ドライブ
・プロローグ
春のような恥ずかしさや初々しさは既にないが、夏のような倦怠感はまだない。今日の気温では、自転車を速度が出るように漕ぐと汗が滲む。さっき手を洗ったばかりなのに、既に手汗が滲んでいる。
下り坂を全速力で、足を休めず漕ぐ。東へ向かい、坂を下り、橋を渡ると直ぐに上り坂となるからだ。下り坂で速度をつけておけば、多少登り坂が楽になる。川沿いにある団地をちらりと見て、川のせせらぎが車の音で届かない橋を渡りきる。
やがて住宅街へと入り、橋の上の解放感はなくなってしまう。車の往来があり、人はいない。最近できたドラッグストアにはのぼりが立ち、駐車している車は少ない。無駄に広いそこに、おばあさんが一人杖を突き歩いている。
前を向き、揺れるスカートを気にしながら立ち漕ぎをする。周囲にちらりと目をやったが、車と人はちょうどいなくなった。再度立ち上がり、きつくなり始めた上り坂を必死に漕いだ。
・はじめ まして
アパートの前に着いて自転車をとめる。アパートの目の前の道路には、ただでさえ狭いのに車が一台停めてあり、自転車をぶつけないかひやひやした。私の住んでいるアパートには駐輪場はないため、アパート脇のスペースに極力邪魔にならないようにとめ鍵をかける。別に同じアパートの住民を信用していないわけではないが、万が一盗まれた場合、憤りを感じるし、新しい自転車を買うのは億劫だし、学校まで歩くのは怠いし、盗まれた自転車が見つかった際に警察から電話が来るのが嫌なだけだ。
ティンプルキーをかけ、階段を上る。階段は蜘蛛の巣や虫の死骸などで汚い。誰も掃除をしないからだ。私がやればいいのかとも思うが、なぜ私がという気持ちが全くないわけではない。私が綺麗好きであれば少しは違っていただろうが、生憎雑な性格だ。
家のドアの前も汚く虫の死骸や、小さな紙も落ちている。鍵穴に鍵を刺そうとし、手を止める。
「あれ…?」
そう声に出す。
既に鍵が開いていた。おかしいなという顔をして少しづつ扉を開けた。
玄関を入ってすぐのキッチンには、人が立っていた。見知らぬ男。ドアから入り込んだ西日に照らさた男の顔には驚愕が浮かんでいた。そして、その男の足下には、母が倒れていた。
見ると母は仰向けに倒れて、腹から血を流し、床に広がっている。顔には生気がない。床には血の付いた果物ナイフが転がっていて、血が広がりにより鉄臭さと、我が家に馴染みない匂いが立ち込めていた。
呆然と男と母がいる空間を眺め、何を言えばいいか、何をすればいいかを考えていた。
考えれば考えるほど何をすればいいか分からなくなってきた。この男はいったい何者か、知っている人物か近所の人か。同じアパートの住民ではないことは確かだ。
逃げるか男に立ち向かうか母に駆け寄るか…。どれが最善かを考えていると、男が動き出した。
手に持ったナイフを構える。
「静かに、下にある車に行こう。」
男は押し出すように言った。
彼の顔は先に見た驚きが少し薄れ、慣れないように私を睨んでいた。怖い顔。思わず怯む。逆らうと何をされるか分からず、私は素直に指示に従うことにした。
下に停めてあった車はこの男の車だったようだ。白の軽で、改めて見ると随分と年季が入っている。タイヤ周りは錆び付き、フロントガラスのワイパーが届かない所は汚い。デートにこの車で来られたら最悪だなと、こんな状況なのに思った。
私は助手席に座らされ、男はグローブボックスにナイフをしまいエンジンをかけた。狭い道路の為、大きな道に出るまでゆっくりと車を走らせていた。
近所の方々は見えず、住宅街である事が嘘のように静まり返っていた。いつもなら煙草を吸い、吸殻を側溝に捨てるおじいさんや、足の短い犬の散歩をするおばあさん、軒先で訛りのきつい言葉で話すおじいさん達などがいるが、今はそのどの人もいなかった。
彼は慎重な性格なようで、人が見えなくともゆっくりと車を走らせていた。住宅街でのお手本のような走行だ。
直ぐに大きな道に出る。すると時速60キロメートル程で走り、町中ではなく西へと向かっていた。
男はただ前を向いたり、バックミラーを見たりと落ち着きがなかった。
私はこれからどうなるのか、この男は何者か。様々な疑問が頭に浮かんでいたが何も言えずにいた。私が何かを言って、怒ったりパニックになられても困る。この場で私は冷静でいられて、彼は冷静ではいられていないようだ。しかし、得体の知れない男と二人きりというのは息が詰まる。なにか言わねばと思うと男がぽつりと呟いた。
「暑くないか?」
そう聞かれると確かに西日が眩しく肌に日が当たり少し暑い。素直に少しと答えると男は空調を少しだけかけた。
片側2車線の道から1車線の道に入り、車通りが少なくなったあたりで男が話しかけてきた。
「君は種田花枝さんの娘さんだろ?」
「そうです。娘の双葉です。」
「そうか、お母さんに似てるよ。制服を着ているから高校生くらいだろ?」
「はい、今2年生です。」
男は少し落ち着いたように見えた。運転に集中していて、少しは緊張が解れたのか。はたまたしばらく意図時に運転に集中していたのか。どちらかは分からず、もしかたらどちらも違うかも知れないが、最初見た怖い顔はもうしていない。
聞くなら今だと思い、質問をする。
「母とはどういう関係ですか?」
と聞く。男はさらりと答える。
「花枝さんとは小学校からの同級生なんだ。」
母の名前を知っていたからには知り合いであろうとは思っていたが、随分と昔からの知り合いだった。お母さんと同級生という事は今40歳か41歳だ。横顔をちらりと見たが、その歳と言われればそうとしか思えなくなった。最初見た時はもう少し若く見えた気がしたが。
「今日は、その、一体何が…。ええっと。私の家で何があったんですか?」
返事に困るだろう質問をすると、男は何を話そうか悩んでいるように片手はハンドルを握ったままで頭を掻いた。
やがてゆっくりと口を開き、話出す。
「一言で言えない事情があって来たんだ。その…、どこから話せばいいか…。」
そう言ったきり唸るばかりでやがて沈黙となってしまった。
少し質問を変える。
「今はどこに向かってるんですか?」
そう聞くと男は、少し明るい口調になる。
「別に君に危害を加えるつもりはない。それは信じてほしい。今はただ僕の地元の方に向かってる。南に方へ2時間ちょっとで着くんだけど、僕はさっきも今も慌てているんだ。パニックと言った方は良いかもしれない。」
一度話すと饒舌になるようで、続けて話を続ける。
「そこに目的があるわけじゃない。車を運転しながら考えをまとめたかったんだ。ある程度距離があって、道を分かっていて運転が楽、考え事や話ができるのが地元への道だっただけだ。」
「それじゃあ母の地元でもあるんですね。」
「そういうことになる。」
男は見た目では落ち着いたように見えたが、実際はそうじゃないようだ。喋り方も少し早口で、時折唾を飲み込んでいる。
「母の地元ならZ市ですね。2時間もかかるならゆっくりで良いです。状況を整理して…、その一言で言えないことを最初から教えてください。」
そういうと男は一瞬だけこちらを見て、また直ぐ正面に目を向けた。
「僕の名前は土谷 一。」
と言い直ぐに黙った。なにか頭の中で整理しているようだ。そして
「僕は話すことが苦手なんだ。だから本当に最初の最初、小学校の話から始めないといけない。」
と言った。私もこの人が今日に至るまでを知る必要がある。
「少し寒いな。」
と西日に目を細め、前だけを見ながら手探りで空調をスイッチを切った。
・S小学校殺兎事件
僕の在籍する学校は、人数がそこまで多くない学校で、1学年2クラスだけの学校だ。この辺りの他の小学校は1学年に3クラスや4クラスあるところもあるようで、僕のいる小学校は多少生徒が少ないらしい。
その中で僕は静かに生活している。特に本を読む事が好きだ。図書館で借りた本を読む事が多く、親に買ってもらった本を学校にもってきた事も多々ある。クラスメイトの男子が皆校庭で遊んでいても自分は教室に残っていた。かと言って女子と仲が良い訳でもない。男女どちらに話しかけたとしても、天気の話しかできない退屈な人間だ。
帰りはいつも1人で帰って、家に帰ったらテレビを見たり漫画を読んだりする。寂しいとは思わない。僕は1人が好きで、その時間が幸せだと思う。
たまにテレビで見る学園ドラマを見て、少し将来を不安に思う事はあった。しかし今は大して不安ではなくなった。中学校に上がって環境が変われば大丈夫、初めの瞬間を大事にすれば大丈夫、と今では思っている。
幸い、いじめというものの対象にはならなかった。そもそも僕の学校では顕著にいじめと言えるものが今の所ない。所謂、いじめをするような悪い人がクラスにいたならば、僕は真っ先にいじめられていると思う。顔は不細工だし、気の利いた話も出来ないし、助けてくれそうな友達もいないから。僕がいじめられていないということは、悪い人がいないということだと思う。
一人で寂しいと思ったことはあまりないが、時々どうしても周りと比べてしまう。周りには楽しく遊ぶ友人がいて、一人じゃできない遊びをする。鬼ごっこだとか、かくれんぼだとか、そういう遊びをしているのを見ると、どうしてもうらやましいなと思ってしまう。
そう、ぼんやりと考え事をしながら授業を聞いていたら先生に当てられてしまった。何も話せず黙っていたが、こんな恥ずかしい姿を笑い飛ばしてくれる友達もいない。
今日は午前授業で、給食を食べて掃除をしたら、1時過ぎには帰れる日程だ。僕は別段、用事はなかったけれど、給食を食べている時にクラスメイトは、誰の家に遊びに行くだの、コントローラを持っていくだの、そういう事を話していてそわそわしていた。僕は家に帰ったら最近買ったゲームでもしようかと考えていた。
給食を食べ終え、掃除の時間になった。掃除は一つのクラスから1人ずつ1班に入る。1年生から6年生が2クラスずつ合計12人一班で大体30班程あった。その班が担当区域を1カ月毎に変わっていた。
大体は1年1組を担当した班は、次の月に1年2組を担当するという規則性がある。一般教室を受け持つのは、次の担当区域も予想でき掃除内容も面白くない上、担任の先生が常にいるという圧迫感から更に面白くなかった。一方、体育館や音楽室などを担当すると掃除の仕方も普段使わないモップを使ったりと面白く、次の掃除場所が分からないドキドキがあり、たまに先生がいない場合もあり掃除が楽しかった。
今、僕の班が担当しているのは中庭だ。中庭は校舎に囲まれるようにあり、北側の校舎の教室の窓と、南側の校舎の廊下の窓から見える作りになっている。西側は昇降口で一階しかない。東側は渡り廊下があり、西と同じで一階分、時折窓から渡り廊下を歩く人が見える。この小学校は、上から見ると回の形をしていて、体育館が句読点のように南東にある。
中庭の小さな池のようになった所には魚もいる。魚に詳しくないので、鯉のようだと思うが実際は何かさっぱり分からない。もしかしたら、大きな金魚かとも思うが、その正体を知りたいとは思わない。
出入り口は西側にだけあって、西側の校舎には昇降口と中庭の入り口だけがある。その中庭の入り口がから10m先の左手にはうさぎ小屋もある。うさぎはよく地面を掘って、囲いの下をくぐって脱走していた。その際には、中庭掃除の班が脱走したうさぎを捕まえさせられていた。僕は未だ経験無いが、昔誰かがうさぎの脱走を見つけ、休み時間にかなりの大人数で探していた事があった。
今日は午前中で授業が終わってしまったため、掃除をしないでさっさと帰って遊んでしまえという考えの人が非常に多いようだ。先生は普段いないから大丈夫だろうと思ったのだろう。掃除に来たのは1年生と2年生の4人、3年生1人に6年生の班長1人それと僕の7人だった。班長の6年生も心の中ではさっさと帰ってしまいたいらしく、「今日は人も少ないし早めに終わらせよう」と言った。
僕はうさぎ小屋の前を通り、入り口脇の用具置き場に置かれた箒を手に取る。そのまま小道のようになったアスファルトの上に立ち、適当に箒でアスファルトの上を掃いていた。
中庭の掃除は今の時期、大して掃除としてすることがない。秋になれば落ち葉の掃除で忙しいと聞いたことがあるけれど、今は適当に竹箒でアスファルトを撫でれば掃除したと言える。
中庭には背の低い木がたくさんある。僕は草木にも詳しく無いのでこれが何の木かも分からない。僕の背よりも低い生垣のようなそれは、普段は葉が生い茂り幹や枝が見えない形をしている。しかし、何故か葉が押しのけられていた。人が押しのけたようにも見えなくはないが、僕には勢い良く蹴ったボールが当たってしまって、その木の中に入り込んだように見えた。とにかく、自然ではなく人の手で何かされたようだ。
うさぎは寂しいと死ぬとか、逆に可愛がり過ぎても死ぬとか、小学生の間には色々な噂が立っていた。そのどの噂が正しいか分からないし、実際にうさぎが死んでしまうところなど見た事がない。しかし、僕はうさぎの死体を見た。
不自然な木の葉の向こうには、うさぎが死んでいた。血で汚れてはいたが、ついさっき死んでしまったように見えた。まだそこに命があるように見える。
僕は思わず尻餅をついた。誰かに言わなきゃと思ったが、6年生が、「もう終わりにしようか」と、遠くで言い、皆ぞろぞろ西の校舎へ向かって行った。6年生は小走りで校舎へ入ってしまい、僕1人中庭に残る事がとても怖く感じた。
足早に箒を用具置き場に戻して、西の校舎へ入った。まだ廊下を掃除している人達にぶつからないように走り、教室へ向かう。
教室の掃除はまだ終わておらず、机に上に椅子を上げ全て教室も前に寄せられていた。僕は教室に入ることを少し躊躇うが、こっそりと入り後ろのロッカーからランドセルを取り出して背負った。
帰り道を一人、早足で歩き、踏切を過ぎ公民館の近くでさすがに疲れて歩調を緩める。うさぎが死んでいたことが、なんだか嘘のように思えてきた。きっと、今から学校に戻って、掃除の時に見たあの木の陰を見れば、変わらずそこにうさぎも死体があるだろう。
今頃、学校ではうさぎの死体が見つかって、大騒ぎになっているのではないかと不安になる。僕がうさぎに何かしたわけでもないのに、なぜ不安になってしまうのだろうか。どうしてと思うが、理由は見つからない。
道を右に曲がり、歩道のない道を歩く。
今日は午前授業だったから、午後に、掃除が終わってから中庭に人が入ることはないだろうと思う。
何も考えないようにと歩くが、どうもそれは難しい。家に帰ってやろうと思っていたゲームのことを考えようとしても、ずっと心音が収まらない。
小さな川をじっと眺めて、そこを泳ぐ鮠を見つめることで、他のことを考えないようにする。
家に帰っても、何も悪いことをしていないのに、ずっと悪いことをした後みたいな気持ちの悪さを感じていた。母親にどうかした、気分でも悪い?と聞かれ少し具合が悪いと嘘を吐いた。早めに寝なさいと言われ、見たいテレビが見れないなぁと一瞬思った。
翌日学校へ行くといつもと変わらない朝があった。いつも通りクラスメイトはざわついて、僕は1人ランドセルから教書やノートを机に移す。昨日慌てて帰ったため、教科書やノートが机の中に残っていて中身がいっぱいになる。
聞き耳を立てたが、誰もうさぎの話はしていないようだ。昨日からずっとそのことばかりが気になっている。誰がやったのかが気になるわけじゃない。うさぎを殺した人がいるということに、漠然と恐怖を感じる
朝の会になり、日直の進行が全て終わると担任の先生からクラス全員に話を始めた。
「今日の朝、用務員の先生が中庭でうさぎが死んでしまっているのを見つけました。」
僕は先生を見つめられず、机に目を落とし焦点は階下へと向かっているようになり、汗が滲んできた。
担任は最後に、
「何か知っている人は私でも、他の先生にでも良いので話してください。」
と言って話を終わらせた。
誰が殺したかは分かっていないが、誰かが殺したと思っているような言い方だ。
やはり、皆誰が殺したのか気になるようで、クラスのみならず隣のクラスや違う学年から話を集めて犯人探しを始めていた。
先生は殺されていたとはっきり言わなかったが、皆察しがついたようだった。どのように死んでしまっていたか、僕以外には誰も知らなかったようで、様々な死に方が噂として広まっていた。虐殺だと言う男子や、石を投げられ死んだと言う女子。各々が想像を口にすると、直ぐにそれが事実であるかのように広まった。
僕だけが事実を知っているから、周りが嘘を言う度、得体に知れない気持ち悪さを感じていた。皆自分が事実を知っていると思われたいようだ。嘘でも良いから注目を浴びて、クラスや学校の中心から外れないように必死なのかもしれない。
隣の席の関さんが、
「血がいっぱいで、死んでいたらしいよ。」
