7.嘘誠院音無
僕が目を覚ますと、そこは知らない家だった。
「よう、お目覚めか」
体を起こすと聞き覚えが有るような無いような声で話し掛けられたのでそちらを向く。すると、上下ともジャージの男がはにかみながらこちらを見ていた。
僕はこの人を知っている。
戸垂田小坂くん。
僕の家の隣に住む人だ。
この人が目の前にいる、ということは、ここは隣の家なのだろう。こうして簡素な敷き布団で寝かされたところを考えると、この人が手当てをしてくれた、とかなのだろうか。
夕飯を食べようとしたら岩が降ってきたところまでは覚えている。そして、猫さんが庇ってくれたこともギリギリ覚えている。
「えっと……とりあえず、ありがとうございます」
とりあえずでお礼を言う僕。とりあえずでは感謝の意も何もない。
「とりあえずかよ。まあいいけどな」
案の定小坂君にもそう指摘されて笑われた。良いらしいけど。
「お前にも伝えておくと、全員かすり傷程度だ。頭に強い魔法によるダメージを受けて気絶してたみたいだが、後遺症とかなんか心配するようなことはねぇよ。ちなみに、お前等の手当てを俺に頼んできたのはチャイナの娘だ」
そいつにも礼を言ってやれよ、と小坂君は言う。僕は改めてお礼を言った。今度は、ちゃんと。
僕にも、ということは、僕の前にも誰かと話をしたのだろう。さて誰かな。寝ていない人を探せばきっとその人だろう。みんなが同じ場所に寝ていれば、だけど。
辺りを見回す。
布団は四枚敷いてあって、僕がいる布団以外は全部空だった。それどころか、僕の正面にある布団は丁寧に畳まれている。
「僕が最後じゃん!」
「ま、そういうこった。寝坊助も元気ってことで問題は何もねぇな」
カラカラと小坂君は笑う。言い返す言葉がないのがとても悔しい。
「ねえねえ、タコサカくーん! 気流りんお腹すいちゃったんだけど、このあんパン食べてもいーい?」
「誰がタコだ! っていうか人んちの台所漁ってんじゃねぇよ!」
なんて、爽やかに笑っていたのも束の間。小坂君は爽やかな笑みを浮かべていた顔を崩して、半切れで台所と思わしき場所から響いてきた大声に大声を返した。
そして気流子さんは流石気流子さんとしか言いようがない。居候のなかで一番の大食らいである気流子さんには、ご飯を作る度に手を焼いている。だからこその、たっぷり食べられるカレーと言うチョイスをしたのだけれど、食べられなかったのでは意味がない。
「……ったく、フリーダム過ぎんだろ、お前んとこ。猫神は『ちょっと散歩してくるね』とか言って出てくしよ。本当は今日一日安静にしてほしいんだけどな」
心底困ったように小坂くんは僕に愚痴った。なんとなく「すみません」って言っておいたけど、別に僕が悪いわけでもない。むしろ僕はなにもしていない。
「ねぇねぇ、ヘタレた君」
「お前わざとだろ」
「けろっ」
わざわざ小坂くんを刺激するように呼び掛けてから、気流子さんは小坂くんの肩をつついた。ちなみにあんパンは持ってない。多分既に食べきったのだろう。
「小坂くん、にゃんこ飼ってるの?」
「は?」
キョトンとした顔の小坂くん。気流子さんは気流子さんで「あれー?」とか言いながら両腕で抱えた黒猫をみた。いつ連れてきたんだ、その子。蛙だけじゃなくて猫も許容範囲なのか。
「でもこの子、玄関で鳴いてたよ?」
「外か?」
「ううん、中」
訳が分からないといった風に小坂くんは更に間抜け面になって首をかしげた。それから気流子さんから黒猫を受けとる。
「音無、お前この辺で野良猫見たことあるか?」
「無いですけど」
「だよなぁ?」
猫を飼っては居ないらしい小坂くんは、僕にそんな質問を投げ掛けた。
正直、野良猫どころか動物類をほとんど見たことがない。森の中に入っていけば何かしらいるのだろうけれど、そんなところ入ろうとも思わないので論外だ。気流子さんが来てから、辺りに蛙が増えたけれど、でもそれだけである。
「おまえ、どこから来たんだ?」
黒猫を持ち上げて自分の鼻と猫の顔をくっ付けるようにすると、小坂くんは猫にそう問い掛けた。勿論、猫なので問いが返ってくるわけがない。小坂くんも分かっていてやっただろう。
「あー、ごめんね。僕だよ」
「ッ!?」
「喋ったァ!?」
驚きのあまり思わず猫を離す小坂くん。
驚きのあまり声を裏返らせながら叫ぶ僕。
そんな僕たちを面白がるように笑って、いや、黒猫の表情は何一つ変わってないんだけど、なぜか笑ってるように見えた。いや、そんなことはどうだっていいんだ。大問題だけれど。
華麗な着地を決めた黒猫は気流子さんの方へ歩いていく。
「ごめん、気流ちゃん。ちょっと手伝ってほしいんだ。僕についてきてくれる?」
「……綾にゃん?」
「ん、そうだよ」
しゃがんで近付いてきた黒猫を撫でながら小首を傾げた気流子さんに、にっこりと笑いかける黒猫。表情は何一つ変わっていないのにそう見えるのは何度みても不思議だ。いや、だからそうじゃなくて。
猫さん?
