3.猫神綾
視界に広がる一面の氷。
凍えそうな真夏の故郷。
その日差しにジリジリと焼かれながら、僕は地面とピッタリ密着していた。
絶え間なく走り回る電撃のような痛みと、失った左腕のお陰で、立ち上がることはおろか、起き上がることすら出来ない。バランスが思うようにとれないんだ。
それでも僕は、そんなんだから僕は、ズリズリと地面を這って、這ってでも進んで弟に手を伸ばす。
『裕……、……ッ!』
氷の中に閉ざされていく弟はピクリとも動かない。早く……早く助け出さないと。
だというのに、右腕だけでは全く進まない。せめて立ち上がることができれば違っただろうに。自分の弱さを恨むしかない。
それでもなんとかここまできた。あと少しで裕に届く。あの氷を砕くことができれば、きっと……。
『……えっ?』
本当にあと少しなのに、手を伸ばせば届きそうなのに、実際に手を伸ばしていたのに、僕の手は空を切った。届かない。それどころか、やっとの思いで近付いたこの距離が逆に遠くなっていく。
裕が、世界が遠退いていく。いや、遠退いているのは僕の方なのか。
『────ッ! ────ッ!!』
なんで、どうして。
声すら届かず、自分ですら何を言ったのかも分からず、僕は闇の中に引きずり込まれていった。
その最後の瞬間に、裕に近付く一人の少女がこちらを向いて悲しそうな顔をしているのが見えた気がした。
◇
「ッ!」
ぼすん、という音がした。僕が右腕を降り下ろした音だった。
見慣れた天井といつもの匂い。気分の悪さは多分、さっきまで見ていたものが夢だったんだと証明している。
夢。
……果たして、さっきみたものを夢で片付けていいのだろうか。絶対に、ダメだと思う。
確かに、今の僕からしてみればあれは夢なんだけど、過去の僕からしてみればあれは紛れもない現実の筈だ。
つまりさっきのは、夢ではなく、強烈な記憶の再生。記憶の整理によって生まれた産物。
そんなこともあったと、忘れたくても忘れられないような記憶だ。ああ、そうだ。僕はあの日、弟に手を届かせることすら出来ず、世界を追放されたんだと思う。
でも、この違和感はなんだろう。
ずっとそんなこと忘れていたような気がする。こんな大事なこと、忘れていい筈がないのに。記憶にされていた厳重な封が解かれたような気分だ。
きっと、この感覚は正しいんだろうね。でも、だとしたら何が切っ掛けだったんだろう? 僕に何が起きたんだろう……。
「あれ……」
とりあえず寝過ぎだったのか腰が痛いなぁって思って起き上がろうとしたんだけどダメだった。バランスを崩して上手く起き上がれない。どうしても右側に傾いてしまう。ああ……懐かしいなぁ、この感じ。左腕が無くなったばかりのときもこんな感じだったよね。
右腕に全体重をかけながら起き上がって、そのまま体重を支えていればバランスを崩さずにいられるんだけど、右腕に何かが繋がっていたからやめた。
よくみたらそれは細い管で、管はつる下げられた液体の満ちた袋に繋がっていた。つまり点滴だった。
え? 点滴繋がってるってどういう状況?
