二十一.天使様がいない
その場所は埃の臭いがした。そしてひんやりと冷えてもいる。ねずみの足音だろうか、どこからかカサコソと音が響いていた。
「気に入らねえな」
そう声を上げたのはカザニチカロから距離をおいて立つ禿頭の男だ。明らかに苛立った様子で腕を組み、つま先をこつこつ鳴らしている。
「何が、だ?」
「全部だ。言わなきゃわからねえか野蛮人」
言わなければ分からない、などということはない。ただ確認が必要な場合はある。生きてきた様式の違いが思わぬところで食い違いを生むこともあるからだ。自分にとって白のつもりが、相手にとっての黒だったということも稀には起こる。
とはいえ禿頭はすぐに言葉を続けたのでそれはないと分かったが。
「俺たちはお前の情報に従ってきっちり計画通りに動いたんだ。なのになんの成果もなかった。それで気分がいいとでも? いいか、お前の計画だったんだぞ!?」
その念押しにカザニチカロは首を振った。
「情報渡しただけ。計画に関わって、ない」
無論男もその点は理解していただろう。理解したうえでふっかけてきたのだ。禿頭は舌打ちして口を閉じた。こちらもいちいち深追いはしない。無駄な労力だ。
次に口を開いたのはもう一人の男だった。背は低いががっしりとした体を壁に預け、両腕をだらりと垂らしたままこちらをにらんだ。
「だがそれでも一枚かんでいるのには変わりねえだろ。今さら逃げようなんて考えない方が身のためだからな」
ひどくドスの利いた声だが言っているのは平凡なことだ。カザニチカロは小さく笑って肩をすくめた。
そう、今さらということなら、既に今さら過ぎるほど今さらだった。カザニチカロの戦いは十七年前、英雄『篝火』を目にした時からもう始まっているのだから。
「お前が持ってきた情報……あのチビが司祭というのは本当なんだろうな」
「証明の方法、ない。でも、あなたたち、見たはず」
二人の男たちはちらりと目を合わせる。彼らは思いだしていたに違いない。数日前のある酒場での乱闘未遂、その際に片方の男――今ここにいる小男だが――が負った傷を、その酒場の給仕が癒したことを。
一度見だけなら見間違いやただの気のせいと考えたかもしれないが、カザニチカロが新たに情報を吹き込むことで彼らはぼんやりとした『可能性』を一つの確信に変えたのだった。
「ならば、後はあなたたちの仕事。違うか?」
「……まあな」
二人の男はそろって目を底光りさせた。暗がりに潜む狩人の目を彷彿とさせる目だった。
カザニチカロはうなずいて、身を翻した。
◆◆◆
「人買い商人……?」
翔が訊き返すとミシャは大きくうなずいた。
「怖いわよねえ」
いつも通り酒場でのことだ。これもいつも通りミシャは給仕の仕事(失敗して散らかすことを仕事に含めればだが)、翔は用心棒見習いとしてクドーから教えを受けていた。
そして夜も更けてきた頃になって、ミシャが急に寄ってきて何やら声をひそめ言うのだった。人買い商人が出るらしいと。
「ああ、『首輪手繰り』たちのことか」
「知ってるんですかクドーさん」
「まあ知ってるっつーか噂だよな」
この街は隊商たちの街である。目的地への重要な中継地というのが主な役割ではあるのだが、もちろんここ自体も大きな市場だった。そういうわけでいろいろな商品がこの街にはあふれていた。
そしてこれも当然というべきか、扱われるのは真っ当な品ばかりではない。武器は当たり前として、無認可で掘り出した宝石や金、毒薬や麻薬などの危険な薬剤、そして極めつきは『人』という商品なのだった。
「首輪手繰りたちは数は多くないし扱う商品の量も少ない。が、人を扱う商人は確かに存在する。高く売れるからな。そして存在するのならこの街にいないはずがない」
だがまあ、と彼は続けた。
「あまり怖がりすぎるのもどうかと思うがね。首輪手繰りたちは商人うちでも嫌われてる。一応は国の方でも人身売買は禁じているしな」
「でも怖いわ」
「じゃあ隣にいる旦那さんにでも守ってもらえよ」