質問をする前に黒猫と気流子さんは部屋から出ていってしまい、僕の疑問はぶつける宛がなくなる。
「……黒猫が、猫さんって」
「言ってたな。魔術で作ったとかなんじゃねぇの?」
「……ああ、なるほど」
それにしては質感がやけにリアルだった気もするけど……まあ、きっとそういうのとなのだろう。
程無くして気流子さんは帰ってきた。ただ、様子がどこか違った。
「小坂くんッ、早くッ!!」
玄関から切羽詰まったような気流子さんの叫び声が響く。今度は何をやらかしたのだろう、あの子は。何時もそうやって人を呼ぶとき、気流子さんはろくなことをしていない。
そんな僕の雰囲気を察知したのか、小坂くんも適当に「はいはい、なんだよ」と言いながらぬるぬると玄関に向かう。
何をしでかしたのか気になったので、僕もなんとなくそれに続く。
「……っえ?」
そして僕は言葉を失った。
気流子さんは人間を一人、背負っていた。気流子さんよりも背負われている人間の方が大きいせいで、両足が地面につき引きずられている。気流子さんの左肩に頭、右肩に右腕がだらりとかかっていて、ピクリとも動く気配がない。
服は何者かに襲われたかのようでボロボロだ。とろこどころに赤い染みを作っていて、とても痛々しい。いつもは綺麗な金髪も、今は泥で汚れてくすんでいる。
「……っ、なんで、猫さんが」
何が起きた? 落ち着け。小坂くんは、みんな掠り傷で済んだと言っていた。なのになんでこんな傷だらけに。違う、そこじゃない。猫さんがそうなったのは、あの岩のせいじゃない。だって小坂くんは猫さんが散歩に出掛けたといっていたから。そうじゃなきゃ今運ばれてくるのはおかしい。でもさっきまで猫さんはここにいた。違う、あれは黒猫だ。猫さんだけど猫さんじゃない。じゃあ、なんで。どうして。
「どうしてッ、猫さんが!!」
「そんなことよりも先ずは治療だろッ!」
僕は咄嗟に誰かに掴みかかりそうになって、小坂くんに怒鳴られて、そして誰かに後ろから抑えられた。その隙に小坂くんと気流子さんが猫さんを運ぶ。
「……音無、一回落ち着こう」
耳元で戸惑ったような声が聞こえる。この声はーーそうだ、葉折君。
「離してください、葉折君。猫さんが」
「ーー君が猫神のことを思っているのは分かった。だから今は落ち着こう。叫んでも、何かがよくなる訳じゃない」
妙に冷静な葉折君はそう言って僕を諭す。するとどういうわけだか、僕は無理矢理落ち着かされていった。
「……ありがとう、葉折君」
「これでいいの? 急に音無を抑えてほしいって言われたときは何かと思ったけど。君の頼みなんか聞くつもりはなかったけど、まあ仕方無いよね。で、何なの、これ」
不機嫌そうな葉折君の声が聞こえる。
「そんな顔しないでよ。大丈夫、ちゃんと話すよ」
僕の視界で、黒猫がそう言って苦々しい笑みを浮かべていた。