Prologue-1- さよならは言わない
――西暦2021年4月30日(金曜日)
「おーい、雛ちゃん」
聞きなれた男の子の声で僕は目を覚ます。
どうやら五時間目の途中で僕は寝てしまっていたらしい。顔を上げて、黒板の上の時計を見ると既に時刻は休み時間になっていた。
夢の中で僕の昔を思い出していたような、そんな曖昧な夢の感覚が頭の中でふわふわと浮かび、意識をぼんやりとさせる。
「雛ちゃん、次は体育だぜ? 着替えないと……」
もう一声かけられて、僕は声の主の鷹本龍馬の方を向く。
元気印の赤色の髪はワックスでギンギンにかっこよく整えられ、三白眼のキリっとした目つきが正義感を溢れさせている。体つきは陸上部に入ってるおかげで筋肉質、女の子にモテそうな痩身マッチョだ。
龍馬は既に青色のジャージへと着替えており、僕を待っているようで。
「むぅ、龍馬ぁ、おっはよーくしゃてりあー」
「おはよーっ、じゃねぇよ。さっさと体操着に着替えなさい」
龍馬にぽんっと頭を叩かれる。
僕はえへへと笑って、その場で羽織っていた茶色いカーディガンを脱ぎ出す。
「ちょちょちょっ、お前、ここで脱いでいいのかっ?」
「むぅ……龍馬以外もういないし、男同士だから問題ないっしょ」
そう言って、僕はセーラー服のチャックを緩め、脱ごうとする。
「おぉぉぉっ」龍馬が鼻息を荒げた。
「でも、ガン見されるのはちょっと恥ずかしいかなぁ」
へそまで露わにして、そこで僕は止める。
「おぉぉぉふ……」
龍馬は残念そうに溜息を漏らす。
「龍馬……男に欲情するのは、ちょっといただけないよ。嬉しいけどさ」
女の子を見るような目で見られるのは慣れている。
そもそも僕は”同性娼婦”と呼ばれてたぐらいの男と女が好きな男の娘だ。
「だって、雛ちゃんが可愛いからさー」
可愛いと言われるのも、昔は嫌だったが、今じゃむしろ、嬉しいと感じるようになってしまった。僕はちょっと歪んでいるのかもしれない。
「はぁ、龍馬はいつもそうやって僕を煽てるんだから……仕方ないなぁ」
僕はセーラー服を脱ごうとする。しかし、
「二人共、何して……って雛ちゃん、何してんのっ!?」
一人の女の子が教室に入ってきて、僕の着替える手が止まる。
「あ、委員長」
「ちっ、こんな時にイツキかよ」
長い黒髪を三つ編みにし、清楚さを前面に押し出したジャージの少女が、このクラスの委員長の南城樹里がドアの前で立ち止まっていた。
「雛ちゃんに何やらせてるのかな、龍馬くん。雛ちゃんは保健室で着替えでしょ?」
樹里はキツイ顔で龍馬に詰め寄る。
「いや、俺は別に何も――」
「言い訳しないっ、この変態っ」
ぴしゃっと言い訳を止められる。
「はい……」しゅんとする龍馬。
「雛ちゃんもっ、男の子の前で着替えるなんて、やっちゃ駄目でしょ」
「えー、でも、いちいち保健室まで行くの面倒だし」
「それでもっ。龍馬みたいな変態の前で着替えると何かされるわよ」
流石に何かされるなんてことはないだろう。無いよね?
