7.嘘誠院音無
「ね、こ……さん……?」
声が上手く出ない。声と同時に何かを吐いたような気がする。それでも、そんな状況でも、僕は声をかけずにはいられなかった。
猫さんが僕の前に立っている。
その足元にはポタポタと血が垂れている。
その背中は真っ赤に濡れている。
その背中からはすらりとした刃が生えている。
そして、猫さんの前に密着するように立っているのは空美さんによく似た女の子だ。
「……ああ、音無、君……」
パキパキと何かにヒビが入る音が聞こえた。同時に、こちらを向く猫さんの横顔が少し見えた。
猫さんは僕に向かって優しく、いつものように微笑んでいる。
「……よかっ……た、間に……合っ……て…………」
猫さんの声はだんだん遠く、弱々しくなっていく。その声は溶けるように消えたというのに、いつまでもいつまでも頭の中で響く。
猫さんが言い終わると、猫さんの背中から生えていた刃が高く響くような音を奏でながらバラバラに砕けた。
そして猫さんは、崩れるように倒れた。
目の前に猫さんの頭が現れる。
手を伸ばせば届く距離に猫さんの身体がある。
顔は見えない。見えるのはその背中だけ。
猫さんの身体はピクリとも動かない。
「猫さん……? ッ、猫さん? 猫さんッ!!」
喉が壊れてしまいそうな痛みを気にする余裕なんてなく、ただその名前を叫ぶ。
なんで……なんで、僕の身体は動かないんだ。こんなに近くにいるのに、どうして触れることができないんだ。
動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動けうごけうごけうごけうごけうごけうごけうごけうごけうごけうごけうごけうごけ動け!
「動けって言ってんだろ!!」
イライラする。ムカムカする。何もかもを壊してでも駆け寄りたい。自分の身体がぶっ壊れてもいい。この後動かなくなってしまってもいい。その代わり今だけは。
今だけは。
「音無様、落ち着いてください」
「……ッ、これをどう、落ち着けってんですか!! 猫さんが! 僕のせいで猫さんが!」
兄さんが僕の身体を起こすけどそうじゃない。そうやって介抱するなら僕なんかよりも先に猫さんを介抱してほしい。今だってその傷から血が流れてる。猫さんはさっきからずっと動いていない。早く……早く、小坂君に診てもらわないと。
「音無様、その女は置いていきましょう。他人よりはまずご自分の……」
「黙れ!!」
何を言ってるんだ? 兄さんは、こいつは、今なんて言った?
猫さんを置いていけ? 猫さんよりも自分を優先しろ?
何を、何を馬鹿なことを言ってるんだ。ふざけるんじゃない。だから、だからお前が嫌いなんだ。大嫌いなんだ。
「さっさと猫さんをッ、ぐッ!? ……がはッ」
「ああ、言わんこっちゃない……叫びすぎですよ」
喉が痛い。痛いというか焼けている気がする。いよいよ声が出ない。口元がべちゃべちゃに濡れていて気持ち悪い。こんなことをしてる場合じゃないのに。
「さて、音無様に危害を加えようとした貴女には是非ともその報復を受けていただきたいところですが……見たところ、武器を失ったようですね」
「ああ……最後の最後に砕かれたよ。で、貴様はどうするつもりだ、嘘誠院狂偽。私を殺すか?」
「そうしたいのは山々ですが、私には音無様をお守りする使命がありますゆえ」
「ふん、その口ぶり、嘘誠院音無以外はどうなっても良さそうだが?」
「その通りですよ」
僕を姫抱きにした兄さんが空美さんのお姉さんとそんな会話を繰り広げる。僕は二人の発言をすべて真っ向から否定して、二人を思いきり殴り付けたい気分だというのに、そのどちらも出来ない。ただ、大人しく抱かれながら、ヒューヒューと呼吸を繰り返すことしか出来ない。
こんなにも昂っているのに、思考も十分すぎるくらい巡っているのに、僕はあまりに無力だ。
目の前で猫さんが倒れたままなのに何をすることも出来ない。
「お姉ちゃんッ!」
「……空美か」
「……ッ、お姉ちゃんのこと、絶対許さないから……」
空美さんが来て、猫さんの身体を抱き締めた。そして、それだけお姉さんに対して言うと、僕の方に手を伸ばした。
その直後、視界は変わる。それでようやく、空美さんがテレポートして僕を運んでくれたことに気が付いた。僕なんか、放置でもよかったのに。
「血まみれじゃねぇか!!」
「小坂お兄さんは猫さんをお願い! ぼくが音無さんを診るから!」
「ッ、そりゃあ……猫神に全力を使えってことだな」
小坂君の叫び声が聞こえたかと思えば、小さな手が頬に触れた。へぇ、仁王君も治癒術を使えるのか……。
羨ましい、という感情しか湧かない。どうしてだろう。仁王君の持つ力が異色だからなのだろうか。あんまり驚かない。そういえば、仁王君の子どもらしいところをあんまりみたことがない。むしろ、僕なんかよりもずっと大人びている気がする。
なんてボンヤリと考えていると、右目の辺りに何かが巻かれた。包帯だろうか。
ああ、これで右目に気を使わなくていい、なんて思ったら、一気に眠気が襲ってきた。寝てる場合じゃないのに。
猫さんの無事を確かめなきゃいけないのに。
「――――ッ!!」
「――――!」
何かを叫んでいるのは確かなのに、それがなんなのかも全く聞こえない。
ただ一瞬、氷の割れる音が聞こえたような気がした。




