1.嘘誠院音無
仙人さんが居なくなって一週間が経った。
五人暮らしから四人暮らしになった僕の家は相変わらず平和な日々を送っていた。
気流子さんが寂しそうなのと、猫さんが相変わらず黒猫のままなのがきになるけど、でも、僕はこれでよかったんだと思う。実害があった以上、側にいるのは恐怖を感じるから。居てほしくないと、思ってしまうから。我慢し続けてもその先に迎えるものが破滅なら、我慢なんてしなくていいんだと僕は思う。
「……音無君、おなかすいた」
「さっき食べたばっかりですよね!?」
何故か今日は機嫌が宜しくない気流子さんがそんなことを言ってくるので僕は思わず突っ込みをいれた。機嫌が宜しくない人はあんまり相手にしたくなかったんだけどな。
「食べたけどお腹がすくの! なんでかなー……イライラするからお腹がすくのかなー……」
むぅ、と気流子さんはほっぺを膨らませて玄関に向かってあるいていった。僕にいくら言っても食べ物をくれないと判断したらしい。随分と早い判断だ。正しいけど。
それにしても、珍しい。気流子さんがあんなに表に出して機嫌を悪くすることなんて今までなかった筈なのに。ストレスフリーみたいな子なのに、今日は一体どうしてしまったのだろうか。
猫さんと葉折君は今日はそれぞれ出掛けてていない。小坂くんは勿論自分の家だ。
そして、仙人さんも勿論居ない。
「……あ」
僕は猫さんが来てから久しぶりに一人になった。
一人。
一人でいたときは何てことはなかったけれど、一緒に暮らす人が増えてからの一人となると、その魅力の大きさを思い知る。結婚したあとに一人の時間がほしいとか言い出す女の人の気持ちがよくわかった……素晴らしい、一人。
自由。圧倒的自由。何をしても自由。何を食べるのも自由。
無駄に声を出すこともなく、誰かに気を使うこともなく、近くに誰かの気配を感じることもない。
いい。とてもいい。
ソファに伸び伸びと座りながら、僕は恍惚の表情を浮かべていたと思う。
「ああ……解放感……」
「……何かに感動してるとこ悪いんだけど」
「フォワットゥッ!?」
染々と一人でいられる感動に浸っていたら、突然知らない声に話しかけられて変な声が出た。何時からいた。いつの間にいた。というかなんで後ろに。しかもここ僕の家だし!
「ふッ……不法侵入ッ!!」
「……まあ、勝手に入ったのは悪いとは思うけどさ、でも白昼堂々と玄関を全開にしてる方も悪くない?」
ソファから飛び降り、後退りしながら叫んだ僕に冷静に突っ込む声の主こと少年。焦げ茶っぽい色素の薄い髪色は小坂くんと何処か似ているけれど、小坂くんとは違って目の前の少年はさっぱりとした短さだ。目は緑と桜色が混じっていてとても不思議な色をしている。綺麗だ。
というか、さっきから少年と彼のことを呼んでいるけれど、なんとなく小坂くんと同い年っぽい。つまり僕より一つ上っぽい。
いや、そんなことはどうだっていいんだ。
不法侵入はどうでもよくないけど、でもそれを招いた事態がまず一番の問題だと僕は思う。
「すみません、ちょっと待っててください」
「あ、うん」
立ち上がり、僕は廊下に出て玄関に向かう。
玄関は本当に全開になっていた。
「あっんの蛙娘がァァァアッ!!」
そりゃあ誰だって入り放題だ。不法侵入とか言って騒げる立場じゃない。入るのは勿論悪いが、しかし入ってくださいと言わんばかりに扉が空いてるのがそもそも悪い。つーか開けっぱなしで出るなよ。僕の家だぞ、ここ。
「で? 気が済んだ?」
「ああ、はい、すみません、お待たせしました」
どうやら僕についてきていたらしい不法侵入者さんに声をかけられて僕は我にかえった。初対面の人にお恥ずかしいところを見せてしまった。
「ところで、どのようなごようけんでしょうーーか」
振り返る。
すると、ヒヤリとしたものが首に向けられていた。
「……え?」
少年はさっきと変わらない表情のまま僕にナイフを向けていた。
「嘘誠院音無。お前がこんな腑抜けた生活を送っているとは思わなかったよ」
へらりと少年は笑った。その笑みはとてもシニカルで、何処までも僕を嘲っていた。
「い……いや、貴方は僕の何なんですか」
僕は聞き返す。腑抜けたとか言われてもどう反応して良いのか分からない。普通に生活することの何が悪いんだ。僕は殺し屋か何かか。そんなことは決してないのだけれど。
「はぁ……これだから自覚の無い奴は嫌いだね。僕は、お前をいくら恨んでも足りないっていうのに、さ」
「そもそも誰かの恨みを買った記憶も無いんですが……」
「そういうところが苛立つんだよ。分かんないなら黙っててくれる? なんで首にナイフを向けられてもふてぶてしい態度しかとらないわけ? 表情も何一つ変えないしさ」
少年は言葉の通り苛立った様子で言う。訳がわからないので僕は彼の言うとおり黙ることにした。
人間って自分の処理が追い付かないとフリーズすると思うんだよね。現に、彼の言ってることが分からなすぎて何も思えないというか。恐怖の前に疑問が多過ぎてなにもできない。
「……僕の名前は琴博桜月。今度からはちゃんと覚えておくんだね。これからお前には沢山苦しんでもらわなきゃいけないんだからさ」
ナイフを下げ、桜月君はシニカルな笑みのまま言った。
僕はそんな彼にもう一つだけ疑問をぶつけることにする。苛立たせようが関係無い。なんか怖いことを言われているけど、その原因が分からないと実感もわかない。
「貴方は、何なんですか?」
風が吹く。冷たくてやけに鋭い風だった。
「僕は……お前の犠牲者だよ」
一瞬だけ表情を消してとても低い声で言った桜月君の言葉は頭によく響いた。
そして、その言葉の意味を聞き返そうとしたとき、彼は風と共に消えていた。