運営の査察(神の操作ミス)
空気が歪んでいる。
西門の前。
視覚的には、そこには誰もいない。
だが、私にはわかる。空間座標のデータが、そこだけ不自然に書き換えられている。
まるで透明な水槽が宙に浮いているような、奇妙な違和感。
(……来たか)
私は呼吸を整え、瞼の開閉速度を調整した。
四・五秒に一回。ランダムな揺らぎを含ませた、標準的なNPCの瞬き。
背筋を伸ばし、視線の焦点を虚空の「設定された待機ポイント」に合わせる。
そこにいるのは、この世界の神。
運営だ。
昨日の『モブトレイン射出事件』が、やはり彼らの目に留まったらしい。
私の目の前に、半透明のウィンドウが展開されるのが気配でわかる。
デバッグモード。
私の内部パラメータ、行動ログ、AIの思考回路。全てが丸裸にされている。
もし少しでも「異常(自我)」が検知されれば、私はその場で削除対象だ。
カチッ、カチッ。
耳鳴りのような音が響く。神がキーボードを叩く音だ。
私は動かない。
石像のように、しかし生きているNPCらしく、時折首をかしげる「待機モーション」だけを再生する。
心拍数は跳ね上がっているが、表面上のテクスチャは平熱を保ち続ける。
これが私の仕事だ。
世界観を守るため、私は「ただの門番」でなくてはならない。
神の気配が、ふわりと動いた。
私の足元へ降りてくる。
どうやら、昨日の事件現場――物理演算がバグった門の周辺を調査するつもりらしい。
カチッ。
神が何かを操作した。
瞬間、足元の石畳から「硬さ」が消えた。
見た目は変わらない。だが、物理判定がOFFになったのだ。
神は床下の構造を覗き込むために、一時的に床を透過設定にしたらしい。
問題はない。今は誰も通らない。
神は満足げに頷き(気配)、別のウィンドウを開いて報告書を書き始めた。
……おい。
戻せ。
判定をONに戻せ。
私の叫びは届かない。神はマルチタスクに追われているのか、床の設定を戻し忘れたまま、上空の雲のテクスチャ確認に移ってしまった。
ペタ、ペタ、ペタ。
間の悪い足音が近づいてくる。
村の中から、装備もまばらな初心者が歩いてきた。
手には地図を持ち、キョロキョロと周囲を見回している。
進路は一直線。
神が開けた、即死の落とし穴へ向かっている。
(まずい)
このままでは、彼は石畳をすり抜け、裏世界の奈落へ落下する。
無限落下バグ。
プレイヤーの座標が計算不能になり、サーバーに致命的なエラーを吐き出す最悪のバグだ。
緊急メンテは確実。
そして調査の結果、穴の近くにいた私が「バグの温床」として疑われるのは明白だ。
止めなければ。
だが、どうやって?
「そこの君、止まりたまえ」と声をかければ、神に「設定外の挙動」を見られる。
動けばバレる。動かなければ世界が終わる。
初心者の足が、穴の手前一メートルに迫る。
あと二歩。
一・五秒。
私は、大きく口を開けた。
「ふぁ……あ……」
あくび。
NPCに設定された、数種類ある待機モーションの一つだ。
私はだらりと腕を伸ばし、背伸びをする。
その動作のついでに、軸足のつま先をカツンと動かした。
足元に落ちていた、腐った木の板。
誰かが捨てていったゴミだ。
私のつま先が、絶妙な角度で板の端を蹴り上げる。
シュッ。
板が濡れた石畳の上を滑る。
カーリングのような滑らかな軌道を描き、初心者の足が着地する寸前、その落下地点に滑り込んだ。
初心者の革靴が、板の上を踏む。
板の当たり判定が、彼を受け止める。
本来なら抜け落ちるはずの虚空の上を、彼は一枚の板を橋にして渡りきった。
「おっと」
初心者は足元の違和感に気づき、板を見下ろす。
「誰だよ、こんなところに板なんか捨てたの。転ぶところだった」
彼は板を蹴飛ばし、そのまま門の外へ歩いていった。
セーフ。
私はあくびを噛み殺し、何事もなかったように直立姿勢に戻る。
『……ん?』
上空で、神の気配が揺らいだ。
今の初心者の挙動に気づいたらしい。
神が慌てて舞い戻り、地面を確認する。
設定は透過のまま。板だけが、虚空の上に浮いている。
『あっぶねぇ……! 判定戻し忘れてた!』
焦りの気配が伝わってくる。
神は慌ててキーを叩き、石畳の判定を修復した。
そして、私を見る。
疑いの視線。
今の板は、こいつがやったのか?
私は動じない。
四・五秒に一回、瞬きをする。
焦点は虚空の彼方。
神はログを巻き戻し、私の行動データを確認しているはずだ。
そこに記録されているのは『待機モーション(あくび)』と、それに伴う『軽微な物理干渉(足先の接触)』のみ。
意図的な操作ではない。
ただの偶然。物理エンジンの気まぐれ。
『……偶然、か』
神の安堵した溜息が聞こえた気がした。
『NPCのランダムモーションが、たまたまゴミにヒットしただけか。驚かせやがって』
ウィンドウが閉じられる音がする。
歪んでいた空間が、元の青空に戻っていく。
神は去った。
報告書には、こう記されるだろう。『異常なし』と。
私は誰もいなくなった門の前で、深く、長く息を吐いた。
システム上の「ため息」ではない。
魂からの疲労の吐露だ。
神様。
仕事をするなら、もう少し丁寧にやってくれないか。
尻拭いをするのは、いつも現場の人間(NPC)なのだから。
***
【運営内部チャット:チームA】
GM_Tanaka
はじまりの村の門番、チェック完了しました。
挙動正常。昨日のモブ射出も、物理演算のたまたまのバグっぽいです。
GM_Suzuki
了解。放置でいいよ。
それよりサーバー負荷上がってるから、手動でモブ減らしといて。
GM_Tanaka
了解です。
(……しかし、あんなタイミング良く板が滑るか? まあいいか、俺のミスも帳消しになったし)