「むぅ、わかったよー」
「それでよし……って私こんなことしてる場合じゃなかったわ。忘れ物を取りに来たんだった」
樹里は自分の机に置いてある体育の教科書を取る。
その時だった。
「はぁ、はぁ……あ、鷹本君いたっ」
三人の前に、担任の女教師が息絶え絶えで現れた。
「ちょっと、鷹本君だけ来てっ、急いでっ」
そう言って龍馬の腕を掴む。
「ちょっとなんですか、先生」
龍馬は怪訝な顔でその手に抵抗する。
「鷹本君のお母さんが勤務先で倒れたのよっ、私が病院まで送るから」
その言葉を聞いて龍馬の顔が蒼白になるのが見てとれた。
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龍馬が先生に連れられて教室を去った後、心配そうな顔で樹里が言う。
「龍馬君のお母さん……無事だと良いね」
「うん……龍馬の家はシングルマザーだから……。もしものことがあったら僕らが支えてあげないと」
何度も遊びに行ったことがあるから、龍馬の家の家族構成は知っている。弟と妹が居て、龍馬は一番上の長男だ。龍馬のお父さんは数年前に亡くなっていて、女手一つで三人を養っている。
もしものことがあれば支えるのが友達としての使命、だと尊敬する親友も言っていた。
「うん……あ、そろそろ行かないと授業始まっちゃうよ」
樹里に言われて気付くと、もう授業開始まで二分も無かった。
今から着替えても間に合わなそうだ。まぁ、いいや。
「そうだね、じゃあ、着替えてくる」
そう言って僕は教室を出るのだった。
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――チャイムが鳴る。
僕はトイレの個室で着替えを済ませ、鏡の前で自分の姿を確認する。
栗色に近い茶髪、肩にかからない所で内側にカールしたボブに寝癖は無い。頬っぺたに寝ていた跡が付いているが、手でごしごしすると薄くなった。
顔はいつも通りの女顔。初対面の人には必ず「男です」と言わなきゃいけない苦労を考えたら、そのまま素直に女で生まれれば良かったと思う。
まぁ、僕が恋愛的に好きなのは女の子だから、容姿から女の子と仲良くしやすいのはメリットと言うべきか。
さて、と僕はヘアピンを髪につけて鏡の前から離れる。
「そろそろ行かないと、先生に怒られちゃうな」
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その日は、龍馬のこと以外は何も起こらずに終わった。
家に帰ると僕はまずスマホのアプリで龍馬に伝言を送った。
『From:雛桜夢幻/りょうま、大丈夫? 僕に何か手伝えることがあれば、なんでもするからね』
当たり障り、あるかな。わからないけど、そう送って僕はベッドに横たわる。
すると、
――♪
伝言を受信した音が鳴った。
「えっ、一瞬で?」
早すぎる返信に驚きつつ、スマホを確認すると、龍馬ではなく、
『From:佐世川澪/おーい、ホモビッチ。明日、どうすんの?』
夢幻の恩人の佐世川澪だった。
「あっ、そうだ、明日から澪が泊まりに来るんだった」
明日からゴールデンウィークで、休暇を利用して、従弟の澪が僕の家に泊まりに来る。それは数週間前から約束していたことで、龍馬のお母さんのことがあって、すっかり頭の中から抜けてしまっていた。
僕はすぐに澪へと返事を返す。
『From:雛桜夢幻/ごめん、ちょっと忙しくて。明日は十二時半に駅前集合で……あと、ホモビッチって言うのはやーめーてー』
それにしても、何もしてない時にいきなり僕のことをホモビッチって呼ぶのは止めて欲しい。
確かに年がら年中発情してるやけっぱちな男の娘って自覚はあるが……いや、これは呼ばれても仕方ないか。
どうせ、澪だけにしか言われないし、澪に罵られるのは……ちょっと興奮するし。口では抗議するが容認しよう。
返信して数秒後。
――♪
『From:佐世川澪/把握した。そうだ、お前の家に行く前にゲーセンで遊びたいんだけど、良いか?』
澪の返信が早すぎる。僕も速攻で返事を書く。
『From:雛桜夢幻/イイけど……ゲーセンでお金使い果たさないでね? ラブホ代は割り勘だからっ』
所々にハートの絵文字を突っ込んだ。僕の愛よ、澪に届け。
と送信ボタンを押した瞬間、
――♪
『From:佐世川澪/くたばれ、ホモビッチ』
先読みされたっ。いや、読んだ瞬間に返信したのか。恐るべき瞬発力。
