3.猫神綾
慣れない身体というのはとても不便だ。
思うように動けないし、動かし辛い。更にそれが人間のものでないとしたら尚更だ。
二足歩行が出来ないし、手が使えないから物を掴むことすら出来ない。猫というのはとても不便だね。
「でもまぁ……身軽なのはいいよねぇ」
僕は動くのが苦手で体力も皆無だから、こうやって自由気ままな動きができるのは楽しいしちょっと嬉しい。こんなひょいひょいと家の屋根の上に乗れるとは思わなかったな。
多分、気流ちゃんとか仙人ちゃんとかなら猫でなくとも出来るんだろうけど。
「仙人ちゃんなぁ……」
逃げられてしまった。僕の話し方が悪かったんだろうなぁ、とちょっと反省している。でも、気流ちゃんがあれだけ叫んだんだし、いつか帰ってきてくれるよね。
僕を殺さなかったことといい、気流ちゃんがああやってなついて、待ってると言い出したことといい、本当の仙人ちゃんが悪い子じゃあ無いんだよね。天真爛漫な子だけど、気流ちゃんだってただおバカな訳じゃないんだし。
「一人になって、仙人ちゃんは何をするんだろうなぁ……」
人の中身を読むことに慣れてしまうと、読めない人が出てきたとき酷く不安になる。仙人ちゃんは何を考えていたんだろう。
うーん……。
うん、分かんないな。これは仙人ちゃんが帰ってきたときに訊くことにしよう。気流ちゃんを見習って、考えすぎるのは良くないよねの精神でいくことにしよう。この事ばっかりは。
僕が原因には原因なんだけどね。
さて、今日はどうしようかな。一日中屋根にいるわけにも行かないし、だからといってお昼寝をする気にもなれない。身体が猫だからって習性まで猫になった訳じゃないんだよね。多分。
「あんの蛙娘がァァァァッ!!」
「にゃッ!?」
び、びっくりした……。
とりあえず下に降りようとしたら突然の叫び声って心臓によくないよ。うん。ドキドキしてるもん。自分じゃないのに怒られた気分になるし。驚きのあまり跳ね上がって猫みたいな声出たし。凄い、習性が猫っぽくなってるよ。早速前言撤回だね。
今叫んでいたのは多分音無君なんだけど、どうしたんだろう。気流ちゃんが何かやらかしたかな。とりあえず、今玄関の方に飛び降りても音無君がお怒りみたいだしやめようかな。怒ってる人って怖いよね。
ということで、僕はくるりと半回転して裏庭に降りるようにそっちへ向かう。すると、下から声が聞こえてきた。
「んとねー、ケロ君1号探してるのー!」
それは誰かと会話しているであろう元気な気流ちゃんの声。聞こえてくる方角的に小坂君の家だから相手は小坂君かな。庭で何してるのかって聞いたんだね。
うんうん。ほほえましい光景だね。
とてもほほえましい光景だけど、蛙がその辺にいることが明らかになったから暫くは裏庭には絶対に行かないようにしよっと。
気流ちゃんがいるから、蛙を根絶させることが出来ないのが最近の悩みの種です。雪乃がいたら、雪乃がなんとかしてくれたのになぁ。
蛙がいる方を選ぶか、怒ってる音無君がいる方を選ぶかと言われたら、勿論音無君の方。蛙の方には絶対に行かない。
ということで、僕はまた身体を半回転させて、適当なところを足場にしながら地面へ飛び降りた。
着地は見事に成功。猫の身体って凄いね。人間の身体だったら、僕は絶対にこんなこと出来ないもん。
音無君がいることを心配していた僕だけど、それは杞憂に終わって誰もいなかった。家の中に入っていったみたいだ。気流ちゃんは何をしたんだろうね。
さて、降りたはいいけど何をしよう。お散歩でもしてようかなぁ、とか思いつつ家の周辺をうろうろする。途中、知らない人が僕の後ろを通りすぎていったけど誰だったんだろう。この辺にまだ人がいたんだね。山を降りても人を見たことはなかったんだけどなぁ。