あー、よし、バランスは氷で左を重くすればいいや。寝たまんまじゃ状況も掴めないし……移動、は出来るのかな、これ。
「……うぅ」
やっとの思いで起き上がってみると、僕の足の辺りで腕を枕にして突っ伏して寝ている雪乃の呻き声が聞こえた。なんで雪乃はそんなところで寝てるんだ……。
でもまあ、丁度いいや。ちょっと頭の中を読ませてもらおう……。見ている夢にここ最近の記憶が混じっているといいなぁ。
「ッ!」
なんて、軽い気持ちで雪乃に対して読心術を使ったんだけど、すぐに後悔した。人の夢って見るもんじゃない。色々な情報が流れ込んできすぎてすごく気持ち悪い。
最初に見えたのは、ため息が出るほど綺麗な夜空と、それを映す湖。そして、そのほとりで横たわって動かない気流ちゃん。
次に飛び込んできたのは、音無君の元へ全速力で向かって、辿り着くと同時に銀色の刃に貫かれて無様に崩れ落ちていった僕の横顔。
最後はこの家での記憶。気流ちゃん、仙人ちゃん、小坂君が代わる代わるこの部屋に入ってきて雪乃に声を掛けるけど、雪乃はそれを雑音として処理していたみたいで何を言っているのかは分からない。視界は死んだように眠る僕の寝顔に固定されていた。ちょっと恥ずかしい。
「……ごめん、雪乃……」
今気づいたけど、声が掠れて上手く出なかった。どれだけ長い間声を出してなかったんだろう。というか、僕はどのくらい眠っていたんだろう。
きっと、この親友様はそんな僕の傍からずっと離れないでいてくれたんだね。出来れば自分をもうちょっと大切にしてほしかったんだけど……僕も人のこと言えないか。
そんなことを考えていたら、右手が自然に動いて雪乃の頭に伸びていた。手を置いて、ゆっくりなぞると雪乃が少し反応するのがわかる。睡魔と格闘してるのかな?
どうせ雪乃のことだから、きっと僕なんかのためにほとんど眠ってなかったんじゃないかな。だったら今ぐらいゆっくり眠ってほしいね。寝付けるまでこうしててあげるからさ。
「…………」
「あれ? 起きちゃった?」
おかしいな、寝かせてあげるつもりだったんだけど逆効果だったかな。それでも頭を撫でるのをやめない僕。なんかそういう気分だったから仕方ない。
突然目を開いた雪乃は、とても眠そうな至極不機嫌そうな顔でどこか一点を見つめている。起動中、って感じかな。
「おはよう」
「……おはよう?」
声を掛けてみるとちゃんと反応が返ってきた。大分覚醒したっぽいね。
って思っていたら、雪乃の目が突然くわっと見開かれた。び、びっくりした……急にどうしたんだろう。
「おはよう、じゃ、ないわよ!」
「えぇ? じゃあ、こんにちは? それともこんばんは?」
「そういう意味じゃないのよ! 本ッ当に……ッ!」
あー、ごめんってごめんって。ふざけてるつもりじゃなかったんだよ? ただ寝て起きたって感覚しかないからこんななっちゃっただけで。
雪乃は言葉を詰まらせると、思い切り僕に飛び付いてきた。せっかくバランスとって起き上がったんだから押し倒さないでほしいな? とか思わなくもなかったけど、雪乃が僕に抱きついたまま静かに泣いているっぽかったので黙っておくことにした。
その代わりに、僕も雪乃の身体を抱き締めて頭を撫でる。ふふ、小さい子供をあやしてるみたいだ。
それをずっと続けていると、次第に雪乃が静かになっていくのがわかった。おや、寝ておられる。泣きつかれたのか、それとも寝不足だったのか。うん、どっちもだね。寝ながら僕をホールドして離さないのは流石だと思う。
「ほゅお!?」
仕方無いなぁって和んでいたら、突然空気をぶち壊された。派手な音に驚きすぎて自分でもどう発音したのか分からない声が出ちゃったじゃないか。
何が起こったんだろう、って思いながら雪乃から視線をはずすと、こちらをガン見して口をパクパクさせながら固まっている空美ちゃんがいた。物凄い表情だね。
そしてその数秒後には下からバタバタと激しい足音が聞こえてくる。次は誰かな。小坂君かな?
