うたを
少しだけ遠慮のなくなってきた調子で、金子は扉を叩く。
はいー、という眠たげな声が聞こえた。
「入っていい?」
「ああ、クロかい? いいよ入って」
早速宇佐木の部屋に入ると、金子は少し興奮ぎみで持ってきた紙を見せた。
「歌詞考えてきた!」
そんな金子に、宇佐木は思わず微笑む。歌詞が書かれた紙を受け取り、静かに目を滑らせた。
「早かったなぁ」
「どーだろう?」
「ん」
じっと見つめている宇佐木に、金子はいてもたってもいられなかった。
「ど、どーだろう」
なにも言わない。そんなに悪かっただろうか。難しい顔をしている宇佐木を見て、金子はびくびくしていた。
「どこを直せばいいかな!」
「……博幸」
急に名前を呼ばれて驚いた金子に、宇佐木はゆっくりと顔をあげる。
「クロ、みんなに見せておいで」
「えー」
ぶっちゃけ、嫌だ。しかし宇佐木は笑って言う。
「俺だけじゃ、力量不足だ」
「兎でもか」
「俺じゃあ全然だ。ただ一つ言いたいのは」
宇佐木はそこで一瞬迷いを見せた。金子がなに? と聞くと、純粋な笑顔を見せる。
「とても好きだよ。クロの歌」
☆★☆★
いつ、話しかけよう。
乾を陰から見つめ、金子は考えていた。乾が歯を磨き「あーかったりい」なんて呟いたときから金子は隠れて見ている。
ちなみに今の乾は、明日の朝食のメニューを決めるために冷蔵庫を見たところである。
本当に、いつ話しかけようかと唸っていたその時、乾が金子を振り向いた。
「なんだよ! さっきから挙動不審だなお前。言いたいことがあるならちゃんと言え」
驚いた。バレていたのか。
「か、歌詞を作った!」
「ああ゛? ああ歌詞な。出来たのか」
「とりあえず」
金子が言うと、乾は顔をしかめた。
「宇佐木に見せろよ」
「兎に見せたらみんなに見せろって言うから」
「お前、イントネーションが違うぞ。ちゃんと言えないなら下の名前で呼んでやれよ」
少し困ったように乾は言う。金子は首をかしげた。
「兎の名前ってなんだっけ?」
「優弥だ。絶対に忘れるな」
「ん、うん」
優弥、ゆうや、ゆーや。金子は宇佐木の名前をインプットした。きちんと覚え終わったくらいに、乾が口を開く。
「で?」
金子は慌てて歌詞を渡した。はい、と言うと、乾は受け取って読み始める。しばらく黙っていると、不意に乾が口を開いた。
「これを宇佐木が見せろって?」
「うん」
乾はまた歌詞に目を戻す。金子はしびれを切らして訊いた。
「どうかな?」
「アイツは生徒を自慢したいだけだろ」
まったく、と呆れたように乾は肩をすくめる。
「お前は自慢の生徒ってことだ。よかったな」
「え?」
乾は軽くため息を吐いた。
「まったく嫌味なヤツ。そういうとこあるぜ、あいつ。まあ、そういうところがねぇとな。真っ白でも困るし……」
なにかを言いかけて、乾はかぶりを振った。
「いや、なんでもねぇ。ちゃんとみんなに見せてこいよ」
「わかった」
金子が殊勝に頷くと、乾は背を向けた。そうだ、と思い出して金子は最後に言った。
「あ、あの、乾、ギターありがとう!」
乾は笑いながら軽く応えた。
「おぅ」
☆★☆★
階段を下りてきた根津見は、気持ちよく鼻歌をうたっていた。
「ふんふんふんふーん、燃えろ俺のーなんとーかー」
もはやそれは鼻唄のレベルを超えて熱唱の域に達していたが、誰からも文句を言われないうちは我慢しないのが根津見のモットーだ。
と、どこからか視線を感じた。見ると、黒い眼鏡の奥の黒い瞳が陰から見えた。
「なんでアイツは俺を睨み……いや見つめているのかしら。もしかして、もしかして俺のことが!? よし受け止めてやるおいらの胸に飛び込んでこい!!」
思い切り殴られた。
「歌詞作った」
金子は無表情でそう言う。根津見は顔をしかめながら頬をなでた。
「殴ることなくない? 冗談に決まってるじゃん。ってかお前に好かれてもこれっぽっちも嬉しくないっつーの。清楚で巨乳の美少女に好かれたいわけおいらは」
ぶつぶつ言っていると、金子は心底嫌そうな顔でうざい、と呟いた。
「なんだとクロ男のくせに。清楚で巨乳って最高じゃん。わかってないな。このガキが」
「どうでもいい」
「なにそのかわいそうなものを見る目は!」
「かわいそうだなって思ってたよ」
「ヤメて! 死にたくなるから!」
泣きべそをかきながら根津見は叫ぶ。そんな根津見を憐れんだのか、金子はその話をそこでストップさせ、紙を目の前でヒラヒラさせた。
「歌詞を見ろって言ってんだよ」
「言ってなかったよね、そんなこと」
「ほらしょーがないから見せてやる」
「誰も頼んでない」と言いながらも、根津見は紙をめくる。黙っていると、困った顔をした金子が話しかけてきた。
「な、なんとか言えよ」
