9.嘘誠院音無
重たいものが一瞬でなくなった。
同時に僕の中で何かが壊れて、僕は闇の中へ沈んでいったような気がした。
気付くと僕たちは森の外、家の前にいた。全員キョトンとした顔で森のほうを眺めている。テレポートでここに飛ばされたのだという答えに辿り着くのはそう難しいことではないはずなのに、随分と時間がかかってしまった。
「えっと……すみません、ありがとうございます」
うまく状況を掴めないまま、僕は僕の身体を支えていてくれている葉折君にお礼を言った。どうしてこうなったのかよくわからない。
「……癪だけど、こればっかりはお礼を言う相手は僕じゃないみたいだよ」
そんな僕に、葉折君は苦虫を噛み潰したような顔で森の方を顎で指しながら言った。見てみれば、森全体が氷で覆われていて中にはいることが出来ないようになっている。
氷。
ということは猫さん。
そういえば一瞬だけ、猫さんが僕を抱き締めてくれたような気がする。そんな幸せなことをどうしてはっきり覚えていないのかと憤りたい気分だが、身体に力が入らないので諦めた。多分、僕のことを支えてくれたんだと思う。
でも、それにしても、何故猫さんは森を氷で覆ってしまったのだろう? それに何故、葉折君はこんなにも苦々しい表情を浮かべているのだろう。
答えは師匠が持っていた。
「……いつの間に、こんな数揃えたんや……」
魔力探査機を手に、師匠がポツリと呟いた。同じものを持った海菜さんは眉間に深いシワを刻んでいる。
その画面を覗き込んでみると、中央に黄色・水色・青緑の点があった。その三つの近くには黒い点もある。でも、それらよりもなによりもまず目に飛び込んできたのは、画面を埋め尽くさんばかりの白い点。それが、ゆっくりと中央の三つの点目掛けて移動をしていた。
「ッ! 離して! お姉ちゃんと綾にゃんがそこにいるの!」
「……さくらつきも……!」
「んなこたぁ、見りゃ分かるわ。その上で俺様が直々に止めてるんだから察しろ。行くだけ無駄だ」
気付けば気流子さんと時雨さんが氷で覆われた森へ向かおうとしていて、その腕を仙人さん(稲荷様?)がつかんで引き留めていた。
そう、この色のついた点は猫さんと雪乃さんと桜月君を表す。そして恐らく、この黒いのは──
「ああ、我殿やろな」
師匠がげんなりとした顔で頷いた。
だけど白い方がわからない。しかも、こんな大量に。ここは滅んだ世界で、人なんて極僅かしかいなくて、大半が世界再建のために荊様が別世界から連れてきたんじゃなかったのか。こんなに人がいるんじゃあ、その前提が崩れてしまう。
「──荊があとで話すって言うときながら言わんかったことやけどな……月明の連中を連れてきたんは我殿のクソッタレや。そんでもって、全員漏れなく我殿の配下にある」
それが第三部隊の正体や、と師匠は心の底から軽蔑したような、我殿への嫌悪を全く隠すことなく言うのだった。
……なるほど、なり損ないとは言え、神様になれるはずだった存在なのだ。別世界から人を連れてくることは出来るのだろう。自分が世界を移動するように、他人を移動させればいいのだから。
でも重要なのはそこじゃない。どう連れてきたとかそんなことはどうだっていいんだ。そこに事実があるだけなんだから。
そんなことよりも、氷で覆われた森の中で、猫さんたちはたった三人で“組織”の第三部隊と対峙しているということだ。それをこんなところで機械片手に眺めてる場合じゃあ、ない。
「……助けたいと、思うやろな。この中に飛び込めばクソみたいな状況を変えられると、義務感みたいなモンが芽生えるやろな。俺だってそうや。けどな」
言いながら師匠はどこからともなく大振りのナイフを出す。僕と同じ召喚術だ。
師匠はナイフを逆手に持つと、その右手を思い切り右後ろ、僕がいるのとは反対の方向へ刺すように振り回す。ナイフは空を切るわけでもなく、ガキィンと耳障りな音を響かせた。
「残念ながらそれは出来ん」