「なっ……!」
ミシャがさっと顔を紅潮させて話はお開きになった。
◆◆◆
ところでクドーの指導は案外丁寧だった。
「あの男、どう思うよ」
「暴れ出します。後三杯ほどですかね」
「なんでわかる?」
「指に指輪の跡があります。新しい。多分今しがた連れ合いと喧嘩か何かをしたばかりです。もしかしたら別れたのかも」
「それだけか?」
「後は表情と飲みのペースと、今にもこぼれそうな涙でしょうかね」
「よし合格だ。マスターに伝えてこい」
翔はうなずいて立ち上がった。
店主に推測を告げて戻ってくるとクドーは面白そうに翔を見上げた。
「まあ悪くないペースじゃないか? なかなかに筋がいいよ」
言われると悪い気はしないが、この男に褒められてどういう顔をすべきかはわからない。
三杯目の酒を頼もうとしてすげなく断られる先ほどの客を横目で見ながら、クドーは背もたれに体重を預けた。
「とりあえず第一段階はクリアってことでいいんじゃねえかな」
「まだ第一段階、ですか」
「なんだ不満か?」
クドーは驚いた顔をした。
翔は視線をテーブルに落とす。
「いえ……まだ先は長いんですね」
「ああ。まだまだ伸びる余地はあるってことだ。なんでそんなに暗い顔をする」
「そうは言われても」
ふうむとクドーは鼻息を漏らした。考えるように腕を組んだが、すぐにどうでもよくなったようにお手上げのポーズを取った。
「何を焦ってるのかは知らねえけど、あんまり悩むなよ。めんどくせえから」
それからしばらくは頭の後ろで手を組んで天井を眺めていたクドーだったが、あまりにも長い沈黙に居心地が悪くなったか自分から口を開いた。
「わーったよ、そんなに急ぎたいんなら付き合ってやらあな」
顔を上げる翔と目を合わせてピッと人差し指を立てる。
「観察と状況把握が大体できるようになったら次に必要なのは、自分の武器をどのタイミングでどう使うか考えることだ。どんなに強い力でもそれを間違えると意味がなくなることも多いからな」
「……例えば?」
「隊商の護衛をしていると考えてみろ。で、自分の強みはものすごい剣術の腕だったとする。だが人一人の剣の腕で対応できる数なんてたかが知れてるからな、大勢に襲われた場合勝ち目は薄い。おまけに一番大事なのは護衛対象を無事に目的地に届けることだ。そこをはき違えちゃいけない」
なるほど、と翔はうなずく。
クドーはしゃべりに熱が入ってきたか、どこか得意げに話を締めくくった。
「目的に合わせて武器の使い方を考える。敵を知り己を知れば百戦危うからずとかそんな感じだな」
ふと脳裏に違和感が生じた。何かあり得ないものを聞いたかのような。そしてとても懐かしいような。
だがその引っ掛かりは酒場の喧噪に流されるようにしてすぐに消えていった。
「どうした?」
「あ、いえ」
首を振ってから翔は改めて口を開いた。
「で、俺は自分の武器をどう使えば」
「知るか。自分で考えろ」
クドーの指導は意外と丁寧だったが、まあ意外以上のものではなかった。
と、そこで急に後ろから声をかけられた。
「あの、すみません」
振り返るとそこにいたのは給仕の一人だ。涼しい目でこちらを見下ろしている。
「えっと、何か?」
「ミシャちゃんが来てないです。知りませんか?」
言われて店内を見渡した。確かにいない。
彼女は少し遅れるとは言っていた。言葉を濁してはいたがまあほぼ間違いなく賭博場に行ったのだろう。小遣い稼ぎ程度には解禁して、実際それが借金返済に役立っているのは事実だった。
「ちょっと出かけるみたいなことは言ってたけど」
「それは知っています。でも遅すぎる気がして」
給仕の少女の目に何やら不安の色が浮かんでいた。そんなに心配するようなことではない。だが何やら翔の胸にもざわざわと嫌な予感が満ちてきた。
人買い商人。そんな言葉を聞いてしまったせいだろうか。
その夜、ミシャは店に姿を現さなかった。
借りている部屋にも、戻っていなかった。