「『名もない歌』か。お前……恥ずかしい歌書くなぁ」
金子は動揺してなにも言わない。
「あの人には見せたの?」
「は、恥ずかしい歌、だと!」
遅れて金子が怒った声を出す。それを無視して根津見が続けた。
「熊野さんには見せたのかって」
「く、くまさん?」
「この歌、熊野さんに見せたい歌じゃないのかよ。熊野さん、喜ぶよ。あの人感情のわかりにくい人だけど、クロ男のこと心配してるんだ。たぶん」
真面目な声で根津見が言うと、金子はうつむいた。
熊野が自分を心配しているなんて、考えたこともなかった。
☆★☆★
熊野の部屋の前で立ち止まり、金子は腕をくんだ。
(くまさんいるかな? いるよな。でも、これを見せるのかぁ。怖いんだよなぁ、くまさん。ほめてても無表情だし、もしけなされたら……いや、くまさんに限ってけなすことはないだろうけど)
苦悩の末、金子は熊野の部屋の扉に手をかけた。
「なにやってるの、ねこくん」
「ひっ」
見ると、熊野が廊下を歩いてくるのが見える。近づいてきたとき、熊野は笑いながら首をかしげた。
「そんな幽霊でも見たような顔をして……ボクは生きてるよ」
「うん、えーっと」
不意をつかれた金子は、内心動揺しまくっていた。熊野は静かに頷く。
「うん」
「なんというか」
「うん」
「……なんでもない」
「そ、か」
金子はハッとした。一瞬だけ、熊野が寂しそうな顔をしたような気がしたからだ。
「なんでもなくなかった!」
「ん?」
「歌詞ができたんだ!」
思いきってそう言うと、熊野は「へぇ……よかったね」と言った。うん! と答える。
「宇佐木に教えてもらったんだっけ?」
「うん」
「そっか。ちゃんとお礼は言った?」
「ううん……でも」
「ん?」
金子は少し考えて、ちょっと照れ笑いを浮かべた。
「言うつもり……?」
「そっか」
熊野は無表情のまま目だけを細める。金子は、少し気になっていたことを聞いてみることにした。
「おれ……生徒?」
乾と話してから、気にはなっていたのだ。熊野はうーん、とうなる。
「そうかもしれない。宇佐木の職業病だねぇ」
しょくぎょーびょー、と繰り返す。それを見て熊野は金子に見えないように吹き出した。その時の金子は、どういう意味なのか聞きたいのに、自分が無知なことを悟られたくなさそうな顔だった。
「職業病ってのは、働きすぎて仕事と関係ないところでも影響が出ちゃうことさ。さあさあねこくん、よい子は寝る時間だよ」
「よい子!?」
これでももうすぐ三十なんだけどな、と金子はショックを受けた。そんな金子を知ってか知らずか、熊野は笑顔でおやすみ、と言う。
金子は思いきって紙を差し出した。
「……これ」
「なに?」
「おやすみくまさん!」
金子は走って逃げた。残された熊野はその紙をめくる。
「歌詞……?」
しばらく読む。もう一度、ちゃんと読む。顔を上げた熊野は、目を細めた。
「これは一体、誰に書いた歌なのかな」
そう、それは熊野も、他の仲間も知らない、誰かに宛てた歌だった。
☆★☆★
冷蔵庫に前で牛乳を探していた宇佐木は、ちょっと手を止めてうつむく。
「……さっきからなんだか見られているような気がする。どうしよう俺、一人で寝られなくなる」
三十を過ぎた男としては恥ずかしすぎう独り言を、宇佐木は呟いた。若干泣きたくなった。
「……ゆーや!」
いきなり後ろから声がして、宇佐木は思いきり飛び上がった。
「うわっ! クロ? なんだ、クロか」
宇佐木は額を拭う素振りをしてほっと一息吐く。そんな宇佐木を知ってか知らずか、金子は真剣な顔をしていた。
「ありがとう」
「え……」
「いろいろ教えてもらったから」
「いや、俺はほとんど何も……」
宇佐木が困って手を振っていると、金子は、今度は笑顔を浮かべた。
「優弥、ありがと」
「……ああ」
謙遜なんて、必要ないな。
確かにあの歌はこの子が作ったこの子のものだけど、お礼を言われたら喜べばいいのだ。金子は背を向け、バイバイと手を振る。
「おやすみ優弥」
「おやすみ、博幸」
清々しい気持ちで、金子はその日、眠りについたのだった。
☆★☆★
ギターを構え、道行く人をざっと眺める。立ち止まる人はいない。金子は一度、グッと拳を握った。
「……よし! 歌います、聞いてください。『名もない歌』──」
弦が鳴る。綺麗な音だった。たぶんいける、と金子は思い込むことにした。弾き始めると、色々なことを思い出して楽しくなった。
『───白い息が悩ましげに ただの息なのに
確かにいつのまにか 置いてかれてた
何にだろう? わからないけど』
息が白い。もうすぐ冬だな、なんて思う暇もなかったのは、本当に楽しかったからだと思う。
あの人も、こんな風に思ってたのかなぁ?