と前の席の日野さんと話していた。
日野さんは
「だとしたら絶対、誰かが手を出したよね。」
と言った。
僕は昨日のことを忘れようとしていたが、血があったのは確かで、覚えている。ただ、血の量が多かったかどうかは、正直覚えていない。多くなかったようにも思えるし、人によっては多いと感じるかもしれない。その噂を流した人は本当に死体を見たのかもしれない。
近くの席の大川君が関さんと日野さんの話を聞き、意見を言い出す。
「でも、昨日はいつもより早く学校が終わったから、皆が帰った後に学校外の人が学校に入って来たんじゃない?」
「確かにあり得るね。」
大川君の説を聞き、関さんと日野さんは納得したような声を出した。確かにあり得るなとも思うが、僕はそうじゃないと知っている。僕が昨日の掃除の時間、昼には既に死んでいたのだ。
昨日ほどの動揺もなくなり、冷静に誰の仕業かを考えてみる。担任の先生は今朝、用務員さんがうさぎの死体を発見したと言っていた。毎日、同じように中庭を見ているとも限らないが、もしそうだとすると、一昨日の朝にまだ死んでいなかったことになる。僕は一昨日も中庭を掃除していて、その時にはまだ死んでいなかったはずだ。それなら、昨日の朝から昼の掃除までだ。その数時間に何かがあったのは間違いない。もし先生たちや学校外の人であれば、人目に付き直ぐに怪しまれ今頃不審者を見たとか、あの先生が怪しいと話題になっているだろう。
中庭は北校舎と南校舎の間にあり、北校舎は教室の窓から南校舎は廊下から中庭が見える。北校舎には1年生から4年生までの教室があり、授業中も中庭の様子が分かる。誰かが居ればすぐに気づく。
そうすると、何かがあったのは2時間目と3時間目の間の20分ほどの休み時間が怪しい。20分の休み時間は業間と言い、半分ほどのクラスメイトは校庭で遊んでいる。もう半分は教室にいて友人同士会話している。中庭には木や池があるだけで遊具もなく、ボール遊び禁止されているため、そこで遊ぶ人は少ない。業間に誰か生徒がうさぎの死に関わったと考えるのが妥当だろう。
その考えを誰かに言うべきか悩むが、今流れている噂と混ざって、結果意味のないものになりそうだ。段々と、もしかしたら既に今流れている噂を全て信用しないようになるだろう。あまりに多すぎる情報に気付き、皆全て噂程度に考えるはずだ。それに、自分が犯人であるのを隠すために言ったと思われる可能性もある。
昨日の業間にいた生徒が怪しいことは確かだが、同時に自分も怪しまれる。それなら言わない方がマシだと黙っていることに決める。
「一君。」
決意した途端、後ろから声を掛けられた。
「今月、中庭掃除だったでしょ?何か知らない。」
「な、何も知らない。いつも通りだったよ。」
そう答えて、やっぱり嘘っぽい言い方だったなと自分でも気づく。話しかけてきたのはクラスの男子の智哉君で、普段は快活で進んで前に出るタイプの人だ。仲良く話すこともあまりなく、今の会話の前にいつ話をしたかと思い出そうとするが全然思い出せない。
そして、恐れていたが僕が疑われ始めた。今月が中庭の掃除当番であったことや、中庭の掃除の時の話を、智哉君に聞かれた時に戸惑い緊張してしまったこと、そしてやはり普段からクラスメイトと仲良くしていなかったため、どんな人間か理解されていなかった事が大きな理由になったようだ。
「お前がうさぎを殺したんだろ?」
と、クラスの男子に問い詰められた。
違うと言っても聞き入れてもらえそうもない。問い詰める人以外は遠巻きから僕を眺め、その目は疑いと怯えがある。僕が犯人である確信はないが、一番怪しいと思っている。そんな雰囲気を感じる。
勇気を振り絞り、彼の目を見て精一杯無実だと主張するように話す。
「僕は何も知らない。」
本当は皆が知らないことを知っている。嘘を吐いてしまうことになる。その動揺を隠そうとし、返って変な動きをしないかと変に力が入ってしまった。
「嘘だ。お前がやったんだろ!」
と、さっきから1人、僕に疑いをかけてくる、証拠を持たない刑事のような男子。名前は藤沢 圭太。普段からクラスの前に立ち、たぶん信頼もある。僕は圭太君について声が大きく体育が得意くらいしか知らなかったが、正義感も人一倍あるようだ。ただひたすら僕にとっては厄介だ。
「はやくそうだって言えよ!」
と苛立ち始めてる。少し体を強張らせて初めて圭太君の目を見たが、何故か泣きそうだ。
周りのクラスメイトは何も言えないようだ。圭太君の大声を遮って意見できる空気では無いし、根拠のない意見に根拠のない意見をぶつけても納得してくれないと分かっているのだろう。それに、今余計な口を挟むと圭太君の怒りの矛先が自分に向いてしまいそうだ。自分が大事なのだろう。
「おい!」
と僕の肩を勢いよく押した。運動神経の良くない僕は、よろけて体を支えようと机に手を置くが、バランスを崩し転んでしまった。がたがたと僕のではない机が倒れ、中の教科書とかノートとかが溢れる。じんわりと床についた尻の痛みを感じ、同時にこの机の持ち主には悪いことをしたなと思う。
圭太君は僕を転ばせようと押したのではなく、返事をしない僕に返事をさせたかっただけのようだった。何故転ぶと言わんばかりの驚きと焦りの混じった顔をしている。運動できる人の常識は少しズレている。
流石に周りも「何をそこまで。」という顔をし始めた。しかし、次に自分がそこまでされてしまう事を恐れているようで、やめなよと停止させる声は挟まれない。
「何で転ぶんだよ!」
圭太君は言ったが僕はそれを説明できない。どうにか言わないとまた突き飛ばされるような気がして、その場にうずくまる。体育座りの姿勢で顔を下に向けると、情けないからか怖いからか涙が出てきた。
それでも圭太君は何かを言い続けている。もう聞くこともできないで僕はぎゅっと目を閉じて、もうこれ以上涙が出ないように頑張ることしかできない。
どれ程そうしていたか分からないが、たぶん1分もなかったと思う。気づくと圭太君の声が聞こえなくなっていた。恐る恐る顔を上げるとそこには僕を見下ろす圭太君の顔があり、どこか僕を恐れるような目をしていた。
僕が圭太君にうさぎを殺した犯人と疑われてから、クラスのみならず学校中で犯人は僕だという事で解決したようだ。もううさぎに関する話はしなくなっているが、一か月経った今でもクラスメイトと僕の距離は開く一方だ。
元々、仲が良いとも言えなかったが、それでも嫌われることもない、良い距離があったと思う。それがここ一か月、まるで僕が存在しないように扱われる。皆、僕がうさぎを殺したと思っていて、怖いのだろう。僕を避けているというのがはっきりと分かる。
僕以外の日常は至って普通で、休み時間には笑い声が聞こえて給食の時には班で机を合わせる。それでもやっぱり、日々の学校生活の中で僕を除こうとしていることが伝わった。
授業中も普段通り、それ以外の時間も普段通り。前から僕が積極的にクラスメイトと関わっていなかったこともあり、今も前も客観的には大して変化が分からないだろう。クラスに在籍する生徒だけが、その確かな気持ちの違いをひしひしと感じている。
それでも犯人扱いに慣れてきた。皆から向けられる、決して好意的じゃない感情を受けるのは、少しつらい。でも、日常生活に大きな変化はなかった。靴を隠されるとか、馬鹿にされると言ったいじめのような行為はなかった。
帰り道、踏切の遮断機が下りて、遠くから貨物列車がやってくる。かんかんという音がうるさい。下校時間で、学校のすぐ東にある踏切に、小学生が溜まっていく。各々話をしていて、それに聞き耳を立てるのは悪い気がして、うるさいがかんかんという音に集中する。
遮断機が上がり、僕は踏切を渡るのをその場で待つ。他の小学生が一通り渡ったところで渡ろうと思う。集団の先頭を歩くのは、急かされているような気がして嫌なのだ。
溜まっていた皆が行ったかなと振り返ると女子が一人いた。目が合い、まずいと思う。同じクラスの種田花枝さんだ。クラスメイトは僕のことを避けている。直接文句や悪口を言われることはないが、気まずいし向こうにとっても良い思いはしないはずだ。
先に行ってもらおうかとも思うが、僕を追い越す気配もない。それなら僕が前を行こうと歩き出すと、声を掛けられた。
「ねえ。」
不意の出来事で、僕は振り返ったは良いが何も言えなかった。それでも花枝さんは、予め話す事を決めていたようでつらつらと言葉を出す。
「ごめんね。一君が悪くないのは分かってるよ。」
そう言われるが、最初何を言っているのか分からなかった。ややあって、うさぎの話かと思い当たる。皆、圭太君が僕を疑って以来、僕が犯人だと決めたようだった。
「なんでそう思うの?」
「そうなる理由がないでしょ?」
確かに、今僕が置かれている立場は理由がないもので理不尽なことだと思い出す。圭太君が僕を証拠がないのに疑い、それを皆が信じただけだ。
「うさぎ殺した奴と話すことねぇよ。」
そう言ったのは、いつの間にか踏切まで来ていた圭太君だった。僕は圭太君が怖く感じ、目が合わせられずにいた。
「いい加減、そんなこと言うのやめようよ。」
そう言う花枝さんの声は少し頼りなく、圭太君は聞いたりなんかしないと思う。案の定、彼は明らかに怒ったような顔になり、僕の前に立ちはだかる。
「お前がうさぎを殺したんだろ。」
僕のことを睨みつけて言う。
「違うよ、証拠もないのに疑わないでよ。」
圭太君は僕の胸倉を掴み、そのまま僕を押し倒した。僕は尻から倒れて、アスファルトにぶつかった衝撃で声を出してしまう。直後、倒れた僕を蹴った。
みぞおちに蹴りが入り、しばらくその場で悶絶する。圭太君はそれ以上何も言わずに、そそくさと踏切を渡って行ってしまった。
「本当にごめんね。」
何故か花枝さんがそう言って、僕を起こしてくれる。手を取って立ち上がり、尻についた砂をほろう。
花枝さんが僕を庇ってくれたことが嬉しく、その理由を聞こうと目を見る。その目がどこかで見たような怖い目で、僕はただ大丈夫という事しかできなかった。
・ヘッドライトにはまだ早い
そこまで話すと土谷さんは大きくため息を吐いた。
「最初はこんな感じだった。」
きっと、母とはその時以前にも話した事もあるだろう。しかし、今日の事に関わる最初の出来事がさっきの話なのだろう。
「どうして藤沢さんは土谷さんを疑って、母は疑わなかったんですかね。」
そう聞くと土屋さんは直ぐに答える。
「その日からずっと、その事を考える日が続いたよ。でも。」
そこで言葉を切り、一度悩んでから
「当時の僕は、圭太君が犯人を見つけてカッコつけたかったんじゃないかとしか、考えが至らなかったんだ。僕を犯人としてでっち上げてヒーローになりたかったんだと思う。」
と言った。
「小学生の男の子は、そうですね。ありえます。」
確かに、小学生の男子はそういう節がある。私も昔、馬鹿な男子が数人いたことを思い出し、話そうかと思ったがやめた。そこが本題ではないだろう。
土谷さんが母と同じ小学校だったということは、私が通っていた小学校と同じなのだろう。昔母に母校だと聞かされたことがある。
土谷さんは少し暑いなと呟き、冷房を入れた。
信号が黄色になり、私はこのまま突っ切ってしまうと思ったが、車は少し強引に止まった。慣性で上半身が前のめりになる。
止まっている車内は静かで、私は周囲の風景に目を向けた。小さなガソリンスタンドが斜め前にあり、客はいない。店員も外には出ておらず、閑古鳥が鳴いていた。
「嫌じゃなかったら、君の話も聞かせてくれないか?」
「え?」
突然、そう話を振られて何を話せばいいのか、少し考えが黙っていると土屋さんはその沈黙を勘違いしたように慌てる。
「嫌だったら良いんだ。ただ、僕だけ話し続けても退屈かなと思ったんだ。」
私が知りたいのは今日であり、私の過去を言う必要はない。
ただ、話した方が良い気がした。そして何より私は聞き上手ではなく、すぐに話をしたくなる性格だ。
信号が青に変わり、ガソリンスタンドを横切る。対向車は薄暗いライトをつけていた。それを見たからか分からないが、土谷さんも前照灯を一度カチリとつけた。
夕日はまだ眩しく、ヘッドライトを照らすにはまだ早い。
・滑り落ちた先は
席替えをした次の日は、自然と前まで自分の物だった机に向かってしまう。その机の上に既に自分の物ではない荷物があり、周りの友人の座っている席が違う事で、ああそうかと席替えを思い出し新しい席へと向かう。
新しい席は窓際の後ろから二番目で、最初はなかなか良いと思った。しかし、実際窓から見える風景は、向こうにある管理棟だけで面白くない。ちょうど向かいの管理棟には職員室があり、そうではないだろうが常に監視されているような圧迫感がある。
バックから教科書やらノートやらを取り出して机にしまう。バックを机の横にかけ、スマートフォンを取り出しぼんやりと見る。
新しい通知は何もなく、SNSでも見ようかと思ったがチャイムが鳴った。クラスメイトは静かになるが、担任はなかなかやってこない。教室の後ろにある戸にはめ込まれたガラスの向こうに隣のクラスの担任が現れる。その後隣の3組は静かになり、よく通る声だけが響き出した。
どよどよとクラスメイトが小さな声で話を始めた時に、担任が戸を開け教室に入り、静かになった。
放課後は部活動に所属していない私にとって、あまり意味を感じない時間だ。他のクラスメイトは何かしらの部活動に所属していて、今日も放課後に苦労や幸せを感じて所謂青春と呼ばれるものを作っている。
私は夕日が差し込む窓辺の新しい席で本を読んでいた。昼休みに読んでいたらのめり込んでしまい、どうしても学校で読み終えてしまいたくなった。家に帰ると家事をしなければならず、きっと集中力が欠けてしまうと思ったのだ。
教室に残るクラスメイトは時間と共に減っていき、私が帰る頃には誰も居なくなっていた。最後まで教室に残る事など滅多になく、やけに緊張してしまう。
電気は全部消せば良いのかなと教室の前まで行き、スイッチを押す。3つのスイッチを全て押すと教室内は想像以上に暗くなった。外はまだ夜とは言えないが、夕日も弱弱しく、夜の入り口と言ったところだった。
家に着いたら真っ暗かな。そう思い少し急ぐ事にした。それでも教室の戸は前後どちらもしっかり締め、指差しでよしと言いリノリウムの床を蹴り小走りに昇降口へ行く。携帯を取り出し時刻を見るとちょうど18時を過ぎていた。
未だに野球部の掛け声が聞こえて、なんだかこっちまで疲れてしまう。校庭にはサッカー部も居てなにやら楽しそうな声が聞こえる。遠くに見えるテニスコートに人はない、テニス部はさぼりか練習を既に切り上げたのだろう。
校舎や学校の入り口になんとか大会出場という垂れ幕や看板のようなものがある学校を見たことがあるが、うちの学校にはない。どの部活もそれほど強くないのだ。皆頑張っていても勝てないのなら悲しいが、どうやら趣味程度、思い出作り程度の部員が多いようだ。
いつも通る道でも時間帯が違うと別の道に感じる。いつもは朝か、帰りのまだ明るい内にしか通らない住宅街を歩く。
どこの家からか焼き魚の匂いがしてきてお腹が空く。秋刀魚を大根おろしと食べたいなと思うと、今度はカレーの匂いがしてきた。
カレーを作る、玉ねぎをじっくりと炒める時間が料理の中で1番好きだなと思う。いいや、どの料理でも玉ねぎを炒める時間が好きだし、人生の中でも好きだなと気付く。
誰かの家の玄関の前を歩くと、センサーに捉えられライトが点灯する。この家には用はないのに、無駄な電気を使わせてしまって申し訳ないなく思う。お客さんが来たと思い、家主が出てこないかと少し心配するが、私みたいな用もなく電気を点けてしまう人は大勢いるだろう。
不意に視界の隅で何かが動いた気がして顔を上げる。ぐるりと辺りを見回し、街灯が灯った事に気がつく。街灯が灯る瞬間は見た記憶がない。今は珍しい出来事であると思っているが、実際に目撃したら大して珍しいと思わず記憶に残っていないのかもしれない。
視線を下げて右手の家は、何故か玄関が開けっ放しになっていた。知り合いでもない人の家を勝手に見てしまった事が少し気持ち悪い。一瞬しか見てないのに覚えてしまうもので、自分の家より汚かったと思う自分が少し嫌に感じる。
住宅街を抜け、大きな道路に出る。横断歩道で立ち止まり左右を見る。時間的に車はひっきりなしで時間がかかるなと思うと左からきた車が停止線で止まった。そうするとこちらも止まらなければと右の車も止まった。
駆け足で道路を渡り、車の運転手に会釈をする。同時にわざわざ止まらなくてもと有り難迷惑のような気持ちになる。
道路を西に進み、右に曲がり少し歩くと家に着いた。鍵を取り出し開ける。母はまだ帰っていないようだ。荷物を置き、制服から部屋着に着替える。一通りの掃除をしようときめ、クローゼットの隅にある掃除用具を取り出す。
