八.秘めたる力
星空を眺めながら翔が思っていたのは、負けて悔しいということでも、死ぬのが怖いということでも、家に帰りたいということでもなかった。
(ミシャを守れなかった)
だらしなく半開きになった唇が乾いていくのがわかる。死を感じる。しかしそんなことよりもただただ悲しかった。
「カケル! ねえ、カケル!」
涙で顔をぐしゃぐしゃにしてこちらにすがりつく少女が見える。
「いやよ、しっかりして……カケル!」
(逃げて)
遠のく意識の中、必死で叫ぶ。声にはならないが、必死で。
頼むから、お願いだから。君も殺されてしまう。ほら、もう後ろに迫ってる。あの男が……
紅牙に肩を触れられてもミシャは翔から離れなかった。
「ミシャナマール、だな?」
「……」
「司祭、ミシャナマールだな?」
「だったら、なによ!」
手を払いのけ、ミシャがカケルをかばうように立ちふさがった。
「わたしも殺すの? いいわよ。殺しなさいよ!」
「殺さない。連れていく」
「……え?」
紅牙の声は不気味に響いた。
「殺さずに、連れていく。わたしたち、あなたが必要」
言うなりその手がミシャの手首をつかんだ。彼女は悲鳴を上げたが紅牙はそのまま強引に引きずっていく。
冷え切った体と光を失った目で、翔はそれを見送った。自らの無力をかみしめる。女の子一人守れない。
視界がとうとう闇に呑まれた。ひんやりと死の底は心地よい。もう何も悩まなくていい。何も聞こえない……
「助けて」
それでも聞こえた声。脳裏に光が閃く。一気に目の前が開ける。勢いよく起き上がって目に入る風景は、先ほどとほとんど変わっていなかった。ほんの数秒も経っていない。砕けた儀式場があり、祭壇があり、猛然と突進する先には二人がいる。
「カケル!」
ミシャの顔がぱっと輝いた。
翔は答える代わりに爪で空気を引き裂いた。紅牙のいる空間を。
ミシャを放して避けた紅牙は、さらに大きく後退した。ミシャが地面に投げ出される。
広場が明るい。松明は消えていたが、翔を舐めまわすように炎の舌が躍っていたためだ。
犬歯と敵意をむき出しに、紅牙をにらむ。
相手はしばらく、やはり不動の瞳で翔を観察して、それから何事かつぶやいた。外国語のようなアクセントだったが、意味は分からない。
「ガアアアアアッ!」
怒声と炎を上げて再び突進した。ミシャが呆然とこちらを見上げているのがわかる。傷はもう痛まない。
しかし紅牙は微笑んでこう告げるのみだった。
「また、会おう」
叩きつけられた掌底をかわして、紅牙は横っ飛びに跳んだ。ちょうど翔の死角に滑り込むように。即座にそれを目で追うが、その時には視界の端にかすかな影を残すのみで姿はなかった。
羽ばたくような音がする。見上げると星の明かりに照らされて、影が遠ざかって行くのが見える。翼の生えた獣に、紅牙がまたがっている。
即座に翔は地を蹴った。炎が翼をかたどり体が宙に浮く。敵の背中をにらみつけ、彼我の距離を最短で埋めるための全開の速度を――
「カケル――!」
その直前に翔はすべての力と意識を失って落下した。
◆◆◆
紅い牙、あるいは紅牙と呼ばれる本当のところはカザニチカロという名の男は、翼獣にまたがって夜の空を飛んでいた。上空の気温は低い。厚着の装備でも手足が凍えるほどだった。
だが心は満たされている。親しみ慣れた故郷の言葉で相棒に語りかけた。
「ノギ。俺は今日、宿敵に再会したよ」
寒風に刺されてズキズキと痛み始めた頭の傷も、それほど気になりはしない。相棒はいつも通り無関心を装っていたが、彼女がこちらの言葉を無視しないことを、カザニチカロは知っていた。
こんなところまで出張ってきた甲斐があったというものだと彼は思った。正直なところ面倒以外のなにものでもない無意味な任務だし、あの司祭もなにもかも、全部まとめて爆破して終わりにしようと思っていたが、思わぬ収穫があった。
勢いよく火花を散らす業火。持ち主は違ったがあれは間違いなくあの日に見た魔の力だった。再び目にすると長老連中が目の色を変えるのも分かるというものだった。あれは絶対なる勝利を約束するものなのだ。
とはいえ、とかぶりを振る。人には過ぎた力だとカザニチカロは思った。手の中に入れるには大きすぎる。
「長老連中程度に使いこなせるわけもないだろうな」
相棒がわずかにこちらを振り返った。それに気づいてカザニチカロは苦笑した。
「無論俺にも無理だよ」
それはわきまえている。自分は欲を張らずにやるべきこと、それからやりたいことのうちのできることをこなすのみだ。カザニチカロは顔から笑みを消した。
見上げると、空高くある星と自身の間に、透明に冷えた風が吹き過ぎるのが見て取れるようだった。
「あの日の夢の続きを見させてもらうぞ、英雄『篝火』よ」
相棒の翼が、一際強く風を打った。