「おっと、流石『お師匠様』。防がれちゃったか」
師匠が振るったナイフを受け止めたのは、刀身が真っ黒なナイフ。そして、それを持った僕の兄。僕の召喚獣でもある嘘誠院狂偽だった。
その姿を見るなり背筋に悪寒が走った。それと同時に改めて理解する。背けていた現実と向き合う。もう、この人は僕の召喚獣なんかじゃないんだと。
一瞬にして消えてなくなった重たいものは、この人そのものだったのだ。
「久し振りだね、音無。やっとこうして向き合えて嬉しいよ。どれだけこの日を待ちわびたことか。まあ、音無の召喚獣になるのも悪くはなかったんだけどね。音無ってば俺を全然呼んでくれないんだから」
言いながら兄さんはナイフを持った手とは逆の手に掴んでいた少女の身体を乱雑に投げた。見たこともないその少女は、悲惨なほどにボロボロで、右腕と左足が無くなっているにも関わらず血が一切流れていなかった。
「……お前、俺の可愛い娘に何してくれとんのや」
「可愛い娘と思ってるなら俺に向かわせるべきじゃなかったんじゃない? つまりアンタが悪い」
少女への扱いも含めた怒りを込めて、師匠は静かに言うが、兄さんはそれを何でもないように、師匠を挑発するように答える。
どうやらこの少女は師匠の作品らしい。きっとかつてのアリスさんの姉妹にあたるのだろう。だから血が流れていない。ただ、師匠の作品が、アリスさんの姉妹が、こんな再起不能になるまでボロボロにされるなんて、とてもじゃないが信じられない光景だった。だって、恐らく兄さんへの術が解けた瞬間から今まで、そんなに時間が空いていた訳じゃないじゃないか。この短時間にどんな暴力を降るったらこうなってしまうのだろうか。
「うーん……本当は音無と久々の再会みたいなことしたかったんだけど、随分と邪魔がいるね──」ニコニコと笑いながら兄さんは身体を捻りつつナイフを離して後ろを向いて、そして手を伸ばす。「ほら、こんなにも血の気が多い」
何が起こったのか、あまりにも一瞬の出来事で理解することができなかった。
ただ、気付けば兄さんは仙人さんの燃える拳と、海菜さんの空間を斬る刀を素手で受け止めていた。そうなれば最後、二人がどんなに力を込めようと兄さんはびくともしない。
「やっぱり、俺の願いを叶えるためにも一旦引こうかな。ああ、この少年は借りてくよ。文句はないね?」
「無いわけがないだろ」
次の瞬間には兄さんに捕まった二人が思い切り地面に叩きつけられていて、仁王くんに伸ばした腕を小坂くんが掴んですんでのところで止めていた。
だけど、その腕はあまりに非力で。
もう神様ではない、ただの人間になってしまった小坂くんの力など、兄さんの前では無に等しく、あっさり小坂くんの身体は宙を舞い、そして地面に叩きつけられる。
「ッ、小坂くん!」
それを見て今度は気流子さんが吠える。
地面に叩きつけられた小坂くんに駆け寄りながら、珍しく、本当に珍しく感情に身を任せて気流子さんが魔力を振るう。魔力で練り上げた大きな水の塊を兄さん目掛けて振るう。
「アンタたちの意見は聞いてないんだよね。俺は音無と話をしてるんだから邪魔しないでくれるかな」
無慈悲なほど簡単に、兄さんは水の塊すら片手で受け止めて、そして破裂させる。その勢いで気流子さんは後ろへ吹っ飛ばされる。
そして兄さんが僕を見る。僕は──
「そうそう。音無はそうやって小さくなって震えてるのがお似合いだよ」
にっこりと笑って兄さんは言う。そして仁王くんを掴まえると、仁王くんと共に目の前から消えていなくなってしまった。
視界から兄さんが消えたことで、やっと僕の全身が動き出す。どうやら息すら止まっていたらしくて、一気に身体から空気を吐き出すと、喘ぐように酸素を求めて空気を吸った。立っていることが出来なくて、いつの間にか僕は地面に膝をついている。
そうだ。兄さんの言うとおりだ。
僕は悔しいほどに何も出来なくて、情けないほどに身体ひとつ動かすことが出来なかった。