フローリングの埃を集め、棚を拭き、風呂掃除も兼ねてシャワーを浴びる。温度調整ができないので、お湯と水の蛇口を両方捻り、温度を調節する。手慣れたもので直ぐに適温になり、髪を洗う。肩ほどに伸びた髪を洗いながら、もう少し伸ばそうかと悩む。今くらいが髪を洗う時も、乾かす時も楽だが、もう少し伸ばしてみたいという欲もある。
別に今すぐ決断しなくてはいけないわけではないなと、考えるのをやめる。一通り体を洗い、浴室から出る。
首にタオルをかけ、化粧水と乳液を取り出し、ぺちぺちとつける。乳液のボトルが軽い事に気が付き、そういえば減っていたことを思い出す。ぶんぶんと振って、最後まで使い切る。
ドライヤーを手に取り、コンセントのある部屋の隅まで行く。プラグを刺し、その場に座り込んでドライヤーを当てる。タオルで水を取り切れなかったのか触ってみると、なかなか乾かないだろうなと思う。タオルで髪の水を一生懸命取り、もう一度ドライヤーを当てる。
まだ少し湿っているが、もういいかと乾かすのをやめ、ドライヤーを仕舞う。
布団に座り込み、そのまま目を閉じると眠気が襲ってくる。少し寝ようかと思うと、玄関からがちゃがちゃと音がして母が帰ってきた。
「ご飯にしようか。」
母がそう言って長袖を捲った。白い肌に何かの傷が残っている。母は昔運動していた時に怪我をしたと言っていた。綺麗な肌なのに、もったいない。私の腕に怪我はないが、綺麗とも言えない。
朝から走ると、今日1日の体力の配分が狂うから非常に困る。ただ私の寝坊が原因であるため、誰かに文句は言えない。
普段は自転車で登校しているのに、少しの寝坊と自転車のキーが全く見当たらずに走ることを決意したのはさっきのことだ。
幸い、今日は授業で体育がないため多少の無理は通る。スマートフォンを取り出し時間を見る。完璧に間に合わない時間ではない。
片側2車線の大きな通りに出ると、いつもなら私が通う高校の制服を着た生徒が何人も見えるが今は誰もいない。まずいな、と横断歩道の信号を睨む。一向に変わる気配はなく、車の往来もある。意味があるのか分からないがその場で足踏みをしていつでも走れる様にする。
信号が青に変わると同時に走り出す。ローファーの踵がどんどんすり減っている気がするが、構っていられない。
スマートフォンを取り出し時間を見る事すら惜しみ、かけて行く。
息が上がってきて、こんなに真面目に走ったことはないなと気付く。小学生の頃にマラソン大会だったか、持久走大会だったかで1キロメートルほど走ったことはあるが、その時も真剣ではなかった。学校外の田んぼをぐるりと巡る、たかだか1キロメートルを走って、持久力が身に付くわけもないとやる気がなかったことを覚えている。
そもそも長距離が苦手で、その大会が本当に憂鬱だった。当時は何の意味もないものだと思っていたが、今になって1キロメートルの基準がその時走ったコースになっていて、おおよその距離を把握するのに役立っている。その点では意味のあったものだが、それなら歩きでも良かった。
息を切らしながら昔のことを思い出すことで、スタミナの減りを感じないようにしている。
あの大会の時は、ゴールするとわざわざ順位の書かれた紙を渡された。後ろから数えた方が早いそれを、私は学校では捨てれずに家でびりびりに破いて捨てていた。
考えないようにしても、走っているうちは疲れていき、腹の奥のどこかが痛くなる。流石に我慢できなくなり、走っている足を遅め、歩く。はぁはぁと息を吐き、呼吸を整える。ゆっくりと歩くが、息切れは治らず、腹の奥は痛いままだ。それでも、走らないと間に合わないぞと気を入れ直し、再び走る。
教室に着くと同時にチャイムが鳴る。私は肩で息をしていて友人達は察し、「良かったね」、
「セーフ」などと声を掛けてくる。
私は返事をするのも辛く、片手を上げてそれに代える。
チャイムが鳴り、担任が教室に入ってくる時には多少落ち着き、最初の授業が始まる前に自動販売機で飲み物を買おうと決める。
今日の最初は現国だからそこまで大変ではない、むしろ気が楽な方だ。教室の時計に目をやり、すぐに担任へ戻す。別に大した話をしていないが、話をしている人の目を見て話を聞けと小さい頃怒られた記憶がある。
今となっては目を見なくても内容を記憶できるとも思うが、礼儀というものがこれかとようやく気付く。
担任が教室から出て、教室がざわつき出したあたりで自動販売機へ向かう事にする。
バックから財布を取り出し、ついでにスマートフォンと思い漁るが見つからない。いつもバックに入れるのにと思ったが、そうだ今朝は時間を気にしていたからスカートのポケットにあると手を入れるがない。はてブレザーの内ポケットかと思うが、ここにもない。少し焦り、パタパタと全身を叩く。
流石に挙動のおかしさに、後ろの席の矢中さんが声をかける。
「なんか失くした?」
図星の事を言われ、矢中さんはエスパーかと多少驚くが、こんな挙動は物を失くした時くらいだなと合点がいく。
「なんかスマホ落としたっぽい。」
「落としたの?家とかは?」
「いや、さっき学校来る時にスマホで時間見た記憶ある。」
「走ってきたみたいだったしね。じゃあ急ぎ過ぎて落とした事に気付かなかった感じか。」
「そうみたい。」
私は深いため息をした。
現代に生きる女子高生がスマートフォンを落としたのだから、それなりに「やばい」事態ではあるが、幸い私はそこまでスマートフォンに依存していない。小まめに連絡をする相手もいないため、数日くらいならなんとかなる。
ただ問題は個人情報だ。煩わしいとの理由からパスコードを設定していなかった過去の自分を恨む。自分の落ち度で自分の個人情報が流れるのは一向に構わない。
問題は友人の連絡先まで危険だという事。
この街にそこまで犯罪的思考に走る人がおらず、善意で交番に届ける人ばかりだろうと希望的観測をしつつ、1時間目に間に合うように昇降口までの道を探してみることにする。わずか10分程度の時間だが、探さないよりはマシだろう。
教室を出る。ざわつく廊下には数人生徒がいて、話も身振りが多くし朝から元気そうだ。そんな彼らの足元を念入りに見る。靴が汚いとか、意外と踵を潰して履いている人が多いなとか、下を向かなければ気づけないこともままあり、上を向いて歩くことだけが良いことではないなと小さく笑う。
一般棟から管理棟に向かう最中も床だけを見て歩く。すれ違う人に友達やいるかもしれないが、そんなことも気にしていられない。大事なスマートフォンがかかっている。
階段を一段一段ゆっくりと端から端まで見て下りる。踊り場に降り立つと、周囲を見渡すようにぐるりと回ってみる。階段の隅に埃が溜まっていて、掃除の怠慢を見つけるが、私はそんな姑のようなことをしたいわけではない。残り半分の階段も目を凝らして下りるが、目当ての物はない。
誰もいない昇降口の下駄箱に入れられた靴たちを見る。スニーカーやら運動靴やらローファーがあり、ふと新しい靴が欲しいなと思う。目線を下に下げ、また一つため息を吐く。あったらいいなとあまり期待をせずにいたが、なければやはり悲しい。昇降口の先のコンクリートを見るが、何も落ちていないようだ。
振り返ると掲示板があり、今月の予定が張られている。少し前までは部活動の勧誘のための張り紙が所狭しと張られていたが、今はその時期も過ぎ、すっきりとし過ぎている。普段は使われていないこの掲示板は、4月の部勧誘のためだけにあるのではないかと思い当たる。流石にそんなわけないと笑うとチャイムが鳴ってしまった。
放課後に念のため職員室に落し物としてスマートフォンがないか聞きに行ったが、案の定無かった。
せめてと朝走った道を、視線を下げながら歩く。時折ちらりと左右に目を向け、後ろを振り返ってみたりもするが、流石に時間が経ち過ぎたと諦めもある。あまり期待をしないできょろきょろとする。歩道には何も落ちはおらず、腹いせに小石をけ飛ばす。期待はしていなくても少しはがっかりしてしまう。
流石に届いてるだろうと交番に寄るが、届いていなかった。
これは探すのを諦めて新しいのを買わなきゃな。
そう思い、これからについて考えると一気に面倒くさくなる。とりあえず、今日は疲れた。明日の放課後に全てやってしまおうと決意を固め、遠回りしてしまった帰り道を歩く。
わずかな希望に縋り、今朝走った道を歩くが、やはり落ちてはいない。
夕日を遮る住宅街で下を向いて歩く。所々アスファルトが陥没している。砕けたアスファルトの破片を見て、私のスマートフォンも同じように砕け、ゴミとして片付けられたのではと思う。それなら見つけようがないし、諦めもつく。
家に着くまでに見つからなければ、そうなったのだと諦め、明日新しいスマートフォンに変えよう。まだ2年経っていなかったが仕方ない。母には申し訳ないが許してくれるだろう。
なんだか一気にやる気がなくなってしまい、猫背になりきょろきょろと歩く。
家と家の隙間から猫が現れ、私を見ると少し離れ、私が近付くと走って何処かへ行ってしまった。
曲がり角の左側は新しく家を建てていて、最近ようやく壁ができた。仮設トイレから嫌な臭いがする。排泄物だけじゃない臭い。臭いを消そうとして余計な事をしているのか、それとも。
息を止めて早歩きで通り抜ける。
昔そこは空き地だった。今考えるとこの住宅地で土地が余っていたのも不思議だ。車の出し入れが大変そうな坂の途中でも家は所狭しと並び、車がすれ違えない路地でも車の往来は多い。
今もまた坂の上から車が来て、私は端に寄る。すれ違いざまに運転手を見るが、会釈をするわけでもなく無表情でいる。
家に着くとドアの郵便受けからチラシが覗いている。
鍵を取り出し、ドアを開け、閉める。サムターンを回し、ドアガードをかける。
「お母さん ?」
声をかけるが返事はない。どうやら今はいないようだ。ドアガードを外す。
郵便受けを開け中身のチラシを取り出す。地域の広報やピザ屋のチラシに交じり、不動産のチラシがある。一軒家の写真を見て、こんな狭い部屋に住んでいる事に嫌気がさす。同時に価格を見てため息が出る。こんなお金、とても無理。
チラシを靴箱の上に重ねる。既に過去届いたチラシが積まれていて、崩れそうになる。面倒でいつもチラシを靴箱の上に置いてしまう。母も同じ考えなのか、どちらかが先にしたのを倣っているのか数か月分たまっている。いい加減捨てなきゃなと思う。玄関の脇のゴミ箱を置けばいいのかと気付く。せめて今日の分はゴミ箱に捨てようと山からチラシを取るが、雪崩を起こしてしまう。チラシをかき集め、開けた郵便受けを閉めようとし中にスマートフォンがあることに気が付く。
白の耐衝撃ケース。自分と同じスマートフォンケースだ。モデルの子が使っていていいなと思って買ったケース。
手に取り、画面を点けると私のスマートフォンと同じロック画面になる。指でスライドし、連絡先やアプリケーションを見る。
「これ、私のだ。」
今朝の行動を思い出すが、郵便受けには絶対に入れていない。
家を出てすぐに落として、お母さんが仕事に行くときにそれを拾い、私のものだと気づき、鍵を開けて家の中に置くことを面倒がり、郵便受けにいれたのかと考える。あり得ない話ではないな。
スマートフォンを操作し、何か操作された履歴がないか調べる。履歴を消されていない限り、電話もメールもアプリケーションも何かされた形跡はない、一応、明日友人に私から変な連絡がなかったか聞こうと思う。悪用されてなければいいなと願っていると、カメラとカメラロールが使われていることに気づく。
カメラロールを確認する。撮った記憶の無い一枚を調べる。すると、何故か今日の昼間に、私の家の玄関が撮られていた。
・夕日は得体の知れない影を落とす
話し終え、ちらりと土屋さんを見る。 土谷さんは真っ直ぐ前を向き、こちらに目を向けない。
信号に捕まると空調を切った。少し寒いと思っていたが、土谷さんもそう思っていたようだ。
「花枝さんの仕業じゃなかったのか?」
「違いました。」
「それじゃあつまり。」
土屋さんはそこで言葉を区切った。
そう、母の仕業でなければつまりストーカーの類だ。
土屋さんは明らかに動揺していた。なんと声をかければいいのかわからないようだ。そんなに私に気を使わなくても良いのに。
「その事件は解決したの?」
「これからさせます。」
信号が青になり、前の車のテールランプが消え走り出す。
対向車にチラリと目をやるとスーツ姿の男性だった。社用車のようで、車体に大きく社名が書いてある。社用車で仕事後会社に戻っている、そう予想を立てた。
他の誰かが私達を見たならきっと「高校へ娘を迎えに行った父」と推察されるだろうなと思った。きっと誰も殺人犯と死体第一発見者だとは思わないだろう。
夕日は山より少し上にあるが、まだまだ熱を持っている。助手席の私は大したことないが、運転席の土谷さんは日を浴び眩しいだろうし、暑そうだ。
大きく道が曲がり、その先に左手にコンビニが見えた。背の低い看板があり、奥には無駄に広い駐車場があり、全てに車が止まっていた。トラックが迷惑じゃないかと思う止め方をしている。
コンビニの先の信号が赤から青に変わった。タイミングが良い。
私は一度話をしたことで気が落ちついたようで、沈黙が嫌だったわけではなかったが、土谷さんは違ったらしい。
「僕が話さなきゃいけなかったんだ。」
そう少し恥ずかしいように笑いながら言った。
それは明らかに無理矢理笑ったようで、私はそれが凄く嫌に思った。
・揺られるからだとこころ
小学校では、あの一件以来花枝さんと関わる機会はなかった。少し話をしたりグループワークのようなもので一緒になったりと、あくまでクラスメイトとしての繋がりしかなかった。隣の席になる事はなかったし、同じ班に一回なっただけだった。
それでも僕は、なんだか花枝さんが気になってしまった。最初は「何故庇ったのか。」それだけ知りたかった。それを聞こうと思い毎日話しかけようとした、だけどその度、恥ずかしくて出来なかった。毎日彼女と話そうと思い、僕も男子で単純だったようだ。やがて気になっていった。
毎日目で追ったり、休み時間は誰といるかとか、放課後は何してるとか。今思うと少し気持ち悪いけど全てが気になっていた。
中学に上がると花枝さんとの繋がりは一切なくなった。小学校では2クラスだったが、中学校では7クラスになってクラスによっては教室のある階数も違った。一年生は全員南校舎の教室棟に押し込められ、1階が1組2組3組、2階が4組5組、3階が6組7組と分けられた。僕は7組で花枝さんは5組に振り分けられた。
全校朝会とか、学年集会とか、大勢が集まる機会で見かけるくらい。僕はいつも教室で本を読んでいたから、他の階の人と関わる事は一切なかった。階段を下りて誰かを見に行くような勇気は持ち合わせていなかった。
部活動に本当は入りたくなかったけど、学校側の方針で強制参加だった。運動は絶対したくなかったから文化部一択。そうは言っても文化部のバリエーションは吹奏楽部か美術部の2択で、僕は美術部の幽霊部員という3択目をとった。
花枝さんと同じ部活動にとも一瞬思ったが、彼女がどの部活動に入るかも知り得ないし、彼女はきっと運動部に入る。運動をしてまで彼女と同じ部活動には入ろうとはしなかった。
そうやって、のうのうと過ごしている内に中学校は卒業してしまった。一度も同じクラスになる事はなかった。
高校に入った時、少し、ほんの少し花枝さんが同じ高校に入っていないか期待したが、叶わなかった。僕は平均以上に勉強ができて、地域の進学校に進めた。そこで部活にも所属せずに、ずっと勉強をしていた。
小さい頃、僕は普通にみんなと接して一般を装える自信があったが、全能感による勘違いだったと気付いたのはごく最近だ。
高校生活も大した波もなく、呆けていると終わっていた。思い出し語る事もない。
駅のホームでそんな事を考えていた。
人生はどうあるべきかとか、何のために生きてるとか、そんな哲学的で誰かに頭を覗かれたら恥ずかしいことを考えていく内に、やはり僕の人生で1番の事件だった小学校殺兎事件を思い浮かべ、花枝さんのことまで考えた。
帰りの電車は始発駅から乗る。田舎の電車は1時間に一本あり、始発駅から乗る時はホームで並ぶ。そうせずに発車ギリギリに乗ると既に人が多く乗っており、時間帯によっては、都会の満員電車と大差ないんじゃないかという程の人が溢れる。僕の前には会社帰りらしきサラリーマンと寒くないかと不安になるスカート丈の女子高生が2人、これならこの時間でも座れると安心した。
雪がちらつき、寒いから早く電車がこないかと線路の向こうを何度も覗いた。暗闇が続きポツポツと灯りが見えるが、目が悪い僕はそれが花火のように見える。
アナウンスが鳴り、ようやく電車がやってきた。
ドアが開くと一気に人を吐き出し、やがて人を吸い込む。僕ももれなく吸い込まれ、1番端の席を陣取った。