「こ、小坂さんッ!!」
小坂君だったね。最後の方、小坂君が階段を昇る前に空美ちゃんが空間移動でここまで小坂君をつれてきちゃったのにもちょっとビックリした。いつの間にテレポートでにるようになったんだろう? いや、超短距離だから出来たのかな? でも予備動作も無かったね。前は結構神経を尖らせないと出来ていなかった気がしたけど。
「────ッ! ────ッ!?」
「あはは、何言ってるかわかんないよ」
なんでもない風に挨拶してみたけど、一二〇パーセントぐらいのリアクションをいただいちゃった。驚きすぎたよ。いや、実はそうでもないのかな? もしかして、僕ってそんなに重症だったの?
……昏睡状態だったのか、僕。
全然知らなかったなぁ。でもお腹すいたもんは仕方無くない? 僕だって生きてるんだぞ。
と、ナチュラルに読心術をつかうのはここまでにしておこう。このままだとみちゃいけない領域までズルズルみちゃいそうだもんね。
それに、それよりももっと気になることがある。
「あ、あのぅ……お二人とも、どうかしました?」
来たね。
おずおずと顔を出した前髪の長い少女。九十九雷って名乗ってたっけ?
彼女がなんでここにいるのか聞かないわけにはいかないよね。随分と、戦ったときと雰囲気が違うとはいえ、敵には敵の筈なのだから。
小坂君に向けていた意識を彼女に向ける。どうやってみんなを騙したのかは知らないけど、当然のことながら僕には通用しないよ。僕は、こういうことのために居るようなもんなんだから。
「ああ、悪いな。えっと……ずっと寝てた奴が目を覚ましたんだ。覚えは……無い、よな」
「そう、ですね……ごめんなさい」
「あーっと……猫神? 言いたいことが色々あるのは重々承知だが一応聞いてくんねぇか? ……猫神?」
「あー、うん、ごめん。その必要はないよ」
呼びかけられてハッとして、僕はそう答えた。頭が痛い。けど、信じる他無いみたいだ。
「大丈夫、小坂君たちの判断は間違ってなかったよ。彼女は……えっと、終夜雷ちゃんは、九十九雷としての人格を失ってる。封印された……って訳でもないみたい。綺麗さっぱり、居なくなってるよ。それで、今の雷ちゃんが小坂君たちに言ったことにやましい部分はない。本当に何かしなきゃいけないことが有るみたいだよ。それがなんなのかは分からないんだけどね」
「そ、そうか……」
小坂君と空美ちゃんは困惑していて、雷ちゃんは驚いていた。うん、こんなこと寝ていたやつに言われても困るよね。でも一応、これが役目、のはずだからね。それは果たさなきゃ。
まあ、本当のことを全部言ったわけでもないんだけど。
「それよりも小坂君、お願いがあるんだ」僕は窓の外に目を向けて言った。のんびり寝ていたせいで、随分と時間がなくなってしまったみたいだ。「今すぐ点滴を抜いて、ある程度の栄養補給出来るものをくれないかな。大丈夫、身体を動かすのは魔力で身体を補強するなりなんなりして、どうにかするよ」
ダメだ、と言いたげな表情を浮かべている小坂君と、僕の意図することが分からず首をかしげる雷ちゃん。空美ちゃんだけが窓に向かって走っていった。やっぱりそういう血筋の子だね。もう少し早く気付けば良かったかもしれないけど。
「どうやらあの森、“組織”の面々に囲まれ始めちゃってるみたい」
雷ちゃんの中を覗いたときに、あるスキルが勝手に発動した。それは、僕の弟──猫神裕が所持していたはずのスキルで、探査系のスキルだった。
勝手に発動したそれが僕に見せたのは、“組織”で見た覚えのある魔力、それから覚えの無い魔力が丸く森を囲うように配置されて、徐々に中心へと向かっていくような図。森の中には見慣れた、この場にはいない四人の魔力があった。
……さて、こんな状況だっていうのに、確かめなきゃいけないことがひとつ増えてしまった。
雷ちゃんの中を覗いた瞬間に裕のスキルが発動したということ。
その答えはきっと、雷ちゃんの中に眠る読めないもう一つの人格にある。




