうことは特にめずらしくないらしい。皮肉な話だが、一番忘れたくない記憶が一番喪失しやすいのだそうだ。
それをきっかけに、俺はしばらく、悠紀と蒼依とともに生活することになった。
二人は俺の脳に負担がかからないように気をつけながら、璃那とのことを思い出させようと頑張ってくれた。だが残念ながら、大した成果は上がらなかった。
一方で、手足の痺れを治すリハビリは成果が上がり、ひとりでも普通に生活が出来るようになるまで回復した。その時点で、俺は地元へ帰ったのだ。
それが、今から一年前のこと。
「あのあと、徐々に記憶を取り戻していったんです」
「そうなんだ……よかった。本当に」
悠紀は笑みを浮かべてそう言ったが、それはいつもの無邪気な少女のような笑みとは違い、母性のこもった、慈愛に満ちた微笑だった。
「でも、いつごろから?」
そう訊いてきたのは、璃那だった。
質問したいのはむしろ俺の方だったが、取り敢えず今は答える方に徹することにした。
「コイツがひょっこりウチに現れたころから、少しずつだよ」
「アルテが?」
「うん」
鳥かごの中の仔猫を指さすと、悠紀が俺の肩に手を置いた。
「ねえ兎季矢くん。ずっと気になってたんだけど、その子もしかして……」
「悠紀姉、アルテを知ってるんですか?」
「アルテっていうのね。名前は今日初めて知ったわ。でもたぶんその子、みゃーこ先生のところの猫じゃないかしら」
悠紀が『みゃーこ先生』と呼ぶ人物に、俺は心当たりがあった。
「都さん、ですか?」
「そう、松下都先生」
* * *
みゃーこ先生こと松下都は、子供のころの俺の担当看護を自ら買って出てくれた女性だ。赤みがかった茶髪のショートカットで瞳が大きい美人だが、天真爛漫で明朗快活。そしてはた迷惑なほど世話好き。それでいて、説明のつかない不可思議な雰囲気をその身にまとっていた。
当初、俺はこの准看護師の厚意に嫌気こそ差さないまでも、心を開くまでには至らなかった――のだが。
それは、入院して二日目の夜に一転した。
その日、夜勤担当だった都は、消灯後の見回りで俺の病室に入ってくるとすぐに俺のそばまでやって来て、なぜか数秒の間を置いてから、寝ている俺を揺り起こそうとした。
「…………。――おっといけない。ときや君。とーきーやーくーん」
この個室は防音加工がされていて、ドアが閉まっていると音がほとんど外に洩れない。だからこんなふうに、どこぞの寝起きレポーターのように小声で話す必要は一切ない。
ちなみにこのとき。俺はまったく眠れていなくて、都が近づいてくる気配をしっかり感じながら、タヌキ寝入りを決め込んでいたのだが。
「ときや君、起きてるんでしょ? 子供のころからタヌキ寝入りなんてしてるとね、大人になったらタヌキになっちゃうんだよ?」
「…………」
本当に成人してからタヌキになってしまうかはともかく。俺は寝た振りを看破されていたことにため息をつき、仕方なく目を開けた。
「おはよ♪」
「……いいんですか? 看護師が、消灯後に患者を起こすような真似をして」
璃那と話していた時とはまったく別人な態度だが、こちらの方が、普段の俺の態度だった。ただ、このまるで蒼依のように冷やかで刺々(とげとげ)しい態度は別に不機嫌からのものではなく。いわゆる、ハリネズミのジレンマゆえのものだった。
「タヌキさんの寝顔が可愛かったって、教えてあげようかなと思って♪」
「…………おやすみなさい」
立てた人差し指を頬につけたポーズでウィンクされた。普通ならば可愛いポーズなのだろうが、懐中電灯であごの下から顔を照らしながらでは可愛さのかけらもない。実は喉元まで来ていた絶叫を無理やり呑み込むまで数秒かかり、そのままねてしまおうと、都に背を向けて掛け布団を肩まで引き寄せた。
「わーっ、冗談冗談っ。ほんとの用件はこっち」
慌てた都の方から、何やら金属が擦れ合う音がした。見るとそれは――
「……何ですか、それ」
「見てわかんない?」
「懐中電灯で照らしてくれないと見えません」
「ああっ、いつの間にかポッケに、先端に光る石が付いた棒がーっ!」