発車まで20分程ある。リュックからペーパーバックを取り出そうとあさると、くしゃくしゃになった紙が現れる。そこには明後日が提出期限のレポート課題が書かれていた。そういえば前に講義でこの紙をもらい、レポート課題を出されたなぁと思い出した。
頭の中でどうレポートをどう書こうかと考えた。紙に書かれた文字数を見て、今日中に何とかなるなと思った。今日中に書いて、明日レポートボックスに出そう。そう思いレポートを書こうとして、やめた。電車でガリガリと課題をやるのは悪い意味で目を引く。僕には耐えられない。
当初の目的のペーパーバックを取り出し読み始める。栞を挟んだところから読み始めたが、前後を読んでも記憶になかった。ペラペラとページを捲ると40ページ程前にも栞があった。どうやら買った時から栞が2つ挟んであったようだ。紛らわしい。
一つの栞をリュックに入れ、続きを読む。しかし、ドアが開く度冷たい空気は入り込みなかなか集中できない。
時間帯は帰宅ラッシュと言え、ドアは開閉を繰り返す。その度寒い思いをしてようやくこの時期は端ではなく、ドアから1番離れた場所を座るのが正解だと気付いた。電車通学を続けて9ヶ月ほど経ったが、学ぶべき事はまだあったようだ。
顔を上げると立っている人と目が合ってしまい少し気まずい思いをする。ペーパーバックにも集中できないし、顔を上げることもできない。とりあえずリュックの中を漁ってみるが面白いものが入っているはずもない。
ドアは開閉を繰り返し、その度立っている人達が徐々に動いていく。
やがて人がいっぱいになり、電車は走り出した。膝の上に乗せたリュックからペーパーバックを取り出し続きを読み進める。物語は佳境で電車に乗っている内に読んでしまうと思った。電車は古館で停車しており、残り時間は1時間ほどで残りページは60ページ。急いで読めば間に合うだろうが、文章を雑には読みたくない。
小さくため息をし、ペーパーバックをリュックに戻す。ゆっくりと目を閉じて、微睡んでみようとする。周囲のざわめきが耳に入るが、何を言っているのかは分からない。電車の走行音により、人の話し声はかき消され心地よい揺れを感じる。寝過ごしてしまったら大変だと起きようと努めるが、一度眠気が襲われると抗うことが難しい。意識が曖昧になり、眠りへと落ちていく。
目が覚めると、電車はK駅で停車していた。
下車する駅まであと20分程度。起きた瞬間は寝過ごしたかと焦り、直ぐに窓の外へ目を向けた。そこに北上という文字があることに安心した。
周囲を眺めると大勢いた人たちはいつの間にか降りて行ったようで、少なくなっている。それでも乗車した人全員が座れるわけではなく何人かは立っている。スーツ姿の男性や、こんな時間でも学生服姿の集団がいて、疲れ切った顔をしている坊主の野球部員がいる。向かいに座っているスーツ姿の女性は眠ってしまい、隣の女性の肩にもたれている。その女性は灰色のコートを着ており、服装からして二人は他人のように見える。
他人に肩を貸す気持ち悪さを想像し、顔を顰める。それでいて上手に肩を返す方法もないから質が悪い。
窓の外の雪は降り続き、駅から家までの歩きが既に嫌になる。たまに見える街の灯りをぼんやり眺め、その灯りを必要とする人のことを考える。
座っている人達の視線は本に向いていたり、窓の外であったり、友人であったり、もしくは閉じている。皆、他人と目の合うことを避けているようだ。
僕も知らない人と目の合う気まずさを味わいたくはない。それでも僕は、同じこの車両に乗ってる人達はどんな人か気になる。根本的にどのような人かではない。信条だとか思考だとか、それを知りたいわけではない。どのような顔の人が、どのような服を着て、どのような姿勢でいるのか、それを知りたい。
同じ車両に乗るという共通の目的を持っている人の外側を知りたい。そのため、盗み見るように人を認識する。疲れた顔のサラリーマンや、派手な格好をした若者、顔を伏せ地味な服装の男性。どの人も記憶に残す気はなく、どういう見た目の人かと分かった時点で欲求は満たされる。
その中の一人が気になった。僕の左、斜め前に座っている。
その人は肩より少し長い髪で、明るい茶色のコート着ている。何か雑誌を広げ読んでいて、その顔をよく見てみる。
雑誌の内容が面白いのか、少し口角が上がっている。黒目が細かく動く、読んでいるのは漫画だろうか。
ぱたりと雑誌を指で挟んだまま閉じ、左手につけている腕時計を見ている。そのまま正面の窓から外を見る顔を見て、それが花枝さんだと確信する。
数年振りに見るが間違えてはいないはずだ。思わず目を逸らしてしまう。
小学生の時に、花枝さんがどうして僕を助けたのか、僕は花枝さんをどう思っているのか、また僕のことをどう思っているのか、そればかりを小学生のころから考えてきた。それなのに、なぜか僕は、花枝さんと偶然会ったらどうするかを一度も考えていなかったことにようやく気づく。
馴れ馴れしく声をかけても、僕に気づかない可能性もある。丁寧に話しかけても、忘れられていたら悲しい。どうすれば向こうに気づいてもらえるかを考えると同時に、自身が傷つかない手段を考える。心の中では、一番望ましい結果にならないことに気づいているが、なぜか希望を持ってしまう。冷静に考えれば分かる当たり前のことを否定したがる。それは興奮からくるものなのか、楽観的なのかは分からない。
それにどう声を掛ければいいのかも分からない。こんにちはなのか、こんばんはなのか、久しぶりなのか。
あまりじろじろ見るわけにもいかず、もどかしい気持ちになる。読む気のないペーパーバックを取り出し開いてみるが、目線は文字の上を泳ぐ。読もう読もうと思うが、読めるはずもなく花枝さんを見てしまう。雑誌は既に仕舞ったらしく、膝の上にバックがある。隣の男性が足を開いて座っていて、花枝さんは窮屈そうに足を閉じて肩まで狭くして座っている。
すぐにペーパーバックに目を戻して、しばらく時間が経つのを待つ。電車は徐々に速度を落とし、Z駅に着いて完全に止まる。
花枝さんを見ようと目線を上げるが、そこには空席があるだけだった。人を吐き出した電車は徐々に速度をあげ、その途中で窓の外に花枝さんの横顔が見えた。
昨日と同じ時間の同じ車両に乗っている。
今日は明るいうちに講義は終わり、真っすぐ変えれば日の昇っている間に家に帰れたが、電車に乗った時には真っ暗になっていた。冬は日の暮れるのが早く、17時には暗くなり、その頃に大学の図書館で暇を潰していた。適当に気になる本を本棚から取り、席について読もうとしたが全く内容が頭に入らなかった。
今日は花枝さんに話しかけようと思う。
そのため、昨日家に帰ってからそのことしか考えられなかった。今は電車の乗り、ずっと目を閉じイメージトレーニングをしている。
昨日の夜は話しかければよかったという後悔があるだけ、どう話しかけるかは考える余裕がなかった。呆然と真っ暗でもう寝るだけの空間で反省ばかりを考えていた。
今朝からはずっと最初の一言を考えている。久しぶりと言って覚えていてもらえなかったら話が続かない。こんにちはと言っても変な人と思われて終わり、返事もないかもしれない。そんなことを講義中も考えて、図書館で結論が出た。少し間抜けだが、最初に名乗ることだ。それで覚えていてくれれば、殺兎事件で僕を庇った理由を聞き、忘れられていればそれまでだ。ここまでの結論を丸一日かけた。
今日も居るとは限らないが、昨日と同じ電車の同じ車両に乗っている。電車は数分前の動き出し、目の前は人込みで花枝さんが居るのかどうか分からない。しかし、花枝さんの降りる駅はまだ一時間以上ある。それまでに気づけばいいのだと、今日も居る保証はないのだと目を閉じる。
気付いたら寝ていたらしく、慌てて窓の外見る。真っ暗な田舎の風景はどこも同じに見え、ここがどこか分からない。寝起きの頭で必死に考えるが、答えは出ない。
やがて街灯りの中に電車が入っていくので、ようやく今Z駅に向かっているのだと気づく。寝過ごさずに済んだと安心して、花枝さんを思い出し辺りを見る。
人は一気に減っていて、全員座れるほどになっていた。それでも立っている人は、Z駅で降りるために扉の前で準備しているのだろう。その人の中に花枝さんを見つけた。昨日と同じコートを着ていて、バックは違う。
電車が止まり、扉が開くと人を吐き出し、花枝さんも外へ出る。僕の降りる駅は一つ向こうだが、気づけば電車の外へと飛び出していた。
花枝さんは階段の上にいて、僕は少し迷っていた。いつの間にか寝ていて、心の準備ができていない。言うべき言葉は何度も確認したが、いざ本番となると緊張でどうしようもなくなる。
少し立ち止まり、何度も自分の名前を心の中で喋り、良しと勢いをつけて階段を駆け上る。上まで登り、向こうのホームへと続く通路も小走りで通り抜け、下りの途中で改札を通る花枝さんを見る。姿を見るとまた迷いが生まれるが、下り階段を滑るように駆け下りて、その勢いのまま改札まで走り、定期券を駅員に見せ改札を抜ける。
花枝さんの後ろ姿に近づき、今しかないぞと息を吸い、名前を呼ぶ。
「花枝さん。」
「花枝。」
僕と同時に、花枝さんの名前を呼ぶ男性がいた。花枝さんの後ろから声を掛けた僕の声は、思ったよりも小さな声だった。前からの声は僕のそれよりも大きなものだった。
その男性に花枝さんは笑顔で近づき、僕のことを見る。たちまち笑顔が消える。そのどこか怖さを感じる目を見て誰か気づく。
「圭太君。」
花枝さんが振り返り、僕と目が合う。驚いたような顔をするが、花枝さんの前に圭太君が割って入った。睨みつけるように僕を見るから、少し後退ってしまう。
「なんか用?」
そう聞かれて、言葉に詰まる。用がないわけではないが、それは圭太君にではなく花枝さんにあるのだ。なんとなく、小学生の頃を思い出してしまう。
「用がないなら帰れよ。」
今更だが、圭太君は僕のことを覚えていたようだと気付く。それに花枝さんも、あの驚いたような顔をした意味は、おそらく顔を見て僕だと気付いたということだろう。嬉しく思えるが、その花枝さんは圭太君が守るように遮り表情が見えない。
小学校の頃を思い出し、恐怖する。たじろぐと、圭太君は僕の胸倉を掴んだ。あの時と同じだ。
何を言うべきか悩んでいると、圭太君は舌打ちをした。そのまま僕を突き飛ばすと踵を返し、花枝さんと並ぶと、手を握り駅の外へと歩いて行った。
途中、一度花枝さんは振り向いたが、言葉を発することはなかった。
・逢魔が時
「その時、母に何故聞かなかったんですか。」
私が質問すると、土屋さんは真っすぐに前を見つめながら顔を曇らせる。そのあとすぐに前へ顔を戻す。
「小学校のあの一件以来、どうも彼が怖いんだ。彼だけじゃなくて、人もなんだか怖い。」
そう聞いて私も黙ってしまう。その沈黙を土屋さんは嫌に思ったのか、やや無理矢理喋り出す。
「会えた事は偶然だったんだ。本来、分からなかったことだから別にいいんだ。」
そう言うと土屋さんは空調をつける。信号に捕まり車が止まると、ハンドルから手を放し西の空を見つめている。夕日は山にかかり、数十分で暗くなりそうだ。
信号が青になり、前の車が進み出したことに気づかないため、教えようか迷った一瞬で前を向き直し走り出す。急いで発信したため少し車体が揺れる。
路側帯が広く取られた道路で、たくさんのトラックが路上で停車している。走っているトラックが多いなと思っていたが、この道は結構人気があるようだ。
・ドア
スマートフォンは午前中に新しい物に変えた。母に相談すると一日悩んだが、仕方ないねと許可が下りた。思い立ったら直ぐに行動する私は、平日には時間が取れずにもどかしく思いながら我慢し、休日の午前に変えに行った。
土曜日でも大抵の同級生は部活動があり、それなりに忙しく疲れると聞く。私は何の部活動にも所属しておらず、また今週末は珍しく課題が何もなく午後から一気に暇になった。
人と遊ぶことも少なく、今週もまたどうしようかと悩む。そういえば読みかけの本があったなと気付き、カバンから取り出す。今日はこれを読んで過ごそうと決める。
しかし、今日は朝から何も食べていない。冷蔵庫を覗くと食材は残っていた。野菜とベーコンがあり、パスタでも作ろうかと戸棚を覗くがパスタがない。それなら野菜炒めかと思うが、お米を炊かなければならない。お米があるかと確認するが、米びつにはほとんど残っていない。即席麵も今日に限って一つもない。
それなら、贅沢になるが外で食べよう。どうせなら本を読めるところで。たまの贅沢、許されていいはずだ。ならあそこだなと、カバンに本を入れ、靴をひっかけ外に出る。
自転車で行こうかと迷うが、今日は天気が良く、目的地まで距離がないため歩いていくことにする。アパートの二階にある自分の部屋から西を見ると、大きな山が見える。あの山がてっぺんまで雲に隠れることなく見える天気だと、不思議と気持ちが明るくなる。とても大きく見えるが、標高は2000メートルに達していないらしい。それなら富士山をちかくで見たらどれ程雄大に感じるのだろう。実際に見たいなぁと思うが、わざわざ富士山を見るために旅行しようとは思えない。
家の向かいでは近所のお年寄りが何やら話をしている。どんな話をしているのか聞く気がなくても聞こえてしまう。それがなんだか申し訳ない気がして、早足で車通りの多い道に出る。
住宅地を抜け大きい道へ出て、東へ歩く。少し坂道になっていて、毎朝学校に行くときは一日の初めから憂鬱になるが、昼間に歩くとそれほど気持ちには関わってこない。
今歩いている歩道の逆、南側には林が広がっていて、どこかへと繋がる小径がある。その林を少し西へ行くと果樹園のような場所があり、東はすぐに住宅地になる。林自体は大きくないとはずで、小径の先は誰かの家か、方角的に変電所へ続いているはずだ。それを確かめることはたぶん一生ない。興味がないし、知ったところで意味がない。
坂を上ると、左手に小さなコンビニが現れる。24時間営業ではなく、もう少し先にスーパーがあるため、あまり利用したことがない。駐車場も3台程度で店内も広くない。ただ自動販売機が4台くらいあり、たまに利用する。
さらに進むと大きなグランドが現れる。そこにある看板によると、離れた場所にある大学のグランドらしいが、ラインも引いておらずサッカーゴールも野球のベースもない。この場所で練習する人も今まで一回ほどしか見たことがない。ただ、家を建てる場所としたら、スーパーも近くコンビニもあり、バス停もすぐで治安も良い。この上なく良い場所で土地は高いんじゃないかと思う。
この何のために存在しているか分からないグランドを右手になるように曲がる。今日も人はおらず、ただ広い空間がある。
アパートや一軒家が多い場所へ入っていく。私の家の近くも、車一台しか通れない道やアパートに一軒家は多いが、昔からあるような住宅が多い。一方ここは新興住宅地のようで、新しくおしゃれな家に高そうな車が停まっている。家の並び方も、私の家の周りと比べ、規則正しいように感じる。
今周りにあるような新しい家はどうも生活感が感じられずに気持ち悪い。家の表は地域住民の目を考慮し余計なものはなく、家の中はカーテンで見えることがない。家壁も綺麗で本当に人が住んでいるのかと疑問に思う。
縦横真っすぐの住宅を北に進み、グランドが終わって二番目の十字路で右に曲がる。やがて住宅に挟まれた駐車場のある建物にたどり着く。一見、珍しい作りの家にも見えるがカフェである。周りの住宅と調和していて、ここの住宅街の奥様方にはさぞかし人気があるだろうなと思う。
玄関を開け入店すると、店員さんが迎えてくれる。この店は玄関で靴を脱がなければならない。スニーカーの紐を解きながら、もっと脱ぎやすい靴でくればよかったと後悔する。靴を脱ぎ、棚に置かせてもらう。自分の靴下を見て、ぼろくはないがもう少し立派な靴下にすればよかったと、もう一度公開する。
「いらっしゃいませ。お席はどういたしますか?」
「えーと…。」
言葉を濁しながら店内を見ると、3人の奥様がソファーに座り談笑している。本を読むなら座りやすいところが良いが、この店に一人で座れるソファーは一つしかなく、既に座られている。他にもソファーはあるが、一人で座るには大きすぎる。
「二階は空いてますか?」
「空いております。」
「じゃあ、二階でお願いします。」
「かしこまりました。」
店員さんに連れられ二階へ上がる。二人の若い女性二人が向かい合う席で座っている。その二人に背を向ける席を選び、メニューを眺める。店員さんは少し経ったらメニューを聞きに来ると一階に下りて行った。
この店は、このメニューを決める時間は意外と短くすぐに店員さんが戻ってくる。急かされるようにメニューを眺め、結局いつも通りワッフルとトリプルティーを頼むことにする。
