201号室のアクアリウム
はじめて書いた小説らしきもの。
せっかくなので。
自宅のアパートに帰ってくると、室内が水浸しになっていた。
いや、水浸しと表現すると語弊がある。
訂正すると、四畳半一間を形成する立方体が、海水で満杯になっていた。
奇妙なことに、あらゆる家具が浮力に逆らい、外出時直前のまま正確に納まっている。
今朝、慌しく脱ぎ散らかした寝巻でさえ、だらしなく座椅子に凭れかかっていた。
ちゃぶ台の中央には、古ぼけた西洋ランプが煌々と灯っている。
私はネクタイを緩め、蹌踉と座椅子に身体を預けた。
天井を見上げると、そこには電気傘とそれにそっくりな一匹のクラゲがゆらゆらと浮遊している。
「お前の仕業だろう」
私の唐突な詰問に、クラゲはぱちりと小さく放電した。
「…へい、仰るとおりで。触手を詰める覚悟は既にできていやす」
クラゲは暗澹としながらも、腹の括った低い声で答えた。
「お前を糾弾するつもりはない。気持ちはよくわかっているつもりだ」
私は四畳半の四分の一を占める大きな水槽を一瞥した。
贖罪のつもりで購入したが、彼の生活は狭苦しく、不自由であっただろう。
クラゲは私の労いに端を発し、崩れるように悲嘆して、宙に八の字を描いた。
「あの人工海水があっしを狂わせるのです。非常によく似ているが、とても淋しく、冷たい…あの海水が…」
私は奥歯を噛み締めた。
「もう言うな。海へ、帰りたいのだろう」
しばしの沈黙があった。クラゲは逡巡の末、虚空に発するように、一言「へい」とだけ告げた。
「おい」
私は西洋ランプに顔を近づけた。
その四方に嵌められたガラスの中に、やたら筋肉質で褐色の小さな男が、ブリーフ一丁で仁王立ちしている。
オイルを塗りたくった肉体が、てらてらと発光している。
「ランプの精よ。二つ目の願いだ。私たちを故郷へ帰せ」
「そりゃあ、いけません! 王子!」
クラゲが横槍を入れてきたので、私は掌を翳して彼の二の句を遮った。
「よいのだ。お前だけ故郷に戻れば、その命はないだろう。
それに私も地上の生活にはほとほと疲れてしまったのだ」
「くっ…あっしが不甲斐ないばかりに…」
私は改めてランプの精に低頭した。
「頼む。私達を故郷の深海へ運んでくれ」
「本当にいいのね?叶えたお願いはノークレーム、ノーリターンよ」
ランプの精は気色悪く腰をくねらせて確認してきた。私はこくりと頷く。
「友の願いは、私の願いだ」
「おっけえ」
気軽に私の懇願を受諾すると、ランプの精は言語不明な呪文を唱えはじめた。
すると、辺りからみしみしと軋む音が聞こえてきた。どうやら海水の質量が増えてきているようだ。
窓ガラスには罅が入り、ついに耐え切れなくなって衝撃とともに砕け散った。
「いっくわよお」
海水は激流になり、室内のあらゆるものを巻き込んで、筒抜けの窓から飛び出し、川となり天へ昇っていく。
「さらばだ。みんなおさらばだ」
私は星空と見紛う街の灯を俯瞰しながら別れを告げた。
見上げては羨望し、対等に向きあうと疲労困憊した、この街に。
そして、今は見下して安堵と退屈を味わっている。
現実へと帰るのだな。
あの温かで真っ暗な現実へと帰るのだ。
しかし人間の姿のまま深海で生き抜くのは死活問題である。
悠長に西洋ランプが傍らに漂流してきたので、私はランプの精を呼び止めた。
「おい、最後の願いだ。私の尾ひれを返せ」
「あら、三つ目の願いはもう叶えたわよ」
さも当然かのようにランプの精は言った。
「ば、ば、馬鹿な! 私は人間の足と故郷への帰還しか頼んでいないではないか!」
「あんたはね。でも、クラゲちゃんが部屋を水槽にしてほしいって願ったじゃない」
「それはクラゲが勝手に願ったことであって、私が願ったわけではないだろう」
狼狽する私に、ランプの精は激昂した。
「あんた、言ったわよね! 友の願いは、私の願いだって!
今更、女々しいことぬかしてるんじゃないわよ!」
うっ、と言葉に窮してしまった。
私は項垂れて苦い後悔を抱きながら、お先真っ暗な海の底を想った。
いろんなことに影響を受けているのに、いろんなことを吸収しきれていません。
でも、嫌いになれないのは自分で書いたからなのでしょう。
読んで頂きありがとうございました。