俺の返答を半ば無視しての白々しい棒読みゼリフに呆れながらそこを見ると。マジックペンほどの太さのペンライトが光っていた。
ちなみに、正確にはそこはポケットではなく都の胸元(もっと言えば、わざわざはだけさせた胸の谷間)だったので、すぐに体ごと目を背けた。
「……とりあえず、その光る石の付いた棒で、いま手に持ってるだろう謎のものを照らしてください」
「照れてる照れてる」
「…………」
図星だったが、それでかえって機嫌を損ねた俺は、背中越しに嫌味を言ってやった。
「……年端もいかない子供をオトナの冗談で翻弄するのが、ほんとの用件ですか?」
「精神的に年端もいかない子供は、そんな小憎らしいこと言わないんだけどなー」
「すみませんね、子供らしくなくて」
「ううん、それはいいんだよ。それがときや君らしさなんだろうからね」
「…………」
俺は目を見張った。誰かからそんなふうに言われたのは、それが二度目だった。
「でもごめんね。謝るから機嫌直して、これ見て?」
もう一度聞こえた擦れ合う金属音に体ごと振り返ると、今度はしっかり懐中電灯で照らしてくれていたので、はっきりと見てとれた。
「それは……鍵の束?」
「そう。ときや君、趣味が星見なんだよね? だったらこの時間に、それをするってのはどう?」
「……どういうことですか?」
「ふっふっふー」
「…………」
口を閉じてカーブを描くように口角を上げるという、どこか犬っぽい意味あり気な笑みに、正直、イヤな予感しかしなかった。しかし嫌がる間もなく「ついて来て」と半ば強引に手を引かれて、屋上に連れて行かれた。
そこで目にした満天の星空には、これ以上ない説得力があった。
その夜は上弦の半月のころで、月は宵のうちに沈んでしまっていたので月明かりはなく。それでも空いっぱいに瞬く星たちの明かりがそれに勝るとも劣らない、まさしく星月夜だった。
「どう?」
「どうって言われても……」
当時は、屋上に施錠がされておらず、昼間に屋上に出ることは特に禁止されていなかった。しかしさすがに、消灯時間後に屋上に出るのは、入院規約違反だ。婦長や担当医がそれを許してくれると言うならともかく、一介の准看護師に許すと言われても、にわかには信じ難い。
「この星月夜にはすごく惹かれますし、気持ちは嬉しいですけど……看護師さんにそんな権限、あるんですか?」
「そこは、企業秘密ということでひとつ♪」
「そんな、どこかの秘密工作員じゃあるまいし……」
正直、ウィンクしながらどこかで聞いたセリフを言った都は可愛かったが、それ以上に俺は呆れた。非常に魅力的な提案なのは間違いなかったが、たとえ権限があるとしても、タダでというわけではないだろうと思ったからだ。
「……何が条件ですか?」
「あらら、そう来たか。ときや君は本当に察しがいいね」
「ぼくの察しが本当にいいのなら、鍵の束を見せられた時点ですべてを察したでしょうし、看護師さんには負けます」
「落ち着いてるし、ボキャブラリーも、小学三年生にしておくのがもったいないほど多いわよね」
「小学校に上がる前から、本の虫でしたから」
「そっかぁ……。まあ、今はそれはいいや」
「?」
どこか引っかかる言い方だったが、それを訊き返す間もなく、都の話は続いた。
「これはルール違反だからね。ときや君が察した通り、おねーさんもタダで見逃してあげるワケには行かないわ。だから条件として――」
「……条件として?」
「私と友達になろう♪」
「…………」
笑顔で差し出された手を見つめたまま数秒間、何を言われたのかまったくわからなかった。
「はい?」
「だからこれからは、おねーさんのことは『看護師さん』でも『松下さん』でもなくて、『みゃーこさん』か『都さん』って呼ぶこと。それが条件♪」
「……それが条件、ですか……」
顔は犬っぽいのに愛称は猫みたいだなと苦笑したのは後日のことで。このときは、ただただ悩んだ。普通の子供なら、友好的な担当看護師とフレンドリーに接するのはどうってことないだろう。だが、決して友好的でも社交的でもなかった子供の俺にとっては、この上ない難問だった。