『歌ってみるよ 届きますように
おれのコエ 名もない歌 届きますように
覚えているよ 覚えているよ 初めての温もり
覚えてるかな 覚えてるかな あなたがくれた』
一人、少しだけ遠くを歩いていた女の人が立ち止まった。顔だけをこちらに向けて、目を細めて金子を見ている。
『ねえ だれにあやまればいいの
じゃあね なにをあやまればいいの
だけどごめんね 待ち続けてる
歌ってみるよ 笑わないでほしい
おれがイマ ここにいて ここで歌ってること
思い出したよ 思い出したよ あんなにも優しい
真っ白の上に 重ねた絵の具 とても優しい色』
カップルらしき男女が近寄ってくる。にこにこしながら金子を見るその人たちに、金子は少し動揺した。声が震えないように気をつける。
『幸福になっていい?
わからないよ
でも出会ったよ
おれは出会ったよ
なんだかとても あったかいんだ
眠くなるくらい ここが好きだよ
本当は』
少し目をつむる。世界が遠くなるような気がした。それでも金子はギターを弾き続けている。まるでそこだけ他人の体みたいだった。
頭はぼぅっとして、それでも金子は歌いつづけている。そう思った瞬間に、ギターの音がクリアに頭に流れ込んできた。
ああ、おれが、歌ってるんだ。
『探しているよ 探しているよ 優しい黒色
嗚呼
歌っているよ 歌っているよ あなたの歌
おれだけの歌 あの日の歌 現在という歌
そう、名もない歌』
曲は終息へと向かう。寂しいな、と金子は思った。最後まで、丁寧に、それでも軽快に、ギターを弾く。
終わりを迎えたとき、金子は勢いよく頭を下げた。
「……ありがとうございました!」
拍手の音が聞こえる。頭を上げると、そこには、最初に立ち止まってくれた女性、にこにこしながら聴いてくれたカップル、他にもたくさんの人がいた。金子の想像していた数なんかはとうに越えていた。
「あ、ありがとうございます……」
まだドキドキする胸を抑えて、もう一度頭を下げた。
☆★☆★
玄関で気持ちを落ち着けてから、金子は扉を開けた。
「ただいま」
「よお。ニート脱出おめでとさん」
台所から乾が顔を出す。ありがとう、と言ってからリビングに入ると、根津見がテレビから目を離して笑った。
「路上ミュージシャンはニートじゃないの?」
「生産性があって未来もあるだろ」
「そーかな」
ずっと黙って新聞を広げていた宇佐木が微笑みながら紅茶を一口飲んで、金子を見つめる。
「どうだった?」
金子は少し考えて頷いた。
「うまくいった、と思う」
「それはよかった!」
宇佐木は本当に心の底からそう言ってるらしかった。なんだか照れ臭くて、嬉しい。
「よかったな」
「いいんじゃないの」
乾と根津見も続けて言う。二人ともからかうように笑っていた。
「聡太も喜んでるんじゃないのか?」
「それは……わからない」
「えー? だってアレ熊野さんに歌った歌だろ?」
金子はえっと……、と言って困った。それを見た乾が眉をひそめる。
「違うだろ。まあどっちでもいいが熊野は喜んでるよ」
「え? なんで……」
「だって聡太は今日、博幸を見に行ったんだよ。あの寒がりが」
えっ、と金子は目を丸くする。衝撃の事実。ぜんぜん見えなかったし、見つからなかった。
「あ、それおいらも見た。こそこそしてたから泥棒かと思ったよ」
「マフラーをぐるぐる巻きにしてな」
可笑しそうに笑ってから、ふと乾は真顔になる。
「同業者ってなんだ、根津見」
「さあ? そんなこと言ったかな。同業者ってなんだろ。おいらなんの仕事してたんだろ」
「ごまかすな」
乾が尚も追求しようとするのを遮って、宇佐木は金子に笑いかけた。
「聡太はね、博幸、君が思っているよりも人間らしい人間だよ。冷たく見えるけどね」
「機械的なニートなんていないからな」
「おいらにはネジがハズれたロボットに見えるなぁ」
ネジのハズれたロボット、とは的を射た……いや、そういう問題じゃない。
どうして熊野は金子に一言も言わなかったのだろう。
