六.きっかけなんて、そんなもんでいい
先ほどまでいた建物、『守り手の館』を飛び立ってから一時間、二人は北西に向かって空を飛び続けていた。
眼下には落ち着いた雰囲気の、趣ある建物が一面に並んでいて、それは向こうに見える山の連なりの手前まで続いている。
目的地はその山中にあるらしい。そういえば確かに昨夜歩かされたのは山の下り道だったなと思い出した。
「結構遠かったんだな」
あの時は混乱したまま連れてこられたのでわからなかった。
ミシャナマールがうなずく。
「ええ、町からは遠ざけるように作ってあるの」
「なんで?」
「本来の用途は防衛。つまり砦だもの」
儀式砦。そこはそう呼ばれているのだった。
「防衛……って何から?」
「もちろん敵からよ。この国という芳醇な果実を狙う不届き者」
彼女の声が低くなる。
「野蛮な奴ら。獣と同じものを食べ獣と共に寝起きする知性のかけらもない蛮人。あんなやつらにこの国を渡すわけにはいかない……」
「もしかしてだけど」
頭を整理して翔は口を開いた。
「それって俺が呼び寄せられたのと関係してる?」
「……ええ、そうよ。わたしはこの国を救う英雄を召喚しようとしていたの」
「英雄?」
「かつてこの国に存在した超人。出自は不明ながら、当時の司祭とともに強大な力でもってこの国を守り支えていた大人物。十二年前、急に姿をくらましてしまったけれど……」
「ふーん……」
なんだか遠い話だった。当たり前だ。この世界に自分の過去はないのだから。
ただ、彼女がとても大きなものを背負っているのはなんとなく分かった。その小さな背中には重すぎるほどの。
彼女は一人で立っているようだった。誰か手伝ってやればいいのにと思う。一人で抱えきれるようなものには思えない。彼女には協力者が必要だ。
と、不意にミシャナマールが話の向きを変えた。
「あなたはどこから来たの?」
「俺? なんて言ったらいいんだろ」
いきなり訊ねられて困った。住所を答えても答えにならないのは確実だ。日本、と答えてもおそらく同じだろう。となればやはり返答は一つしかない。
「異世界」
「……頭大丈夫?」
呆れられた。
「そんなこと言われても事実だし……」
「言葉も同じなのに異世界?」
「そこは召喚物のお約束らしいよ」
「よくわからないわ……」
顔をしかめてミシャナマール。
「でもこの様子だと違うみたいね。さっきはもしかしてと思ったけど」
「え?」
「あなたは不思議な力を使う……でも、英雄じゃない」
「……」
ふと気づいて目を前に戻すと、山の木々の間に石造りの建造物が見えてきていた。
◆◆◆
祭壇でせっせと準備を始めるミシャナマールを後ろから眺めながら。翔は空を見上げた。すでに太陽は低いところにあり、山中のこの場所はずいぶんと薄暗くなってきていた。
元の世界はどうなっているんだろうと思った。時間はどれほど経過しているんだろうか。あの子はどうしているかな。少しはこちらを気にかけてくれているだろうか……
「準備、できたわよ」
整ったらしい祭壇に呼ばれ、彼女の目の前に立つ。
「じゃあ送り返すわね」
ミシャナマールが、すっ、と目を閉じた。その艶のある小さな唇が薄く開き、儀式の言葉がこぼれだした。
「あの」
が、翔の声がそれを遮る。ミシャナマールはきょとんと目を開いた。
「ミシャナマールはさ、これから多分、英雄の召喚を行うんだよね? 俺を送り返した後」
「? ええ。そこまでやらないと名誉挽回にならないし」
「それさ、俺を送り返す前に変更できたり……しない?」
ミシャナマールは上手く呑み込めなかったらしい。怪訝そうに眉を寄せたまま首を傾げた。
「いや、だからさ、その、俺も英雄の召喚を手伝えないかなって」
「……なんで?」
ミシャナマールの瞳がわずかに揺れた。
「さっきの話を聞いた限りだと、君はこれから英雄と一緒に敵と戦うんだろ? 自分の大事な国を守るために。それってすごく大変なことだと思うんだ。だから、せめて少しの助けにでもなれたらなって……」
「……本当にそれが理由?」
違う。
「……実を言うと」
これを明かすのには、割と勇気がいった。
「俺、フラれたんだ」
「は?」
「告白して、玉砕したんだよ」
「いや、それとこれと何の関係があるの」
彼女は本気で訳が分からなかったようだが、翔はできるだけ真剣に見えるように答えた。
「本気で告白してフラれると、人間ってすごく傷つくんだよな。まあ漫画に影響されたってきっかけだったけど、告白は本気だったんだ。そうすると、自分が誰にも必要とされてないんじゃないかって思うくらいに傷つく。俺も傷ついた」
そして、そんなときにあの声が聞こえたのだ。
「俺を必要としてくれる人がいるんだなって思った。単純だけど」
だから翔は答えた。
呼んでくれてありがとう。今行く。俺が手伝うよ。
「きっかけなんてそんなもんだ……そんなもんでいい。多分ね」
何に感謝するかは人それぞれ。マレトゥナも言っていた。ならば何に報いるかも人それぞれということだ。
「……」
少女は呆けた顔でこちらを見上げていた。馬鹿だと思われているのかもしれない。だがまあ構わないかとも思えた。
「といっても必要ないならそれはそれでってことで。気にしないで」
「カケル」
彼女に名前で呼ばれたのはもしかしたら初めてかもしれない。そんなことを思いながら彼女の目に視線を戻した。
少し見つめ合った後、ミシャナマールはつい、と視線をそらした。そしてためらいがちに言う。
「ミシャ」
「え?」
「わたしをミシャと呼ぶことを許すわ」
少し呆気にとられたが。
きっとそれは彼女にとってそれなりの意味を持つことなのだろう。少し可笑しくなって、翔は微笑んだ。
「ミシャ」
「でも駄目」
「え?」
「わたしは一人でやるわ。あなたは帰って」
「いや、でも」
しかしミシャはすっぱりと会話を打ち切ってこちらに背中を向けた。そして儀式の言葉を紡ぎ始める。
翔は戸惑ったままそれを止めることができずにいた。彼女の背中から、強い決意を感じたからだ。止めることなど許されない。
なぜだか焦燥に似たものに胸を乱されながら。ふと。何かが空気の層を突っ切ってくる音を聞いた。
落下の音。
「……!」
はっとして見上げる。
もう薄暗く星が出始めた空から、小さな影が降ってくるのが見えた。