どうでもいいけど、今の僕って黒猫なんだよね。知らない人からしてみれば、黒猫の僕が前を横切っていったわけだから縁起が悪いとか思ってるのかな。ちょっと申し訳ない気分にもなるね。関係無いけど。
外にいるのはつまらない。気が向いたから家の中へゴー。ということで玄関のとなりの窓へ行く。ここはリビングの窓だ。猫の姿では開けられないから、窓を叩く。ひたすら叩く。あーけーてー。
「はいはい、なんですか……って、ああ、猫さん」
割りとすぐに音無君が窓を開けてくれた。リビングにいたんだね。
足を拭いてください、と言われながら出されたタオルを適当に踏んでから家の中にはいる。どうやら葉折君も今はいないみたいで、家の中はとても静かだった。やったね。
でも、静かすぎると逆につまらないんだよね。一人だと音無君はとても静かになっちゃうし。ソファーに座った音無君はどこか少し沈んだ顔をしていた。どうしたのかな。何か思い出しちゃったのかな。
音無君のことを読もうとすると、初対面の時みたいに余計なところまで読んでしまうから控えるようにしている。触れちゃいけない部分の線引きって難しいんだよね。
ふーむ。
ここは猫である僕が一肌脱いであげようかな。年長者らしいこともたまにはしてみたっていいよね。
ということで猫っぽい鳴き声(多分本当に猫の声)を出しながら、音無君の足元へ行く。それから足に顔や身体をすりすりしてみる。
人間がこれをやると問題だけど、今僕は猫だから許されるよね。あと、よくわからないけどなんとなくこんな行動をとりたくなるんだよね。やっぱり身体に思考が影響されちゃってるんじゃん。
そんな僕に対して音無君と言えば
「なっ……ね、ねねねね、猫さん? あの? えっと……これは?」
めちゃくちゃ狼狽えていた。なにこの子。面白いね。
人との触れあいに慣れていない子だとは思っていたけど、まさかここまでとは。というか動物相手でもダメなんだね。面白い子だなぁ。
反応が面白いのもあるけど、一応今僕は音無君を元気付ける意味でこれをやってるわけだから、人の言葉を話してしまったら台無しだね。ということで、質問には答えず、ただ「にゃあん」と鳴く。別に僕の鳴き真似ではなく、この身体から出る猫の声だからあざとさはゼロ。興醒めにもならない筈! ならないといいな!
「あれ……? 本当に猫さん? じゃなくて……もしかして猫さんじゃなくてただの黒猫? あれ……?」
なんてことを繰り返していると、段々音無君が僕が僕なのかそうじゃないのか疑って混乱し始めてしまった。これじゃあ癒しとかにはならないね。余計に考えさせちゃ意味ないかなぁ。ちょうど飽きてきちゃったし、ここいらで退散かな。
僕は音無君から離れ、開けっぱなしの窓から外に出る。その時に、少し寂しそうな音無君の「あっ……」と言う声が聞こえたから、気が向いたときにまたやってあげようと思った。
外に出た僕は小坂君の家へ向かった。こっちは割れている窓からなにも言わずに入る。すると、入った部屋では僕の身体が寝ていた。
こうやって自分の身体を見るのは不思議な気分だ。鏡ではない、本当に客観的な姿。
あちこちに巻かれた包帯はところどころ血が滲んでいて、僕の身体の回復力の低さが伺い知れた。まだ傷はちゃんと塞がってないのかな。殴られただけだと思ったんだけど、随分と深傷を負わされたもんだね。
そんなことを思いながら身体の回りをぐるりと一周。身体の左側に来たところで、僕はあることに気がついた。
左の袖が結ばれている。
昔よくやられた悪戯。これをやられると袖が伸びちゃうし、恥ずかしいし。やられる度に叱ってた記憶がある。
うん。こんなことをやるのは一人しかいないよね。
「気流ちゃーん?」
おいたはダメだよーってことで、僕は気流ちゃんを反省させるべく気流ちゃんのもとへ向かった。