一.それぞれのきっかけ
その日、ミシャナマールは、『守り長』ティマーリカを説得しようと全力を尽くしていた。
「ティマーリカ、いい加減英雄召喚の儀の執行を支持してください。蛮族から国を守るにはもうこれしかないんです」
しかし鋼鉄の老女は本から顔を上げもせずに首を振った。
「なりません。召喚は許可されていませんから」
「それは、禁じられているということ?」
「いいえ。危険なので許可されないというだけです」
それを聞いてミシャナマールは猛然と身を乗り出した。
「だったら事と次第によっては」
「無理です」
老女は手元の本からこちらに目を移した。心底つまらないものを見るような、冷たい目だった。
「許可されたところでそもそもあなたには召喚などという大層なことを行うだけの力はありませんから。誠に残念なことですが」
「っ……」
思わず吐き出しそうになった悪態の数々を押しとどめて。ミシャナマールは老女に背を向けた。部屋を出て扉を乱暴に叩きつける。
廊下を怒りと共に足早に進んでいるその時にはもう決意は完了していた。
まず自室に戻って支度を始めた。その作業と並行してこの館を抜け出すための算段も頭に組み立てる。その実行のためにはあの厄介な友人の力も借りることになるだろう。忌々しいことだが。
小一時間ほどで準備を終え、ミシャナマールは少量の荷物を前に目を閉じた。
(待っていて、父さん。わたしやるからね)
英雄の召喚をやり遂げる。そう、これは死んだ父との約束を守るため、ひいては国を守るためなのだ。
「……よし」
ミシャナマールは静かに目を開いた。
◆◆◆
同じその日、城谷翔は、なんにでもきっかけはあるという法則性をかみしめていた。
今日、数学の村田が急に抜き打ちテストを思いついたのも朝の出がけに夫婦喧嘩をかましたからだという噂だし、清掃業者が場所を間違えて渡り廊下をワックスがけしてしまったのは、仕事後のデートにプロポーズを思いついて気がそぞろになっていたからだそうだ。
それから翔が同級生の女子に告白しようと決心したのは、愛読していた漫画の主人公が昨夜、ヒロインと幸せなゴールインを果たしたからだった。
なんにでもきっかけはある。もちろん現在翔が自室の机で死にかけているのにも理由がある。
(もうやだ。テスト散々で呼び出されたし渡り廊下通れなかったせいで揚げパン買えなかったし……フラれたし。死にてえ……)
明日は平日だ。普通に学校がある。あの子がいる教室に行かなければならない。行きたくない。
「ううう馬鹿だ俺……」
弱弱しく頭を抱えてひたすらうめいた。ただひたすらひたすら声を伸ばしていく。……が、少し伸ばしすぎたようで酸欠でも起こしたらしい。意識がぼんやりと緩んできた。少し気持ちが和らいだ。何も解決してはいないけれど。
声が聞こえたのそんなときだった。
「聞こえる……? 聞こえますか……?」
か細く、遠い声だ。
「聞こえていたら……答えて。お願い」
即座に答えた。なんかそういう気分だったので。何と答えたかはぼんやりしていたので忘れてしまったが、とにかくこうして翔は異世界へと旅立ったのだった。
なんにでもきっかけはあるものだと人は言う。だが起こったこととそのきっかけの重みは、常に釣り合うとは限らない。
テストの不出来や昼食のくいっぱぐれ、漫画に影響されての告白失敗による精神的死にかけという理由は、果たして異世界に飛ぶのにふさわしいのかどうか。翔にはわからなかったし、そもそも考える暇もなかった。