本を取り出し、表紙を撫でる。丁寧に扱う性格からか、帯も取らずに読んでいても折れ曲がることがない。ブックカバーを付ける選択肢もあるが、人に見られたくない本を読んでいると思われそうで避けてしまう。そんなことを思う人などいないだろと思うが、隠すという行為に疚しさを感じてしまう。
本を、栞の挟んだページで開く。さて読もうと目で文字を追うが、読むのに熱中してしまい、店員さんが頼んだ物を持って聞いたことに気付かなかったら申し訳ないなと読むのをやめる。それほど熱中してしまうこともないだろうが、念のためだ。本の裏に書かれたあらすじを読み、今後の展開を予想してみる。物語は三分の二を過ぎ、終わりに向けて話をまとめている。意外な部分が伏線ならうれしいなと、ぺらぺら今まで読んだページをめくると、店員さんがやってきた。
後ろで話をしている二人に自分の声が聞かれるのが、なんとなく恥ずかしくて小さく会釈をしてお礼に代える。
手に持った本の中指を差し込んだページに栞を挟み、テーブルの汚れない場所に置く。トリプルティーをマドラーでかき混ぜ、ストローで一口飲む。フォークを手に取り、ワッフルを切り分ける。少しの贅沢で背徳感が生まれるが、えいとワッフルを食べ、美味しさだけで頭をいっぱいにする。
するべきことのない日曜日は昼間まで寝てしまう。結局布団から出たのは12時を過ぎていた。運動や疲れることをしていなくても熟睡はできるものだなと、のそのそ起き出す。
一通りの身だしなみを整え、お腹がすいたなと冷蔵庫を開けるが、食材はおろか飲み物すらなかった。代わりに机の上にはお金がおいてあり、飲み物と食べ物をかってきてくださいとのメモがある。母はどこかへ行っているようだ。
めんどくさいなと思いながらも、空腹には耐えられず着替えをする。近くのスーパーに行くだけだからと適当な服装を選ぶ。
空は一面灰色で、雨は降らなそうだがどんよりとしている。近所のおじさんが車から荷物を降ろしているのを見て、私も免許があれば便利なのにと思う。歩くことは好きだが、どうしても飲み物を買う時には歩きではきついものがある。リュックでも背負えば、少し楽になるだろうかと思うが、あいにく家にリュックはない。買い物のためにリュックを買うのも、なんだか馬鹿馬鹿しい。
車の通りの多い道に出て、東へ歩く。坂を上り、コンビニを通り過ぎ、グランドの前を通る。グランドの前にあるバス停には、おばあさんが一人バスを待っている。
今日のお昼は何にしようかと考える。総菜を買っても良いが、お米を炊くのがめんどくさい。そういえば、そもそもお米がなかったはずだ。弁当にしても良いが、そのまま温めると弁当の器が変形してしまう。それが怖くて、いつも皿に移して温めるが、それも面倒だ。それならもういっそ即席麺にしよう。それが楽で、まず美味しい。
グランドを通り過ぎ、北側の住宅街に入る。三回曲がると、スーパーが見えてくる。自転車置き場には、いつも同じ原付が止まっている。このスーパーの従業員の物なのか、誰かがずっとと止めっぱなしにしているのか、このスーパーに来るたび気になるが未だに答えがわからない。
入り口でカゴを手に取り、傍に掲示されたチラシを見る。今日は鶏むね肉が安いらしい。ついでに買っていこう。パスタかお米も安くなっていないかと眺めるが、残念ながら安くなっていない。それでも主食は買わなきゃなぁと、帰り道の辛さを今から想像し、憂鬱になる。
スーパーはそれなりに込んでいる。日曜の昼間は家族が多いように見え、レジも列が出来ている。まずは来店ポイントを貯めようと、それ用の機械へ向かう。おじいさんが使っていて、その後ろにカードを握りしめた小さな男の子がいる。その男の子の後ろに並び、財布からカードを取り出しておく。この店の来店ポイントは、一日一度貯めることができる。小さな機械にカードを挿入するとスロットが始まり、絵柄が揃うと2ポイント以上貰える仕組みで、揃った絵柄によってポイントが違い最大5ポイントだ。絵柄は揃わなくても1ポイントは貰える。5ポイントは滅多に出ず、今まで2回だけ出た。
ちらりと前の男の子のスロットを盗み見る。すると5ポイントの絵柄が揃った。これはお母さんに良い報告ができるだろうなと思うと同時に、直後の私は絶対5ポイントは出ないだろうなと諦めが生まれる。
男の子が駆け足でどこかへ行き、私は機械にカードを飲み込ませる。スロットが始まるが、期待は一切ない。こういう欲がない時は良い結果になるんじゃないかと一瞬前向きになるが、結局1ポイントになった。
来店ポイントも小さな楽しみになっていることに小さく笑い、即席麵が陳列されている棚の前に行き、一通り見る。さてどれにしようかと悩み、結局最初に気になったそれを手に取る。しかし手に取ってみて、やっぱりいつも食べるやつが良いかと悩む。いつも食べるやつを左手に取り、唸る。どちらも陳列棚に戻して、腕を組み、また唸る。二つに視線を交互にむけ、その間にある三つ目の物を手に取る。最初に手に取った二つを見て、今手に取った即席麵が一番美味しそうに思えて、結局それにする。最初に悩んだそれらですらなくなり、優柔不断も困ったものだなと自分の性格を嫌に思う。
精肉コーナーに行き、作るメニューを考えず適当に鶏むね肉をカゴに入れる。野菜も適当に取りカゴに入れ、ああそうだとパスタを取る。無くなっていた調味料はないかと考えるが、思い出せずに諦める。ペットボトルのお茶を2つ買おうとして、帰り道のことが頭を過り、1つにする。そういえば麦茶のパックが去年買ったものが余っていたなと思い出し、ペットボトルのお茶を買わなくてもそれにすればいいかと思うが、無かった時に後悔しそうだとペットボトルをカゴに入れる。
レジには列が出来ていて少し退屈する。スマートフォンを取り出そうとポケットに手を入れるが、どうせ誰からも連絡がこないだろうと家に置いてきたことを思い出す。バックアップを取っていなかったため、連絡先が全て消えて人から連絡が一切来ないものになってしまったが、元々人からあまり連絡が来ないから大して気にならない。
持ってくればよかったと後悔するが、レジ待ちでスマートフォンを見る若者は端から見ると、いかにも現代的で気味が悪いなと思う。
レジに並んでる間、他の人はどうやって時間を潰しているのか気になって辺りを見回す。しかし、多くは家族で並び話をしていたり、カップルと思しき男女が仲良さそうに笑顔でいるだけで参考にならない。一人で来ているおばあさんはいるが、呆けたようにスーパー前の道路見るだけだ。私と同年代くらいで一人で来ている人は一人もいない。
結局、何をすればいいか分からず、カゴの中を見て買い忘れた物がなか確認することにした。
スーパーの前の狭い道は意外と車通りが多く、歩くのが少し怖い。きっと、この道を通る車はスーパーに来る車ばかりなのだろう。本当にこのスーパーは立地が悪い。車通りの多さと道路の広さが合っていない。私が車に邪魔になったら悪いなと、何度か後ろを振り返る。時折車がすれ違い、私は小走りに距離を取ったり、立ち止まり過ぎるのを待つ。
振り返ると帽子を被った男性が目に入る。私が車に気を使い歩いているのに対し、その男性はあくまで歩行者優先だという態度なのが分かる。
車通りの多い道路に出て、西へ歩き出す。グランドの前を抜け、バスを待っていたおばあさんがいたことを思い出し後ろを振り返る。そこにはおばあさんの姿はない。時間としては20分ほど経っており、無事バスに乗れたんだなと安堵する。
それと同時に、まだ後ろに帽子の男性がいることに気づく。スーパーの前から後ろにいるが、手ぶらでいるため散歩の最中かもしれない。
前後に人がいると落ち着かない。特にも後ろに居られると、圧迫感があり苦手だ。散歩ならこのまま大きな道を進むと思い、途中で家には通じていない右脇の住宅街へ続く道に入る。しばらく進み、左に曲がってもう一度左に曲がって元の道に戻る、そうやって時間を稼いで帽子の男性に前を歩いてもらおうと算段する。20メートルほど進み後ろを振り返ると、帽子の男性もこちらへ曲がってきた。
この先にある誰かの家に用事か、それとも自宅があるのだろうか。不意にもしかしたら私の後をついてきているのかと不安になる。そして、先日のスマートフォンを落としたことを思い出す。母の仕業ではなかったため、お隣さんの親切かと思ったが、やはり気持ち悪さは感じていた。もしやという思いが一気に頭を支配する。
もう一度左へ曲がり、直ぐにまた左へ曲がる。いたって沈着冷静を装い、手に持つスーパーの袋を右手から左手に持ち替え大きな通りに向かう。右に曲がりようやく正しい帰路に戻る。坂を下り始めてからちらりと後ろを見る。
まだいる。これはもう自意識過剰ではなく私を追っていることに間違いない。どうしよう。このまま真っすぐ家に帰っていいのだろうか。しかし、人がいる場所はこのまま真っすぐ西へ歩くと10分程かかる。家には1分もかからない。
このまま車通りの多い道を歩いていれば襲われたりはしないだろうが、時間がかかりその間の恐怖に耐えられる気がしない。それに手に持ったレジ袋の重さにも耐えなければならない。しかし、家に帰ると家がばれてしまう。
いや、スマートフォンを郵便受けに入れ、玄関の写真を撮ったのが今後ろに居る帽子の男なら、家はもうばれているはずだ。それなら家に籠城してしまおう。二階だから窓を割って入ってくる恐れもないし、玄関は鍵を掛けてしまえば人力で開けることはできないだろう。
後ろから聞こえる足音に注意しつつ、なるべく帽子の男にこちらの考えを悟られないように歩く。そう考えると正しい歩き方が分からなくなる。自分では自然な歩き方をしているつもりでも、他人から見たら不自然かもしれない。左手に持っているスーパーの袋を右手に持ち替える所作も、なんだかたどたどしい。
右にある自動販売機を見つつ、角を曲がってすぐ隠れてやり過ごすことも考える。この先を右に曲がって走って、誰かの家の敷地にお邪魔して隠れる。
でもそれにはリスクがある。私は近所の家の庭や敷地内を把握しておらず、隠れられる場所がないかもしれない。隠れるのにもたついてる間に追いつかれるかもしれない。追い詰められて、出口がなくて逃げることは難しいかもしれない。流石に民家まで追ってはこないかも知れないが、とにかく人の家に行くのは追っている相手がどんな人物か分からない以上最善ではない。隠れている時に、その家の人に見つかったらその人も危険に晒されるかもしれない。他人に迷惑はかけられない。
やはり目指すべきは自宅だ。右の小さな道に入ると、もう自宅は50メートル先だ。家に着く前から鍵を取り出し右手で握りしめる。その急いでる様子に気づかれないように細心の注意を払いつつ、歩く速度もなるべく変えずに歩く。
直ぐ左に住んでいるアパートが見える。後ろを振り返るのは怖くてできない。足音は変わらないため、恐らく最初から間の距離は変わっていないはずだ。アパートの階段の一段目に足を乗せ、一気に駆け上がる。極力足音が響かないように気を付け、家の扉の前に着き、飛び付く様に鍵を差し込みサムターンを回す。急いで中に入り扉を閉め、サムターンを回し、ドアガードを掛ける。ゆっくりと手に持った荷物を床に置く。
鼓動が早い。胸に右手を当てる。そうしないと鼓動が漏れて、扉の向こうにまで聞こえそうに感じる。左手は口に当てる。そうしないと乱れた呼吸が扉の向こうにまで届きそうな気がする。
靴を脱がずに玄関でしばらく身動きを取らないようにする。耳を澄ませるが、何も聞こえてこない。誰かが来たならば、階段を上る足音が聞こえるはずだ。今はそれが聞こえない。ただ、足音を殺して登れば、階段を上る音は部屋にいる私の耳には聞こえないかもしれない。試したことがないため、音を立てず2階へ上がれるかもしれない。
ドアスコープを見る勇気もなく、ひたすらその場で息を殺し聞き耳を立てる。せめてなにかと、靴棚に吊るしていたビニール傘を右手に取る。
ビニール傘を両手持ちに変え、腰のあたりで構える。入ってくるはずはないが、ドアに向かって刺突するようにする。
どれほどそうしていただろうか。意味がないと分かっていても、音を立てないように傘を元の場所へ戻す。一度、静かに深呼吸をする。靴を脱ぎ、床に足をつける。
ふと、普段は使わないインターフォンの存在を思い出す。電話の受話器のような形をしていて、外にいる人と会話ができる。こちらが黙っていれば、外の音を聞くことができる。
ゆっくりとインターフォンを耳に近づける。声を出さないように気を付け、音を聞く。聞こえる音はさあという音と風が吹く音だけで、人がそこにいる気配はない。安心してふうと息を吐く。
途端、激しく玄関のドアノブが回される。がちゃがちゃと音を立て、手に持っていた受話器が滑り落ちる。その場にへたり込んで、ずっとドアを見つめる。本当に恐怖を感じると、取り乱したり叫んだりはせずただ茫然としてしまう。ずっとドアを見つめ、何をどうするか考えることができない。
ドアノブは激しく動き続け、私は咄嗟にキッチンの果物ナイフを手に取る。これは正当防衛だと自分に言い聞かせ、立ち上がり腰の位置に構える。
やがて音が止み、ドアを開けて人が入ってくることはなかった。階段を下りていく足音が聞こえてもずっとその場にいた。
果物ナイフをキッチンに戻し、インターフォンも元に戻す。レジ袋から買ってきた物を冷蔵庫に入れるが、まともな思考はできない。ぼんやりと手を動かし、買ってきた物全て仕舞うとその場にぺたりと座り込んでしまう。
冷蔵庫の稼働音が響く部屋に、どこかからごうっという重い音が届いた。体をびくりと強張らせるが、近くで発した音ではないようだ。どこかで事故か工事でもあったのかと
思っていると、屋根と窓を雨が打ち始めた。それでようやく、さっきの音が遠来だと気付いた。
そんな場合ではないのに、洗濯物を干さなくて良かったなどと思った。
・遠くまで見据えて
左右田んぼに囲まれ、雪除けが立っている道を走る。今まで通った道と違い、最近できたようで新しく滑らかな道だ。見える限り一直線で前に遅い車もおらず、信号も少なく走っていると心地良い。運転するとさらに気持ちが良いだろう。
信号が赤になり、ゆっくりと車は止まった。
「随分と怖い思いをしたんだな。」
土屋さんは真っすぐ前を見ながらそう言った。私は土屋さんの顔を見る。本人がそう言ったように整ったとは言えない顔は、表情の変化が乏しく感情を読み取ることが難しい。さらに横顔では、何を考えているのかわからない。ただ真面目にハンドルを握り運転しているようにしか見えない。
それきり土屋さんは黙ってしまった。
辺りは暗く、街灯のオレンジとヘッドライトの灯り、遠くに民家の灯りがぽつぽつ見える。信号が青になり、車はゆるゆると走り出す。ひたすら車は南下している。標識によるとここはK市のようだ。ここまで1時間と少しかかったが、Z市に着くにはあと40分も掛からないだろう。。
通り過ぎる車も全てヘッドライトを点けている、この道は対向車がなければハイビームにした方が良いと思うが、車は引っ切り無しにやってくる。
・まずはこんにちは
慣れる慣れないは別にしても、長いこと同じことを続けていると、作業をしながらでも考え事ができるようになる。それが慣れだと言われれば「なるほど、そうか。」と納得してしまうが、「本当にそうか?」と聞かれたら少し悩む。
慣れというものがどのようなものであるか、それによって答えが変わる。慣れが失敗をしなくなるものだとすれば、僕は仕事に慣れたとは言えない。確かに始めたばかりの頃と比べれば失敗は少なくなった。それでも失敗はなくなることはない。当たり前ではあるが、それでは慣れたとは言えない。
もし、慣れとは失敗の少なくなるとを指すのであれば慣れたと言える。しかし、僕は慣れとは前者のようなものだと思う。それに僕は、仕事を始めた当初から失敗が多かった。今でこそ失敗は少なくなったが、人と比べれば今でも多い。それで慣れたなどと言うのは馬鹿な話だ。
僕の同僚の仕事ぶりを見ると「それが慣れだ。」と言い切れる姿をしている。僕はその同僚の働く姿を見続けることが悔しいのか悲しいのか、嫉妬に最も近いであろうそれを感じてしまいできない。きっと僕は周りには邪魔だとか役立たずだとか思われているだろう。それならせめて、極力、失敗や余計なことはしないように注意している。
今日の市役所には人が多い。たまに、理由もなくいつもより込む日がある。どうやら今日がその日もようだ。頭の中で、近日中にあるイベントなどを思い出そうとするが何も思いつかない。なにか忘れていない限り、今日はたまたま人が集まったようだ。
なにか込む理由がある日は覚悟をして業務に臨めるが、今日のような日は心の準備ができず苦手だ。住民対応では、最近ではマイナンバーカードの交付も始まり、忙しさが増している。