そこで助けを求めるように天を仰ぐと。星たちの瞬きが、まるで俺の背中をぐいぐい押してくれているように感じた。
「……わかりました。これから、よろしくお願いします」
そう言って、差し出されていた手をそっと握った。すると都は俺の手を強めに握り返して、なんと条件を付け足したのだ。
「あ、ですます調も禁止ね? 友達なんだから」
「ぅ……。わかりま――わかったよ。これからよろしく、みやこさん」
友達同士なのだからですます調は不要。一応、道理は通っていた――のだろうか。いま改めて考えると疑問だが、少なくとも当時の俺には反論の余地が見つけられなかったので、付け足された条件も渋々呑み、その代わりに握った手に力を込めた。
ささやかな抵抗のつもりだったのだが、都はそれを面白がって、もう片方の手を握手にかぶせるようにして俺の手を両手で握り、楽しげに言った。
「うんうん、やれば出来るじゃん。こちらこそよろしく♪」
* * *
それから後、都には本当に、いろいろとお世話になった。入院中、看護師としてはもちろん友達としても接してくれた。俺が退院した後、こちらからは連絡を取りはしなかったが、向こうからは不定期に電話が来て、彼女が、看護師を休業して猛勉強して医師免許を取得するまで、それは続いた。
さらにそれから後、一年間密かに心療内科に通う悠紀の担当カウンセラーだったとあとから知って驚いたことは、まだ記憶に新しい。
《 なんだ、ユウキもミヤコを知ってるのか? 》
しかしアルテの問いかけは、なぜかそのままスルーされた。
「兎季矢くんも知ってるでしょ? みゃーこ先生も、私たちと同じ能力者だってこと」
「え」
「え?」
文字通り開いた口がふさがらなくなった俺の反応が意外だったのか、悠紀は笑顔を崩さずに不思議がった。
俺は外れかかった顎を力任せに直し、力いっぱい言い放った。
「み、都さんも能力者だったんですかっ?!」
「知らなかったの?」
「まったく!」
しかし、そう考えれば納得のいく部分が、いくつかある。
「そうなんだ。じゃあこれも知らない? 兎季矢くんの入院中の一件に、みゃーこ先生も一枚かんでたってことは?」
「そうだったんですかっっ?!」
さらに驚いた。
当時の俺は手術を受けるのをしばらく嫌がっていた。そんな最中に璃那と出逢い、惹かれ、璃那と会うために都の助けを借りたこともあった。そうしていくうちに俺は心変わりし、手術を受けることを決意した。
しかしその日。すべては璃那の家族によってそうなるように仕組まれた計画だったのだと、璃那の口から告げられたのだ。
その計画に、実は都さんも絡んでいたなんて。
「そっか。知らなかったのね……バラしちゃまずかったかしら……でもまあ、もう時効よね、さすがに」
意外そうな顔から、気まずそうな顔をして、開き直った顔へ。傍目にはどの表情も全部にっこり笑顔にしか見えない人。それが他人の目から見た悠紀。
それでもさすがに一年も一緒にいると。それぞれの表情に微妙な変化があることに気づけるものだ。場違いと知りつつも、変に感心してしまった。
いやいや。そんなことよりこれを訊かねば。
「都さんが、あの件にどう絡んでたっていうんですか?」
「依頼者だったのよ。兎季矢くんに何としても手術を受けさせたいから助けを借りたいって」
もう時効だと開き直ったからか、悠紀は当時の裏話をあっさりバラした。
「依頼者って言ったって……繋がりは? 悠紀姉さんが都さんと知り合う前の話しですよね?」
「ううん? あれ、これも言ってなかった? みゃーこ先生はね、母さんの教え子なのよ?」
「……初耳です」
世の中って、どうしてこう狭いのだろう。だが、有り得ない話ではない。悠紀たちの母親は、俺がかつて入院していたころに医大で婦長をやっていたし、旭川医科大学看護学科主任講師の経歴も持っているのだから。
「と言うかむしろ、寝耳に水です」
「ああ。あれって目覚ましにちょうどいいよねー」
