フィリップ・ワーナー
レーゲナスの森は、魔の森と呼ばれている。エーテルの濃度が濃いため、生息する生物はかなり固有種が多い。森の奥は、人が生息できない過酷なエーテル濃度になっているらしい。
そのため、人が立ち入るのはほんの入り口だけ。調査は定期的に行われているが、わかっていることはほんのわずかである。
私は書棚にあった、一冊の本を取り出す。
そんな森に関する、貴重な調査レポートだ。書かれたのは、二十年ほど前。調査していたのは、フィリップ・ワーナー。当時の宮廷魔術師で、今はもう亡くなっている。たしか、レーゲナスの森で事故死したのではなかったか。
彼の調査は、レーゲナスの森全体であり、魔光蟲のみ注目しているわけではない。むしろ、魔光蟲は、森の入り口に多く生息している虫で、「光る」という一点を除いて、何も特筆すべき点はないというスタイルである。それでも、少なくともこの国において、魔光蟲について調査した第一人者だ。その特性から、数々の好事家が、研究の真似事をしてはいるが、彼以上に深く考察したレポートを読んだ記憶はない。
「室長」
不意にノックの音がした。レムスだ。
「入れ」
研究の報告にしては、早い。何か必要なものでもあったのだろうか。
「フェルダ公に仕えている、ディアナに会いに行きたいのですが」
「ディアナ?」
「ディアナ・ラグラン、元宮廷魔術師です。レーゲナスの森に入り浸って、首になった」
「ああ」
そういえば、そんな女性がいた。魔術師としては優秀だったが、仕事をしないのはどうしようもない。
宮廷魔術師は、宮廷にいてこそ、宮廷魔術師なのである。
「彼女であれば、我々の知らないことを知っているのではないかと」
「そうか。レーゲナスの森は、フェルダ公の公爵領地のそばだったな」
彼女がフェルダ公に仕えているとすれば、当然、研究を続けているだろう。
「なるほど」
私は手にしていた本に目を落とす。
「フィリップ・ワーナーの一人娘だったな……」
フィリップ・ワーナーは妻とともに早世。幼い子供は親類が引き取り、養女となったのだ。
すっかり忘れていたが、宮廷魔術師になったのも、父の追い求めていた謎を解き明かしたいからだと言っていたように思う。
「しかし、フェルダ公付きの魔術師となると、公爵の屋敷に住み込みだな。さすがにアポイントはとらねばなるまい」
私は呼び鈴に手をのばす。
「フェルダ公に連絡は私からとる。とりあえず研究室で待機していろ」
「了解です」
レムスが出ていくのを横目に、私はフェルダ公への親書を大急ぎで書き始めた。
公爵家からの返事は思ったよりも早く、しかも向こうが迎えの馬車まで用意してきた。
ひょっとしたら、今回の騒ぎのこと、公爵家が関係しているのかもしれない。レムスとジェシカを公爵家に送り出している間、私は二人に命じていた魔光蟲の分析を引き継ぐことにした。
とはいえ。サンプルが少ない。正常な森の魔光蟲のデータもない状態だ。かといって、やみくもに関係者を増やすのは、得策ではない。
まず、二人が捕らえた魔光蟲のサイズに驚く。フィリップ・ワーナーの調書のものとは全然違う。
数倍、それ以上あるだろうか。本当に、これはワーナーの調書のものと同じなのか。ひょっとしたら、亜種の可能性もある。
「グラームス」
事務長のマルダが顔を出した。マルダは、私と同じ年の管理職だ。彼がここに来るということは、事務員のほとんどが、既に帰宅してしまったということだろう。
「厨房から、保冷庫の調子が悪いという陳情が入ってきているんだが……」
「保冷器が?」
マルダは困ったように首をすくめた。
「こんな時間に、しかも忙しそうなところ悪いんだが、至急見てほしいそうだ。担当はレムスなんだが……」
レムスが外出していることは、マルダも承知だ。
それでもここに来たということは、先送りにできないという案件なのだろう。
保冷器というのは、食料の保存性を高める魔道具だ。厨房の道具の中でもかなり重要な道具である。皇族だけでなく、宮廷に勤める人間の健康を担う料理人にとっては、一刻を争う事態なのであろう。
「わかった」
了承してから、ふと、気づく。
保冷器は、魔道具である。
厨房は、ここから遠くない。ここのホールにいたのであれば、厨房に魔光蟲が入り込んだとしても不思議はない。
「マルダ、緊急事態の可能性がある。厨房周辺の人間を全員、私がいいと言うまで、避難させろ」
「え?」
「魔道具のトラブルの原因に心当たりがある。私の思った通りなら、非常に危険だ」
マルダは驚いたようだが、私の顔を見て状況を悟ったようだ。
「わかった」
頷いて、足早に部屋を出ていくマルダを見送ると、私は棚から魔道具のメンテナンス用品と、魔存器の準備を始めた。