マイナンバーカードを受け取る住民はそれほど多くないだろうと予想していたが、それは外れ予想以上の人が訪れた。他の自治体では大したことのない人数で、とりわけここM市民がマイナンバーカードを欲しいと思ってるのかもしれない。
マイナンバーカードの交付には交付通知書というはがきと通知カード、そして本人確認書類が必要になる。それらを理解して持ってくる人には素早い対応ができるが、どちらか一方を忘れる人がいる。そういう人は大抵、せっかく平日に時間を作ってきたのにという顔をする。それを見ると、僕もなんだか申し訳ない気持ちになる。
さらにパスワードを決める時の老人に困ることがある。旦那の誕生日にしているといらない報告をする人がいれば、どういったものがいいのかと相談する人もいる。僕はしないが、その気になれば悪用できるなと思う。オレオレ詐欺、最近では母さん助けて詐欺と名前を変えたらしいが、前のほうがよかった。それはまた別の話で、その詐欺に引っかかる人は本当に居るのかと疑っていたが、最近になってあり得る話だと気づいた。やってくる老人たちと話していると、簡単に騙せるだろうなと思ってしまう。
この仕事を始めた時は、住民対応は自分に向いていないと思っていたが、最近配属されて業務をこなすと思っていたより大変ではないと分かった。クレーマーのような人が多いような気がしたが、実際はそのような人はごく稀で、より多くて苦労するのは方言がきつく耳の遠くなった老人の対応だ。会話が成立しないことも多く、なにをしたいのか理解するまで時間がかかる。
今日の午前中にも老人の対応をしたが、骨の折れるものだった。相手は丁寧に話をしているつもりでも、方言交じりで話すため、ところどころ意味が通じなかった。何度も聞き返すのも申し訳ないが、間違った認識で話を進めるわけにもいかない。何度も聞き返し、理解するまで随分と時間がかかった。
午後にも人の多さは変わらず、忙しい。業務の最中に慣れる慣れないを考えていたのは、対応しながら他の事を考える事が出来たからだ。
月曜日から忙しいと、その一週間ずっと疲れるような気がして嫌いだ。それが本当に疲れるのか、だたの気の持ちようなのかは分からない。しかし、出鼻を挫かれる想いをすることに変わりはない。できれば穏やかに一週間を始めたいものだ。
今、マイナンバーカードを受け取りに来た女性は季節がまだ暑くはないというのに涼しげな格好をしている。歳はおそらく僕と同じくらいで、何より着飾るわけでもないのに派手に感じ珍しい人だと思った。
「マイナンバーカードをお願いします。」
そう言われて、どういった対応をすれば良いかはもう十分理解している。
「交付通知書と通知カード、それと本人確認できるものを願いします。」
僕がそう言い終えるより前に、女性は手に持っていたそれらを出す。住民の方も何を用意してくれば良いか分かっていると、こちらもやりやすい。渡された書類受け取り、名前を見て驚く。種田花枝。まさかこんな形で再会するとは思わなかった。
とっさに花枝さんを見るが、退屈そうな目で市役所内を見ているだけで僕には気づいていないようだ。もう10年以上会っていない。僕だって名前を見るまで花枝さんだと気付かなかった。それなら花枝さんが僕に気付く可能性はない。お互い老けてしまったなと思うが、それでも同い年では花枝さんは綺麗だとも思う。
マイナンバーカードを渡す作業をしながら、色々なことを考える。ここで自分が名乗り出たらどんな反応をするだろうか。そういえば、大学生の頃も同じことを考えていたな。基本的に僕の思考はネガティブで、やはり土屋一だと名乗っても首を傾げるイメージしか浮かばない。それでも小学校の同級生だと言えばいいのかとも思う。
迷っている内に作業は終わってしまい、渡された物を返す。その時に悪いと思いつつ、住所を見てしまう。覚えるつもりはなかったが、目が外せない。きっと本心では知りたいという気持ちがあるからなのだろう。
書類を渡し、必要事項を書いてもらっている間も、名乗るか悩む。よし言おうと決意するが、直ぐに勇気がなくなる。学生の頃、授業中にお腹が痛くなりトイレに行きたくなるが、なかなか先生にその旨を伝えられなかった時を思い出した。あの時は結局、授業が終わるまで我慢していた。今はその時と近いように思えて、関係ないのに今度はちゃんと言えたらと思う。
書いてもらった書類をもらい、マイナンバーカードを渡す。すうっと息を吸い、言うべきことを言おうとするが、花枝さんはすぐに立ち上がり、用事はそれだけだったようで出口へと歩いて行った。その背中を見つめ、しばらく真面目に考える事が出来ないでいた。
一週間の最初があまりに衝撃的だったため、休日までの仕事は呆ける事が多く集中できなかった。それでも失敗はなく、ただただ時間が早く感じた。
その間毎日、忘れようとしていたが、花枝さんの住所を思い出し続けた。見ていた物語のオチを明かされた時のように、忘れよう忘れようとしても頭から離れる事がなかった。あまりに忘れることができず、いっそ訪ねて話をしようかとも考えた。気味悪がられることは分かっているが、ずっと気になっていたことだ。覚えられていなくても、それで納得できる。なにもせずにいることが気持ち悪いと、今では思う。長い間気になっていたことを、はっきりさせるために多少強引でも仕方ない。今後に話ができるチャンスがあるとも限らない、10年以上前に諦めた結果、今でも疑問が解決しないで後悔している。
きっと花枝さんは既に結婚しているだろう。覚えている住所はアパートのようで、地元を出てこのM市で生活しているのだから、結婚相手と二人で部屋を借りているのだろう。インターフォンを押して旦那さんが出てきたときに、なんと名乗ればいいのだろう。素直に尋ねた理由を言うにしても時間がかるし、きっと納得してもらえないだろう。何かしらの嘘を吐いて花枝さんと話ができるようにするしかない。
記憶にある住所の付近には行ったことがない。調べてみると住宅街になっているが、色々な店や市街地までは距離があり、少し不便そうに思える。しかし、実際に見たことがないから推測でしかないが、近くに店がない分静かで生活環境という点では良いのではないだろうか。それとも職場が近いのだろうか。
一人、部屋の中で午前中悩み通して、取り合えず花枝さんの家まで行こうと決める。行くだけ行ってみて、踏ん切りがつかなければ帰ってきてしまうのも良い。それに覚えた住所が合っているとも限らない。行ってみて違ければそれでも良い。
車で行こう鍵を手に取り、駐車できるかどうか分からないことに気付く。住宅街では基本的に車を止めるスペースがない。歩きで行くとなると往復で2時間以上掛かってしまう。久しく運動をしていない身体にはつらいものがある。M市には都会のように電車や地下鉄の類は存在しない。
M市は県庁所在地でありながら、栄えているのは駅前から橋を渡った大通りまでだ。他の地域には背の高い建物も少なく、買い物も便利とは言えない。大型ショッピングモールが二つあり、それ以外にはあまり行かない。
しかし市の面積は、東京23区よりも広大だ。広い土地を余らせていて、人が集まる場所がないため、移動手段が自家用車かバスとなる。ここの市役所に勤めていながら、県庁所在地で最も栄えていない市だろうなと思っている。
僕が住んでいるアパートの近くのバス停から花枝さんの住んでいる場所までは、バスで30分ほどで行けるようだ。身支度を整えようと服をいくつか取り出すが、どれも冴えないものばかりだ。仕事はスーツで、休日も人と会うことが少なくジャージばかりを着ているため、ろくな服を持っていない。せめてましな服をと、しわの少ないシャツを選び黒のズボンを穿き、帽子を被る。
玄関で靴もまともな物がない事に気が付いた。日ごろから身なりに関心がない事が、肝心な時に祟ったようだ。仕方なく履き潰したスニーカーの目立つ汚れを払い履く。紐を結ぶと、そのだらしなく長いようすも気にかかる。今更何をしても無駄だと覚悟を決め扉を開ける。空は鈍色で雨は降らないだろうと、傘は置いていく。
バス停には数人が並んでいた。もれなく僕も列に加わり、腕時計で時間を確認する。バスの時刻まではあと5分ほどある。
スマートフォンを取り出し、ニュースを見る。どこかでだれかが死んでしまったというが、関わりのない人が死んでしまってもあまり心に変化はない。僕が薄情であるとか、心がないとか、きっとそういうことではない。身近な人でない限り、死というものに向き合うことができないはずだ。祖父が亡くなった時は幼すぎて何も理解が出来なかった。祖母の時はいつかが来たのだと妙に納得していた。母方の祖父母は関わりが希薄だった。きっと死ぬと思わなかった身近な人が死んでしまうと、ようやく死を悲しく思うのだろ。
幸いなことに、そうなってしまった身近な人はいない。狭い交友関係だからこそかもしれないが、僕はまだ死を悲しく思えていない。
バスが来ると列はそのままバスに入っていく。席はまばらに空いていて、窓際に座り動き出す町並みを眺める。日曜日の街は当然平日より込んでいて、あまり栄えていないように思っていた街も少しは賑わっているように見える。年に一度の祭りの時は、多くの人で溢れるが、それ以外の時期は休日も祭りの日の半分以下のように見える。
歩いていけば時間がかかる道のりも、バスでは苦労せずに進める。歩くことは嫌いではなく、むしろ好きな方であるが距離に限度がある。疲れない程度の距離であれば歩くことが好きだと言える。さらに具体的には往復で1時間程度の歩行ならと好きだ。その時間を過ぎると足が痛くなり、歩くことが辛くなる。きっと今日歩きを選択していたら、帰りには堪らずバスに乗っていただろう。
バス停に停まる度に人が出入りし、利用者が少なそうなバス停も停車し、人を入れ替える。素人考えでは、ここには必要ないだろうという場所でも、乗る人降りる人がいて、考えられて配置されているんだなと今更感心する。
バスの左手には大学が見えてくる。大学生の頃に4年間通っていた時には、何も気にせずに構内に入っていて、当時も学生以外の人も通り道として利用していた。しかし、卒業してからは構内に入ることに躊躇いを感じる。特に嫌な思い出があるわけでもなく、敷居が高いわけでもなく、卒業してしまった場所に立ち入るのが嫌なのだ。それは大学に限らず、今まで通った学校全てに当てはまる。
大学の敷地は無駄に広く、いつまで経っても道路の左隣は大学のままだ。車通りの多い道にも関わらず、片側一車線の道は混む。都合の悪いことに大学の校門がこの道路に面し、そこにバス停もあり、時間によってはバスで閊えて長蛇の列が出来る。今はピーク程ではないが快適なスピードでは走れない。
初々しい大学生らしき集団がいくつか歩いていて、少し懐かしく思う。大学生活には慣れてきただろうか。今と昔では、置かれている環境が違い過ぎて共感できる話はあまりないだろうなと、話し予定もないのにため息が出た。
花枝さんの家の近くにバス停はあるらしいが、行き過ぎてしまうことが怖く、そのバス停の一つ手前で降りた。本心を言えば、少し歩いて心の整理をしたかった。バスを降りて直ぐに本人と対面してしまえば、緊張して上手く話ができないだろう。
ふと、自分の身なりが気になった。普段から鏡を見てから外出する習慣がないため、今日も確認せずに来てしまい、今になって気になってきたのだ。コンビニでもあればと見渡すが、それらしきものは見当たらない。どうやら一帯は住宅地のようだ。スマートフォンを取り出し、何かないかと調べると見えないが歩いて5分ほどでコンビニがあることが分かった。それよりも近くにスーパーがあるらしい。スーパーでもトイレくらいあり、鏡が見れるだろうと歩き出す。
スマートフォンによれば進行方向にスーパーがあるらしいが、住宅が見えるだけで本当にあるのかと疑問に思う。スーパーは道路に面しているものだと先入観がある。2回3回曲がる細い道を進むと、確かにスーパーがあった。駐車場も存在し、この狭い道から来るしかないなら運転が大変そうに思える。きっと近隣住民が徒歩や自転車で訪れることが多いのだろう。
店内に入り、東側に進むとイートインコーナーのような場所があり、その奥にトイレがあった。中に入り、鏡を見る。相変わらず不細工な顔で、目を背けたくなるのを我慢し顔を見る。服装は一番ましな服でも冴えない。今更悩んでも遅い。
イートインのコーナーは中高生にとってはありがたいだろう。そういえばすぐ近くに高校があった。名前を思い出そうとするが出てこない。
スーパーに入っても何も買わずに出ることを、少し悪く思う。それでも欲しいものはなく、カバンも持たず出てきたため結局何も買えない。ごめんなさいと心の中で呟き外に出る。
バス停のある大きな通りを西に、スマートフォンを頼りに歩き出す。まだ近づいていないが、アパートや住宅ばかりで花枝さんの家にたどり着けるか不安になる。住宅地は細く入り組んだ道が多く、スマートフォンによると進んだ先が行き止まりになることもあるようだ。誰か先導してほしいと思うが、そう都合が良い人物がいるはずもなくスマートフォンの画面と現実を交互に睨み前に進む。
前を歩く女性は重そうなレジ袋を提げている。手伝ってやりたいとも思うが、突然知らない男性が声を掛けられるのは気味が悪いだろう。優しさはおせっかいに繋がる。ただ黙って歩く。
大きな通りから右に曲がることは分かるが、どこで曲がればいいかやはり悩んでしまった。知らない土地を一人で歩くのがなぜか怖く思い、前を歩く人について行ったが散歩でもしていたのかぐるぐると歩くだけだった。無駄に歩き回ってしまって、ようやく正しい道に入る。
車がすれ違うことが難しい細い道に入り、真っすぐ50メートルほど先の正面の建物が花枝さんの家だと分かる。ここまで来たが、まだ勇気が足りない。今までの歩調の約半分の速さで家まで近づく。何度もスマートフォンを見て、今向かっている家で正しい事を確認する。部屋は201号室、恐らく2階だろう。
建物は一階と二階に3世帯ずつ入居できるアパートで東を向いている。北側には階段があり、横には駐車場があり、3台全てが北向きにバックで駐車している。駐車場の北は車がすれ違えないほどの狭い道があり、この駐車場に止めるのは難しそうだ。南と西はすぐ隣に建物があり、北は駐車場、東は道路に面している。東の道路は幸い車がすれ違える広さで少しの時間なら車を止めても良さそうだ。それでも道路は家に囲まれているため、長時間止めては迷惑であり、怪しまれるだろう。
ゆっくりゆっくりと階段を上り、部屋の番号を確認する。階段を上がってすぐ隣が201号室だ。インターフォンを押そうとして、また悩む。緊張してしまい、階段を下りる。何をしているんだと思いながらも、足早にそこを離れる。
ぐるぐると慣れない住宅地を歩きながら、何度も考えてきた台詞を反芻する。まずは自己紹介、「こんにちは、土屋一です。」そして覚えているかの確認、「僕のことを覚えていますか?」。覚えていなければ帰る、「左様なら」。覚えていてくれれば、「あの日なぜ僕をかばったの?」と聞く。きっとこんなに頭の中で練習しても、実際にはどもってしまい上手く話せないだろう。
近くの家の住民が外に出て煙草を蒸し、僕を見ている。おそらく、ただ前を通る僕を意味もなく見ているのだろうが、僕を訝しんでいるように感じる。よそ者を見るような目に耐えきれず、目を逸らす。犬の散歩をしている女性が前から歩いてくる。彼女の目線も、気のせいだろうが、どことなく好意的でなくむしろ悪意を感じる。
ぐるりと花枝さんの家の付近を回り、西から東へと戻ろうとする。その途中に男性が南から北へと歩き、僕の前に現れた。帽子を被り、歳は僕と変わりなさそうなのに格好が派手だ。全体的にだらしない印象を受けるが、見る人が見ればお洒落なのかもしれない。一瞬見た横顔が何故か懐かしく感じた。
左に曲がり、男性の後ろを歩く。彼は前を歩きそのまま花枝さんのアパートの階段を上って行った。202号室か203号室の住民だろうか。もしや、花枝さんの家に用事かもしれないと思い、アパートの北側にある駐車場沿いの細道から二階を見る。
二階に上った男性は201号室の扉の前に立っている。インターフォンを押したのかこれから押すのか分からないが用事があるのは確かだろう。男性は郵便配達でもポスティングでもなさそうで、どのくらいの時間がかかるか分からない。インターフォンかドアノブに手を伸ばすその所作、その瞬間の顔を見て分かった。 圭太君だ。
最後に見たのは10年以上前だが、顔を見て分かった。花枝さんの時には分からなかったのに。やはり変わる顔を変わらない顔がある。それに女性は化粧があり、余計分からない。
圭太君がなぜ居るのかはさっぱり分からないが、僕は直ぐに歩き出した。花枝さんに会うことは諦める。彼に会う事が怖いのだ。