☆★☆★
トントン、と軽い音を立ててドアをノックする。扉の向こうの反応を待った。なにか言おうかと口を開いたその時、微かな物音がして扉が開く。
「あれ、ねこくんお帰り」
「ただいま」
一瞬の沈黙。しばらくして熊野が声をかける。
「どうしたの?」
金子は意を決して訊ねた。
「今日……来てた?」
「あれ、なんでわかったかなぁ」
熊野は表情を変えずに言う。間延びした声に、金子はそこで話をやめようかと思ってしまった。しかし、今日こそはここでやめるわけにはいかない。
「違う。みんなが言ってて。くまさん今日外に出てたって」
「ああ見られてたのか」
「どうして?」
「……いい歌だね、あれ」
答えに、なっていない。
金子は黙った。どうすればいいのかわからない。そうだ、この人とは、初めて会った日からこうだった。
「どうした?」
「わからなくて。くまさんは……何を考えているの?」
素直にそう言うと、熊野がふと目をそらして金子の言葉を繰り返した。「何を、考えているの」
「おれ、くまさんが好きだよ。くまさんに会えたからここにいるし、でもわからないんだ。なんでおれだったの? くまさんはおれのこと、どう思ってるの?」
「その台詞、女の子だったらねぇ」
「冗談言ってるんじゃなくて!」
「ごめんごめん。でも、嬉しいよ」
熊野は悪戯っぽく笑っている。
「え?」
「ねこくんがそうやって、人のことが気になって仕方ないってことはさ、人と触れ合うことを知ったからだよ。ボクはすごく、よかったと思ってる」
「そっ、かな……」
金子は照れ笑いし、それからふと気づく。
「答えが出てない! 騙されるところだった」
「あはは。さすがに無理だったかぁ。いいよ、教えてあげよう」
「う、うん」
熊野は少し大げさに肩をすくめてから人差し指を立てた。
「まず、なんでキミだったか」
金子は真剣に聞いていた。ドキドキしながら、熊野をじっと見つめる。
「理由なんてないよ」
「へっ?」
「ただの気まぐれ。そう言ったら怒るかな?」
怒らない、けど……けど、ショックではある。
「割合的に言うと、気まぐれ半分だ」
「あとの半分は!?」
なにかあってほしい、と金子は半ば祈るように訊いた。熊野は、それをもてあそびように「うーん」と考えるふりをする。しかし不意に、「ダメだねボクも」と苦笑いしてやめた。
「キミはボクらに似てた。でも違かった。キミには未来があった。ボクはね、助けられない理由がない限り、誰だって助けてあげたいんだよ。似合わないでしょ」
「そんなことない」
本当に、そんなことはないと思っていた。「ねこくんは本当に素直だねぇ」と熊野は喜ぶように、呆れたように言う。
「それから……キミとよく似た瞳の知人がいたんだ」
「ちじん……」
知人って、知ってる人、って書いて知人だよな。
「二つ目の質問の答えだけど」
「うん……」
「もちろんねこくんのこと、嫌いじゃないよ」
「嫌いじゃ、ない……?」
「ドーナツを半分こにしてあげてもいいくらい好きだ」
「ええーっとそれは、どうなんだろう」
基準がわからないからな。ドーナツ半分の親愛度が普通なのかどうなのか、まったくわからない。
「あの歌は、とってもよかったよ」
熊野はひどく小さな声で言った。
「え? くまさんなんか言った?」
「いいや。さあ、質問には答えたよ。今日はお終い。 おやすみねこくん」
まるで、急かすように熊野は言う。しかし金子はもう満足していたため、そんなことは気にせずに頷いた。
「うん。おやすみくまさん」
おれはドーナツ全部あげてもいいくらいくまさんが好きだよ、と言わなかったのは、少しだけ――本当に少しだけ――金子の心に『熊野に同等な存在として認められたい』という気持ちが生まれたからかもしれなかった。
金子くんニート脱出おめでとー。
ギター上手くなりた(ry
乾さんの存在感を調節してもっと目立たせたいです。苦労人乾さんに一票。
熊野さんはもちょっとロボットっぽくしたいよ…。