いきなりの話題の飛躍。悠紀をよく知らない人なら、ここで戸惑うか『そういうことじゃなくて』と返すところだ。それでも、慣れれば俺みたいに、
「実際にやったことあるんですか?」
と、まったく気にせずに飛躍した話題にそのまま乗っかることが出来るようになる。慣れというのは恐ろしい。
「ううん。やられたことは何回もあるけど。誰からか聞きたい?」
「大丈夫です。想像に難くありません」
一緒に生活していたころ、蒼依がほぼ毎日、水を汲んだヤカンを持って悠紀を起こしに行っていたからな。
「そんなこともあったわね」
当の本人が他人事のように言う。やられた方は覚えていても、やった方は覚えていないものだ。真逆の場合もあるけれど。
「でもみんな、アルテとは初めて会ったんですよね? 悠紀姉と蒼依にはまだちゃんと紹介してないけど、どの程度知ってるんですか?」
「わたしは全然知らなかったよ」
「あたしもあまりよくは知らないわ」
璃那と蒼依は都さんと接点が薄いだろうから、知らなくても無理はない。
「私は名前だけ知らなかったのよ。みゃーこ先生の付ける名前をことごとく嫌がってたみたいでね。診察に行く度に先生も『まだ決まってないのよー』って言ってたし」
「ことごとく、ですか」
「ええ、そうみたい」
どれだけ変な名前を付けていたのだろう。そういえば俺も、アルテがウチに住み着いて一年は経つのに、素性についてはまるで知らない。それどころか、知ろうともしなかった。
「じゃあ名前以外だと、どんなことを知ってますか?」
「んー……そうねたとえば、アルテくんが、ファミリアみたいな存在なんだってこととか」
《 アルテくん言うな 》
「ファミリア?」
残念ながら仔猫の文句は、馬の耳に吹いた東風のように悠紀の耳には通り抜けたようで、華麗にスルーされた。それはともかくファミリアって、アルトゥアミスよりは聞き覚えのある単語だけど……なんて意味だったか。
「聞いたことない? じゃあ、使い魔って言ったらわかる?」
「ああ。はい、それならわかります」
「ちょっと待って。じゃあアルテちゃんって――」
《 ちゃん付けもやめろ 》
すかさずアルテは抗議したが、またも華麗にスルーされた。ひょっとしたら悠紀や蒼依には、アルテの〝声〟が猫の鳴き声にしか聞こえていないのかもしれない。
ともかく。都が能力者で、アルテがその使い魔だということは。
「そう。アルテくんはみゃーこ先生がチカラで召喚した存在ってこと」
「召喚……」
となると、あの与太話も、俄然、信憑性を帯びてくる。
「そう言えばアルテ、俺様はアルトゥアミスの一族だ、なんて言ってたよね」
《 うむ、事実だ 》
思い出した璃那に、アルテは鷹揚にうなずく。毎度のことだが、なんでお前はいちいち偉そうなんだ。
「たぶん、半分は事実なんでしょうね。みゃーこ先生は昔からそういうの好きな人だったし」
「……確かに。ロマンの塊みたいな人ですからね……」
ロマンティストというなら俺も人のことを言えた義理ではないが、病棟の屋上で星見とか、光合成(という名の日光浴)とか、普通の人はまず思いつかないようなことを提案してくる人だった。風の噂によると、今でもそのまんまらしい。
「アルテが使い魔みたいなものってことは、コイツ自身にも何かしらの能力が?」
「みゃーこ先生が言うには、記憶障碍を抱えた人が記憶を取り戻す、その助けを促すチカラを持ってるんだそうよ」
「……何か、ものすごくピンポイントな能力ですね」
明らかに、俺の記憶治療に役立つチカラじゃないか。
「兎季矢くんの記憶が戻った理由、わかっちゃったわね。それだけ愛されてるってことじゃない?」
口の片端をつり上げて小悪魔っぽく笑い、そんなことを言う。
「勘弁してください」
「んふふー。やだ♪」
そうかと思えばこうやって、いたずら好きな子供みたいに振る舞うものだから、リアクションに困ってしまう。こうなったら、無理やり話題を変えるついでだ。璃那にあのことを訊こう。
「そんなことより、璃那」
「え? わたし?」
「そうだよ。璃那の方は戻ってるの? 俺との記憶」