そそくさと来た道を戻り、大きな通りに出て少し西に歩くとバス停があった。道路を横断し、バス停の時刻表を見ると都合よくバスがやってきた。行先もまともに見ずに乗り込むと、ここに来たバスよりも混んでいた。それでも空席はあり、ゆっくり腰を下ろし自分の心音が高鳴っていることにようやく気付いた。
バスは西へ向かい、その空は暗く重いものになっていた。どこからか大きな地響きのような音が聞こえて、バスの乗客はざわつき出す。やがて大粒の雨がバスの窓やフロントガラスを叩き出す。バスの中の騒めきと、胸に残る恐怖と同時に、傘を持ってくれば良かったと思う。
・遠雷の時に
土屋さんは話の最後にため息のような深呼吸のようなものをした。それから私をちらりと見てまた息を吸い、吐いた。
「もしさっき君が話したストーカーに遭遇した日が、この前の日曜日なら正体は圭太君だと思う。」
「この前の日曜日です。」
「確かにあの日は遠雷と豪雨が昼過ぎにあった。」
そう言うと、そうかと呟きしばらく黙った。
雪除けが右にある道を行く。雪除けが畳まれていて、西と東はどこまでも田んぼだ。冬になれば、地吹雪が凄そうだ。
右に少し曲った先は林になっていて、木に隠れて信号があった。土屋さんはその信号の存在を知っていて減速していたが、初めて通る人に気付きにくく危ないものだ。木を切ってしまえばいいのにと思う。
「残念だけど、僕は彼がどこで何をしているかわからない。」
さっきの沈黙の間に、どこで何をしているのか考えてくれていたのだろうか。横顔を見ると、やはり表情に感情が乏しく何を考えているかまでは分からない。
民家はぽつりぽつりとあるが、コンビニのように店は一切ない。たまにある自動販売機の明かりが眩しい。
「それじゃあ昨日と今日の話をしますね。」
・そして昨日と今日
朝起きて、時計を見ずに一連の身支度を整えると家を出るまでに時間の余裕があった。母に昨日のことを話すと「怖いけれど、どうすればいいか分からない。」と言った。
確かに、何か良い手段はないかなぁとあれこれ考えるが、良い手段が思いつかない。母は「警察に行った方が良いのかも。」とは言わなかった。
支度が早く終わったのを良いことに、ゆっくり自転車を漕ぎながら対策を考えて登校すると、結局到着したのはいつものと同じ時間だった。時間をかけた割には良い対処法が思い浮かばずに、無駄な時間を過ごしてしまった。
スマートフォンを取り出そうかとカバンに手をかけ、家に忘れてきてしまったことに気が付く。また落としたかとも思ったが、今日はスマートフォンに触れてすらいない。
スマートフォンは諦めて、今日は真面目に授業を受けることにする。
授業はたかが50分だが、その間集中力が続くことはない。一生懸命授業を聞こうとするが、板書をするだけで満足してしまう。先生の話を聞こうとも思うが、板書を取っている内に話されると、聞くことができない。私はマルチタスクができないなと実感する。
結局50分すべてを集中できることなどなくて、大抵何か暇つぶしをしてしまう。今日こそはと思うが、今も教科書の授業と全く関係ないページを読んでしまう。
テスト期間に、やりたいことを思いつくように、授業中にもやりたいことを思いつく。数学の教科書に書かれた図形を見て、ルービックキューブを早く完成できるようになりたいと思う。ルービックキューブができる人は余程頭が良いのだろうか。私は一面をそろえるだけで精一杯になるだろう。それなのに、早い人は一桁の秒数で完成させてしまうらしい。頭の差というのには、つくづく嫌に思う。
やってもいないのに、ルービックキューブに挑戦することを諦める。もっと私に向いているものがあるかもしれないと前向きに考える。
やはり、人には向く向かないがあると思う。自分に向くものを見つける事が先決だ。嫌いで、得意でもないことを続ける必要はない。無理に続けるなら、いっそやめてしまって新しい何かをした方が良い。それが好きでも得意でもないのなら、また直ぐにやめてしまえば良い。その繰り返しで、自分の得意な事や好きな事を見つけられると思う。
残念ながら、私は未だに好きなことも、得意なことも見つけられていない。色々な事に挑戦したいと思うが、今は学業で手一杯だ。大学に行けたのなら、その時に色々挑戦してみよう。
そう決意するとチャイムが鳴り、授業が終わった。50分は長いと、授業が始まる前に思っていたが、過ぎてしまえばあっという間だった。
帰り道は寄り道せずに帰る。今日の授業は別段疲れるものではなかったが、何故か体が怠い。悩み事があるからか、風邪でも引いたのか分からないが、ペダルを踏み込む足が重い。今日は家でゆっくり休みたいなと思う。
信号待ちの間、後からやってきた歩行者が私の前に立ち、少しイラっとする。自転車に乗っている私に、信号が変わればすぐに追い抜かれるのに、どうしてこの人は私の前に立ったのだろうか。
想像すれば分かることに、気づけない人があまりに多い。そういう人を見るたびに、私の思う常識が全ての人が思う常識だと思わない方がいいと気付く。
極端に頭の悪い人がいるから、天才がいて、優しい人がいるから、意地悪な人がいる。そうやって、世界の平均が作られていく。
建設中の家は梁や柱だけだと思っていたのに、いつの間にか屋根も壁もあり、形になっていた。毎日意識して見ないと変化に気付かないもので、最新の記憶だと思っても実は一週間前の記憶であったりするのだろう。毎日通る道だから些細な変化に鈍感になってしまう。
嫌な臭いを我慢し角を曲がる。少し先で自転車を降り深呼吸をする。近くの家の窓が開いていてテレビの音が聞こえる。何やらニュースの声が聞こえるが、聞き耳立てるのも悪い気がして早足になる。坂を自転車を押しながら上りながら、この街は坂が多いなと気付く。それに道路の舗装が悪い。所々陥没していたり、ぐにゃぐにゃと波打っている。自転車移動するのに骨が折れる街だ。
坂の上を進んだ先、左手に小さな公園が見える。普段から小学生や中学生が集まり、サッカーなどをしており、今も小学生が集まり何やら遊んでいる。誰もいない公園というのはどこか怖い雰囲気があり苦手に感じるが、子供が遊んでいるとその真逆で楽しく思える。
その先の丁字路で、カーブミラーを見て車が来ないことを確認する。住宅街は車がやってくることに気付きにくい。坂を上った惰性で自転車を押し続けて歩く。左に狭い林があり、影を落としている。その影に入り、日が当たらないと少し寒くと感じる。直ぐに影を抜け、西日に当てられると暖かさを取り戻す。
塀のある家を抜けると、Kアパートと書かれた建物が現れる。玄関が四つある建物で、二階もある。二階へ向かう階段がないので、恐らく一部屋借りると一階と二階借りれる建物なのだろう。4世帯が入れるだろうそこの家賃と間取りが気になるが、調べようとまでは思わない。
大きな通りに出ると、運良く左右どちらからも車はやってこなかった。横断歩道ではないところで道路を横切る。下り坂を歩き、西の空を見ると、眩しいほど西日があり、大きな山はより一層綺麗に見えた。
今朝になり、スマートフォンの充電がない事に気付く。昨日の夜遅くに操作してから、充電していなかった。持っていても仕方ないと置いていくことにする。新しく買ったのに友人の連絡先が一人も登録されていないことが悲しい。明日こそはと決意し、外に出る。
普段通りの通学路を歩きながら、新しい腕時計が欲しいなと思う。別に壊れたとか嫌いになったわけでもないが、少し年季が入ったように見える。この腕時計は年季が入るとお洒落に見える物ではなく、むしろ汚く見えてしまう。毎日身に付け、定期的に見る物だからこそ立派な物が欲しいのだ。
教室の騒めきは時間と共に大きくなり、チャイムが鳴ると、どよどよと低く小さくなり、担任が入ってくると静かになった。今日は特別な行事もなく、きっとぼんやりとしていたら帰る時間になるだろう。
帰宅中に自動販売機の飲み物を眺める。のどが渇いたなと思うが、あと十数分歩けば家に着く。我慢すれば良いのだろうと思うが、歩きながら飲むのも楽しい。どうしよかと悩むが、買うことにする。
ちびちびと歩きながら飲むが、意外と歩きながら飲むのは難しい。飲む度に止まり、また歩きの繰り返しで普段よりも時間がかかってしまう。
飲み干したジュースの空き缶を右手に持ち、ぶらぶら揺らせて歩く。飲み残したジュースが垂れてきて右手がべたべたする。もっと注意して持てばよかったと後悔する。
家に着き、鍵を開けようとして違和感に手を止める。鍵が開いている。母が仕事から帰っているのかと思ったが、普段はそこまで早くない。体調でも崩したのだろうかとドアを開ける。
・到着
「それが今日の話か。」
「はい。開けたら土屋さんが居て、母が。」
そこまで言うと双葉は言葉を切った。母が死んだことなど思い出したくもないだろうに、悪いことをしたなと気付く。
「ここ前の話だと圭太君が一番怪しいけど、連絡先も何も知らないんだ。」
「ええ、大丈夫です。」
「もしかしたら、小学校に卒業アルバムとかで当時の住所や連絡先が分かるかもしれない。」
「土屋さんは持ってないんですか?」
「小学校に良い思い出がなくて、捨ててしまったんだ。」
そう答えると、双葉はまずいことを聞いてしまったという声色でそうですかと言った。自分ももう少し失くしたと嘘でも言っておけばよかったと悔やむ。
「もうすぐS小学校に着く。」
「はい。」
そのあとに続く言葉を探すが、何を言っても双葉を心配にさせてしまう気がして何も言えなくなってしまう。
S小学校の南側、狭い道路の脇に車を止める。北側は国道に面していて駐車場もあるが、来賓でもないのに駐車場に止めるのも悪い気がしてこちらに止めた。車通りも少なく、邪魔にはならないだろう。
石の階段を上ると校庭に出る。周囲には遊具があるが、昔と配置が変わっていたり新しいものがあったりと懐かしさは感じない。
校舎見る。明かりは一部の教室についており、そこが職員室だと察する。壁に掛けられた大きな時計の針は、既に日が沈み見えにくいが19時付近を指している。
校舎は数年前に建て替えられていて、こちらもまた懐かしさは何も感じない。
「立派になりましたよね。」
「建て替えた時は小学生か?」
「建て替え真っ最中でした。教室がころころ変わったり、臨時校舎とか行ったり工事の音がうるさかったりしましたね。そのくせ、完成したのは卒業後なので良いことは一切なかったです。」
せっかく新校舎を建てるのにそこで授業が受けられないのでは可哀そうだ。
見慣れない校舎を見るが、どこが昇降口かも分からない。来賓用があるのかもしれないが、それもどこかわからない。もしかしたら、先生たちも皆帰ってしまったかもしれない。
「どこから入ればいいかわかる?」
そう聞いたが、双葉は首を横に振った。いつまでもここでぐずぐずと悩むこともできない。一人で来たのなら、校舎の外周を見て回り、どこから入るのか確認し、さらに勇気がいるが、双葉もいる。いい大人がうじうじしている姿を見せるわけにもいかず、足を踏み込むと後ろから電子音が聞こえた。聞き覚えのある音で、職場や街中で人のスマートフォンにメッセージが届いた時のそれと同じと気付く。振り返ると双葉がスマートフォンを取り出していた。
「校舎に入るの、ちょっと待とうか?」
「いや、大丈夫です。友達からの課題の確認なんで急ぎじゃないです。」
そう双葉は薄く笑い、目を細めた。そうかと言って、校舎と向かうがふと気づき踵を返し双葉を見る。まだ目と口元が笑っていて、僕が振り向いたため首を傾げる。その顔に少しの焦りが見えた気がする。僕は疑問を飛ばす。
「どうして友達から連絡が来るんだ?何か隠してないか?」
そう聞くと双葉は、口元は笑顔のまま目元が徐々に変わっていった。その目を見つめ、どこか懐かしいなと思う。
「本当に思い通りにならないなぁ。」
双葉は少し憤りながらそう言った。僕は現状を理解できておらず、ただ彼女を見つめることしかできない。
「何も気づいていないなら、そんな変なところに気付かないでくださいよ。」
より一層憤りを増した口調で非難される。それでも僕が何を気付いてしまったのか分からない。
「僕が気づいた変なところは、君のスマートフォンに友人から連絡が来たことか?」
「そうですよ。気づかなければよかったのに。」
話によれば双葉はスマートフォンを新しくした際に、データが消えてしまい友達の連絡先が入っていないらしい。それなのにさっき、双葉のスマートフォンには友達から連絡が来た。つまり、
「スマートフォンを新しくしていない、そして落としてはいないのか。」
「スマートフォンは落として壊して新しくしましたが、データは無くなってないです。」
「じゃあ、落として何故か家に戻ってきた話は嘘か。そもそも話は全部嘘か。」
「そんなことないですよ。二日目だけです。嘘は。」
「二日目?」
「そうです、二日目です。さっきまでの土屋さんとのドライブ中に二日間の話をして、一日目は本当のことを話しました。二日目は一日目の話をしながら考えた、嘘の話をしました。」
「どうしてそんなことを。」
「計画を成功させるためですよ。」
そう言うと、僕の脇をするりと通り石の階段を下りて行き、僕の方を見る。
「そんなところじゃなくて、下で話しましょう。」
校舎から漏れる光を見る。きっと人目を気にしているのだろう。黙って階段を下りていく。前の道路には車も通らず、僕の邪魔にはなっていない。道路の向かいは昔プールだったが今は駐車場になっていたことに今気づく。街灯もない場所で、車が一台もないとそうとは直ぐに気づけない。入り口は鎖横に掛けられている。
下まで降りると双葉は一段、そしてもう一段上り僕の目線の上から話始める。
「母を殺したのは私です。」
そう言う双葉の目を見る。嘘を言ってるように目を細くするが、本当か嘘か分からない。人の顔を見てすべてが分かれば苦労はしない。黙っていることを先に続けてくれという合図にする。
「最初の話は一日目は本当のことですよ。二日目は嘘です。」
「スマートフォンを落としたが、それを拾われたり、玄関の写真を撮られて郵便受けに入れられたりはしていない。」
「そうです。落として、画面が割れて、操作できなくなっただけです。」
二日目は嘘。確かに、一日目の話にはストーカーが現れなかった。当たり障りのない事、それかよくある日常を話して時間を稼ぎ、嘘を考えていたのだろう。でも一体何のために…。
「二回目の話、家に誰かが付いてきた話をした時も、一日目は本当です。土曜日、母に相談して許可を貰って、午前中に新しいスマートフォンに変えました。午後にはカフェに行きました。」
「二日目が作り話か。ストーカーに悩まされないで、特に何もなかったのか。」
「いえ、本当に怖い思いをしました。」
本当にストーカー悩まされたのか、はたまた別の出来事があったのか。
「その日は母が居らず、食べ物もなく一人買い出しに行ったと言いましたが、本当は母が居て食材もあって、昼過ぎに一緒にお昼を作っていました。」
・遠雷の前に
母と一緒に昼食を作る。私は果物ナイフを取り出し大蒜を細かく切ろうとするが、インターフォンがなった。
誰だろうとドアを開けようとすると、向こうからドアが開いてつんのめる。ドアを開けたのはだらしない印象の男だった。その男はずかずかと家に入ってこようとする。
「誰ですか!?」
そう強い口調で言うが、私を一瞥し、気にもせず靴を脱ぎ家に上がり込んだ。母の方を見ると、驚きや恐怖はなく、ただ申し訳なさそうに目を伏せている。もしかしたら知り合いなのかもしれない。
「花枝、金貸して。」
男はそう言った。母に金を借りるこの男の後姿をただ見る。
「電話で言ったように、ちょっと大きな出費があって難しいの…。」
そう言う母の声は弱弱しいもので、私はどこかで危険はないと思っていたが一気に恐怖を感じる。
「じゃあいつもより少なくていいよ、今あるだけ貸して。」
男は全く引くつもりはないらしい。私は万が一を想定して玄関から出れるように体を向ける。
「…それも、ちょっと…、難しい。」
母が振り絞るように言うと、男は無理矢理私の腕を掴み、母の隣に引っ張った。その力に負け、私は母の隣に倒れ込んでしまう。男はさらに母の胸を勢い良く押して突き飛ばした。どしんと音を立て母が倒れる。
男はキッチンに出してあった果物ナイフを掴むと、大げさにそれを振り上げた。
「なんでだよ!俺が死んでも良いのか!?」
「そんなことない!だけど…。」
「けどなんだよ!俺の方が大変なんだよ!」
その後も男は母に罵声を浴びせる。母は反論することもできず、ひたすら謝り続けた。
「明後日の夕方来るから、準備しとけよ。」
そう言うと、果物ナイフを投げ捨て踵を返し、部屋を出て行った。