『From:雛桜夢幻/えへへ。じゃあ、また明日ね』
そう普通に返信して、僕はポイッとスマホを投げ捨てて、枕に顔を埋める。
「(とりあえず、仮眠をとったらランニングしに行こう)」
微睡みに誘われ、僕は目を閉じて眠りについた。
――♪
『From:鷹本龍馬/ちょっと相談したいことがある。六時に桜ヶ丘公園で待ってるから』
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夕日は完全に沈み、西の空が仄かな橙色を残して、群青色の夜を世界が覆う。
電信柱に備え付けられた煌々と光る街灯を次々と抜かして、僕は待ち合わせ場所まで駆ける。
初々しい黄緑色の葉桜の木々が生い茂る公園『桜ヶ丘公園』にたどり着いたのは、丁度六時ぴったりで、公園のブランコには影が一つ存在した。
「はぁ、はぁっ……りょうまーっ」
息をあげて僕は龍馬に駆け寄る。
「おう、呼び出しちゃって悪いな、雛ちゃん」
少し影を落とした表情をしながら龍馬は立ち上がった。
「いや、大丈夫だよ。それで龍馬のお母さんの病状は?」
僕が聞くと龍馬は俯いて、歯を噛み締めるように呟いた。
「……母さんはくも膜下出血で手術中。でも、助かる見込みは低いってさ」
「なっ!?」
くも膜下出血。脳を覆う三層の膜の一番最下層『くも膜』の下で起こる出血だ。原因のほとんどが『脳動脈瘤』と呼ばれる脳血管の膨らみの破裂が原因で、軽傷ならば適切な処置で一命は取り留めることができるが、重傷だと死亡することが多いと言われる。
僕のお祖母ちゃんも『くも膜下出血』で亡くなったから、その病気がどれだけ危険か知っていた。
「なんで、こんな所にいるのっ!? こういう時はお母さんの傍に――」
僕の言葉を遮るように、龍馬は言葉を発した。
「雛ちゃん。もしかすると、もう二度と会えなくなるかもしれない。雛ちゃんは俺のことを忘れるかもしれない」
もう二度と会えなくなるかもしれない。俺のことを忘れるかもしれない。
「な、何、意味わかんないこと言ってるの?」
「……ごめん。雛ちゃんは俺にとって親友だから、言っておきたかったんだ」
龍馬の目にはぼろぼろと涙が溢れ、地へと落ちる。
そうか、今、龍馬は大変な状態だから頭が混乱してるんだ。
「……わかった。でも、もう二度と会えないなんて事はないよ。僕はどんなことがあっても龍馬に会いにいくし、絶対に忘れたりしない。だって、大切な親友だもん」
僕は龍馬が言ったことを、『親戚に引き取られ、遠いところに行ってしまう』ことだと理解した。もしかしたら、ゴールデンウィーク明けには彼は居なくなっているかもしれない。
「僕は龍馬と出会えてホントに嬉しかったよ。僕が別の学区の小学校から来て、知り合いも何も居ない状態で一番最初に話しかけてくれたことを今も覚えてる」
あの時は何度、『男』だって言っても龍馬は信じてくれなかったなぁ。
「一年生の時の夏休みに自転車旅行へ行って迷いに迷ったことも、剣道大会に僕の応援しに来てくれたことも、秋の校外学習で『恋愛祈願』した直後に龍馬が委員長に告白してフラれたことも、他にもいっぱいいっぱい、全部全部、大切な思い出だから忘れないっ」
僕は龍馬との楽しい思い出を精一杯叫んでいた。
「……雛ちゃん」
くしゃくしゃになった顔で龍馬は呟く。
「だから、龍馬も僕を忘れないで」
ぎゅっと僕は泣き震える龍馬を抱きしめた。
龍馬は僕より背が高いから、龍馬の肩に僕は顔を埋めて、背中に手を回す。
「わかった、絶対忘れないっ」
服の袖で涙を拭いた龍馬は強く僕を抱きしめ、熱く長い友情の抱擁をした……。
「……それじゃあ、俺、母さんのとこ行ってくる」
僕から離れ、龍馬の気持ちが立ち上がり、決意を固めた瞳で僕を真っ直ぐ見つめる。
「そうだよ。まだ可能性はあるんだから、僕は龍馬のお母さんが助かること信じてるよっ」
僕が強く言うと龍馬は背を向けて、
「そうじゃないんだけどな……」
龍馬はぼそっと呟いた。
「えっ……?」
「いや、なんでもない……そうだよな、信じなきゃな」
言葉を訂正して、龍馬はぐっと拳を握り締めた。
今から旅立とうとする親友の背中へ、僕は花向けの言葉を授ける。
「いってらっしゃい、龍馬」
「いってくるよ、雛ちゃん」
これで『さよなら』じゃない。
また会えると信じて。
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