母はしばらく泣いていた。母の無く姿など初めて見て、しばしどうすれば良いのか分からなくなる。とりあえず、遠くに転がった果物ナイフをキッチンに戻し、出したままにされた食材を冷蔵庫に戻す。何か行動をしていないと、思考がさっきのことでいっぱいになり、怖くて堪らない。
母はキッチンから突き飛ばされ、引き戸を越え隣の部屋で蹲り、すすり泣いていた。
地響きのような重い音が鳴り、母に「何だろうね。」と聞きたくなるが、母は顔を上げないままで、聞ける雰囲気ではない。どうしようかと悩んでいると、屋根を叩く雨の音が聞こえた。直ぐに洗濯物を思い出し、窓へ駆ける。窓を開けて、洗濯物を取り込む。唐突の豪雨で洗濯物は濡れてしまった。仕方ないなと諦め、カーテンレールにハンガーを掛けていく。
空が黒くなったのと、カーテンレールに洗濯物を掛けたことで部屋がどんよりと暗くなってしまった。電気を点けようかと歩き出すと、母が震えた声を出した。
「ごめんね。」
このごめんが、さっきの出来事に対してなのか、洗濯物に対してなのか少し惑うが、恐らく前者だろう。
「大丈夫だよ。」
そう、彼がだれか分からないのに言った。気休めにしかならないだろうなと思うが、少しでも落ち着てほしかった。母はもう涙を流してはいないようで、じっと床を見つめている。
「ずっと隠してきたけど、言わなきゃね。」
母はぼんやりと、小さな声で呟いた。雨音響く部屋では、その声を聞くのが難しい。そう思って、母の隣に行く。あまり母に無理をさせたくない。
「さっきの人は藤沢圭太。双葉の父で、私の元夫。」
そう聞いて、なんとなくそうだろうなと思っていて、信じたくなかったことを突き付けられたなと思う。
「私が小さい時に離婚したって、原因は浮気だって言ったけど、違うんじゃない?」
勘で気づいたわけではない。母の体に消えない傷があることを知っていて、ずっと訝しんでいた。
「嘘吐いてごめんね。私はずっとそれでも良いと思ってたけど、夜中に声がうるさいとか、私の体に痣が増えているとか、近所の人が気づいて警察に言ったみたい。」
「それじゃあお母さんは、あの人にさっきみたいなことを?」
「そうね…、でも、私が悪いし、それでも良いと思ってた。」
「じゃあなんで離婚したの?」
「私の両親が、双葉のおじいちゃんとおばあちゃんがそれからどんどん話を進めたの。離婚まではおじいちゃんとおばあちゃんに、守られるようにされて、裁判まで起こして親権を取ったの。」
母の話を聞くに、どうも悪いのは私の父だというさっきの男だ。それなのに、母は私が悪いと言う。今まで母に育てられて、暴力を受けるほど悪い人だとは思えない。むしろ優しく、人が良すぎるほどだ。
「双葉がまだ一歳くらいの頃かな。」
母は無理矢理笑って言った。小さい頃の私を思い出して笑ってくれたのだろうか。
「結婚した時から、おじいちゃんとおばあちゃんは反対だったみたい。私が妊娠してたから仕方なく良いよって言ったんだと思う。」
「それからね、しばらく会ってなかったけど、数年前に偶然会ってからお金を貸してるの。」
「そのお金って、返されてるの?」
母はゆるゆると首を横に振った。まだ無理矢理笑っていて、それなんだかもう諦めているように見えた。
「今日来たのは、昨日お金を貸すのを断ったからだと思う。ごめんね、双葉にも怖い思いをさせて。」
笑顔を次第に失い、伏し目がちになる。そんな母をどうにかして元気にさせたいと思おうが、それには時間がかかってしまうだろう。
「彼のことを隠していたのは、両親の勧めがあって。双葉には怖い思いとか嫌な思いをさせないようにって。」
「あの人に、会ってること、お金を貸していることはおじいちゃんとおばあちゃんは知ってるの?」
そう聞くと、母は申し訳なさそうな顔をして、また首を横に振った。
・一日は真実、二日目は嘘
「圭太君がお父さんか。」
「そうです。母から話を聞きました。ずっと隠していたことみたいです。」
圭太君が父親だということに、それほど大きな驚きはない。ただ、それを双葉がずっと教えられなかったことの方に驚く。
「きっと、私が生まれてからずっと、藤沢圭太が母にDVをしていたんです。母はそれを我慢していました。我慢していたと本人は言いませんでしたが、母は優しすぎる人なので、きっと我慢していたんだと思います。近所の住民の方や、祖父母には感謝しないといけないですね。」
そういう双葉は無理に笑った。その顔を見て、きっと花枝さんも同じ顔を双葉にしたのだろうと思う。
なぜ双葉が嘘を吐いたのか分からないが、怖い思いをしたことは確かに嘘ではなかった。双葉は二日目は嘘だと言ったが、全てが嘘ではないようだ。一日目の話をしながら二日目の嘘を考える。つまり、話をしながら完全な作り話を考えるという器用なことはできなかったようだと、さっきの話を聞いて気づく。
家を出たと言ったが逆で、家を出ていない。母は家に居なかったと言ったが逆で、家にいた。食材が何もないと言ったが逆で、色々あった。怪しい人物は家に入らなかったと言ったが逆で、家に入ってきた。双葉が果物ナイフを構えたと言ったが逆で、男が、藤沢圭太が果物ナイフを構えた。
全てを作り話にすることはできずに、逆の話をした。そう考えると、最初に話してくれた二日目の話、スマートフォンを落として無傷で戻ってきたが、誰かに操作されたという話も逆で、落として壊れてしまったのだろう。
だが、どうしてそんな嘘を吐く必要があったのか分からない。
「本当に双葉が、花枝さんを殺してしまったのか?」
さっきの話を聞き、双葉が花枝さんを殺す理由がより分からなくなってしまった。確認するように聞く。
「そうですよ。じゃあ今日の話をしましょうか。」
双葉はもう一段階段を上り、さらに高い位置から話を始める。
「今日は日の高いうちに学校が終わって、すぐ家に帰りました。そして、家に帰ると母が居たので、キッチンにあった包丁で刺しました。たぶん直ぐ死んでしまったと思います。それから家を空けるために、外に出て、腕に付いた母の返り血をハンカチで拭きました。思ったよりも血の量が多くて綺麗に落ちなかったので、人目に付かない川辺に行って洗いました。コンビニとか、血を付けたまま行ったら怪しいですからね。そして、家に帰ると土屋さんが居ました。」
そこまで話すと、双葉は僕を見る目を睨むようにする。
「僕が来たのは想定外だったのか。鍵を閉め忘れて、その間に僕が来てしまった。花枝さんの死体を見られたが、幸い僕が来た時に家に双葉が居らず、ちょうど帰宅したように見えた。だから、僕に嘘のストーカーの話をして、存在しないそいつを犯人にしようとした。」
双葉の話を聞き、直ぐにそういう顛末だろうと察した。僕が花枝さんの家にやってくることは想定することができない。明らかに僕はイレギュラーで、双葉は自分が犯人だとばれないと踏んで今日嘘を吐いた。
「半分正解です。」
自分の言ったことが真実だと思ったが、半分しか真実ではなかったようだ。これ以上に分かることは何もないように思える。それでも思考を巡らせ、見落としていることはないか考える。そして、一つ思い当たる。
「さっきの話によると、日曜に圭太君は明後日の夕方に来ると言っていた。それは今日だ。」
「そうですよ。」
「それなら、わざと鍵を開けて、花枝さんの死体を圭太君に見せようとしたのか。」
「正解です。」
なるほど、それなら双葉の行動に理由があるとわかる。家に帰り、花枝さんを殺す。その後、返り血を洗うのに、自宅の水道を使わなかったのは、家を空ける必要があったからだ。圭太君は夕方来ると言って、何時に来るかまではわからない。
もし圭太君に返り血の付いた姿や、それを洗い流す姿が見られたら直ぐに双葉が犯人だと思われるだろう。
「双葉は、圭太君を犯人にさせようとしたのか。」
「大正解です。」
双葉はにっこりと笑った。
双葉が血を洗い流し終えた後でも、死体と同じ部屋にいるというだけで怪しまれる。双葉は自分が極力疑われないようにしていた。圭太君に双葉が犯人であると思わせないようにした。死体と圭太君を対面させる、その際に双葉はどこか別の場所にいる。第三者から見ると、圭太君が刺して逃げたようになるだろう。
「もし、圭太君が救急車や警察を呼んだらどうするつもりだったんだ。」
「あの人が、そんなことをするようには思えません。もし仮に、そうされてもあの人がまず怪しまれます。」
「まあ、第一発見者なら疑われるだろうな。」
「それだけじゃないですよ。」
まだ僕には理解できていないことがあるようだ。圭太君がまず疑われる。それは死体の第一発見者だからという理由だけではないらしい。何か証拠のようなものがあるのか。彼が、花枝さんの家に行ったこと自体か。それとも双葉が、警察に圭太君が怪しいと言うのか。
圭太君は日曜日にも来ている。その時の暴力性や二人との関係を言えば、真っ先に疑われる。そこまで考えて、ようやく気付く。
「そうか、果物ナイフか。家の果物ナイフには日曜日に圭太君が握ったことで指紋が付いている。それは証拠になる。」
「そういうことです。私が家を空けている間にあの人が来て、それを確認できたら警察と救急車を呼ぼうと思ってました。」
「どうやって圭太君が来たか確認するつもりだったんだ?」
「古典的な技で、ドアに小さな紙を挟んでました。」
僕がドアを開けた時には、その紙に気が付かなかった。勝手に家に上がり込んでくる人など、そうそういない。日曜日の様子から、圭太君は勝手に家に上がり込むと予想していたのだろう。ドアに挟んだ紙が落ちていれば、それは圭太君が来たという事になる。その合図を確認して、演技を始める。中にまだ圭太君がいる可能性も考え、今、ちょうど今家に帰ってきました、という素振りを見せる。そこで圭太君が居れば走って逃げるなりして、警察に状況を説明すれば圭太君を犯人に仕立てられる。もし圭太君がいなくても、警察と救急車を呼び、凶器の果物ナイフから圭太君の指紋が出れば容疑者になるだろう。
「大体、何をしようとしたのかは分かった。僕はどうやら予想外の邪魔者だったみたいだな。」
「そうですね。車に乗せられて、本当にどうしようと思いました。計画が丸つぶれだし、土屋さんが何者かもわからないし。」
「そういえば、土屋さんはどうして今日うちに来たんですか?」
そう聞かれて、どうしてだろうと一瞬迷う。今日、花枝さんの家に行ったのは衝動的で、感情的だった。
「日曜日に花枝さんの家に行って、結局何も聞けずに帰ってきて、家でずっと後悔していたんだ。やっぱり、いつも僕は最後の最後で勇気が出ないと。そして、花枝さんにあの時のことを聞こうと思い直したんだ。今聞かないと一生後悔するような気がした。今度こそは、何が何でもと。だから、たまたま仕事が早く終わった今日、車で花枝さんの家に寄ってみたんだ。ただ、日曜日に圭太君の姿を見たから怖く思えた。僕は彼の存在が怖かった。だから車後に積んである釣り具から、ナイフを取り出して、護身用として持っていくことにしたんだ。」
「それで、家にはどうして入ったんですか?」
「インターフォンを押して、返事がなかった。いつもならそこで帰ってしまうが、今日は勇気があった。試しにノブを回したら空いてしまって少し覗いたら花枝さんが倒れていたんだ。」
「今日来たのも、ドアを開けたのもたまたまなんですね。」
「そうだ。」
双葉は階段を軽快に下りて行き、車の横に立つ。そのやる気のなさそうな姿に話しかける。
「まだ、2つ分からないことがある。」
「なんでも聞いてください。」
「一つ目、どうして僕に日曜日に圭太君が来たことを隠して、ストーカーが来たことにしたんだ?」
双葉はなんだそんなことかという顔をしていかにも簡単だという調子で話す。
「日曜にあの人が来たことは、母と私と本人しか知りません。そして、そこであの人が包丁に触れたことも。私は、彼が日曜日に来なかったと警察に言うつもりでした。彼が日曜日に来たことが明らかになれば、包丁に指紋が付いたことも、その時のものだと分かってしまって、罪を着せられないかもしれない。私が日曜日に来なかったと言えば、あの人が日曜日に来たという話も罪を逃れる言い訳に聞こえますからね。」
双葉は笑顔で話す。昔の花枝さんと似たその顔で、悪い事などしていないといった様子だ。
「ストーカーっていう嘘は咄嗟に思いつきました。あの人が日曜日に家まで来たのを
目撃した人がいたら、ストーカーだと言えば良いし、最悪ストーカー被害とあの人は別の話だと警察にも言えますしね。」
「二つ目、どうしてスマートフォンに連絡先がないことにしたんだ?」
「ストーカーに付けられている話を考えている時に、やっぱりスマートフォンで友達とかに助けを求めるべきだなと思ったんです。それに、ストーカーに拾われたらしきスマートフォンを使い続けるのもおかしいなと思ったんです。落として拾われた時に新しくして、連絡先も消えたことにすれば、ストーカーに付けられている時にスマートフォンで助けを呼ばない矛盾が解決するなと思ったんです。それに、車に乗っている時に、土屋さんにスマートフォンで人と連絡するという選択がないと思わせたかったんです。」
「どうしてだ。」
「だって土屋さんは何者か分からなかったんですよ。それにスマートフォンを見られて、話しの矛盾を見られないようにしたんです。なにか矛盾になるようなものがスマートフォンに入っているか分からないですけど、見せろと言われて見せて、矛盾があったらそれまでじゃないですか。だからスマートフォンには何も情報がないという事にしたんです。今思えば、ただの禍根ですけどね。」
双葉はそう言って、大げさに肩をすくめて見せた。
「二つと言ったが、もう一つ分からないことがある。どうして、花枝さんを殺す必要があった。」
「母は優しい人です。あのまま母と2人で、正しい事を続けても苦しいだけで、私がどうにかしようとして、母は必ず私を止めたでしょう。あの人は贖罪する気もなく、今後罰が当たるかどうかもわかりません。」
すっかり暗くなった空には星があり、今日は実にいい天気だと思う。双葉はずっと自分の足元を見つめて、話を続ける。
「それならいっそ、私が罰を与える事にしたんです。真面目な人が馬鹿を見る、優しい人がみじめになる。それを、私は許せないんです。」
双葉は拳を握り、俯いている。そしてしばらく沈黙が生まれる。
田舎の夜は静かなもので、離れた国道の車の音しか聞こえない。この道路にやってくるのも久しぶりで、どのくらい前か思い出せない。
目の前の駐車場は昔プールで、当時は体育館で準備体操をしてからこの階段を下りて、道路を渡ってプールに行っていた。プールに入る前の小さな水を張った場所を、皆不思議な呼び方をしていたが、どうしても思い出せない。
昔は何も思わなかった階段も、今見るとぼろぼろだ。経年変化かとも思うが、小さい頃は汚さとかは気にしていなかった。
「馬鹿なやつが理不尽な目に合えばいい。そして、それは作るしかない。」
双葉の目は真っすぐ僕を見つめていて、それが彼女の本心だという強い意志が感じられた。それがあまりに強く感じて、僕も本心を言わなければと思う。
「双葉の気持ちはよく分かる。だけど、僕は本当のことを言うべきだと思う。」
「そうですか。」
双葉の声が呆れたように聞こえた。双葉の言うことは間違っていない。それでも、僕は真実を知ってしまった。双葉は僕に真実を話したということは、どこかに罪悪感があったからだろう。僕が諭せば、自首してくれると思う。もし、双葉が計画に拘るようなら、僕から警察に話そう。
双葉は僕の車の助手席を開くと、乗り込むでもなく自分のバックを漁った。その後がちゃがちゃと音がして、僕の方を振り返る。
右手にはハンカチがあり、左手には僕がグローブボックスに仕舞ったナイフを持っている。そのナイフの刃をハンカチで拭く様に一度擦ると、少し刃が赤黒くなる。
「まさか!」
「土屋さんのナイフに、母の血が付きました。土屋さんが本当のことを誰かに言ったら、ドライブ中に話したストーカーの嘘。それを警察に本当のことだと言って話します。そして、そのストーカーの正体を土屋さんだって言いますよ。」
僕は、日曜日に花枝さんの家に行っている。そして今日も。
「刃渡りも同じくらいですし、犯行を隠すためにナイフ持ち帰り、指紋の付いていない果物ナイフに血を付けてを現場に残した。その現場に帰ってきた私を無理矢理車に乗せた。こっちの方が真実みたいですね。」
無邪気に笑う双葉を見て、どうすることが正しいのか分からなくなってしまった。
「結局、聞けなかったじゃないか。」
僕がもうどうすれば良いか分からず、そう言葉が漏れた。返事を求めていなかったが、双葉は親切に答えてくれた。
「母は優しい人だったんですよ。」
・エピローグ
帰り道は、行きと違い話すことがなかった。その沈黙で、この道が面白みに欠ける、つまらない道だと気付いた。