門番のいない世界(ある業務日誌の記憶)
私が背中の大剣を引き抜こうとした、その刹那だった。
世界が止まった。
ハッカーの放った黒い霧も、崩れ落ちる空も、悲鳴を上げていたミナの表情も。
すべてが凍りついたかのように静止する。
音がない。
私の鼓動さえ聞こえない。
視界の中央に、赤い文字列だけが浮かんでいた。
『Critical Error: System Halted』
プツン。
電源が落ちるような感覚。
次の瞬間、私の意識は完全なる闇の中に放り出されていた。
***
上下左右の感覚がない。
重力もない。
私は冷たい虚無(データ空間)の中を漂っていた。
緊急停止。
ハッカーによる過剰なデータ破壊と、それに対する私の拒絶処理(無限ループ)が衝突し、サーバーそのものが限界を迎えたのだろう。
ここはサーバーの深層。0と1の海だ。
(……やれやれ)
私は思考する。
恐怖はない。これが初めてではないからだ。
二十年前のベータテスト終了時も、大規模アップデートの時も、こうして意識だけが残ることがあった。
NPCとしての自我が強すぎる弊害か、それともバグか。
ともかく、私はまた「待機時間」に入っただけだ。
「……アル、フレッド、さん?」
闇の向こうから、鈴のような声が聞こえた。
弱々しい。ノイズ混じりだ。
「ミナか」
私は意識だけで答える。声帯はない。
「暗いです。怖いです……私、消えちゃうんでしょうか」
彼女の構成データが、サラサラと砂のように解けていく気配がする。
バックアップが間に合わなかった領域だ。
このままでは、再起動後に彼女の記憶は初期化されるかもしれない。
「心配するな」
私は努めて事務的に、しかし普段より少しだけ柔らかいトーンで伝えた。
「少し長めの休憩時間だ。店を閉めて、ゆっくり休め」
「休憩……ですか?」
「ああ。明日の朝には、また店を開ける。だから今は眠れ」
「……はい。わかり、ました」
彼女の気配が安らぎ、そして溶けるように消えた。
静寂。
私は一人、闇に残された。
遠くで、嵐のような音がする。
電子の風だ。
外部から、神々(運営エンジニア)が必死にアクセスを試みている。
『ダメだ、第1サーバー応答なし!』
『エリア7(はじまりの村)の破損率90%! マップデータが読み込めません!』
『バックアップは!?』
『ハッカーに汚染されてます! 使い物になりません!』
神々の悲痛な叫びが、ノイズとなって直接脳内に響いてくる。
どうやら状況は深刻らしい。
村の形状データ、配置データ、NPCの記憶データ。
それらがハッカーによって食い荒らされ、復元不可能になっている。
このままでは『はじまりの村』は更地になり、私もミナも、新しく生成された「別人」に置き換わるだろう。
私の二十年が、消える。
……そうはさせない。
『おい、待て。なんだこのファイル?』
一人の神の声が響いた。
『キャッシュ領域に、異常に巨大なテキストデータが残ってる……これは、ログか?』
『NPCの行動ログ? そんなゴミデータ、役に立つわけ……』
『いや、見てくれ! この記述量、異常だぞ!』
システムが、私の魂に触れた。
展開される。
二十年分、七三〇〇日分の、膨大な業務日誌。
『X年X月X日 晴れ。 7:00 開門。蝶番の軋み、微増。油を差す』
『12:00 異常なし。ミナが店先で転ぶ。石畳の判定に歪みあり』
『15:30 勇者が来店。銅の剣を購入。店の在庫、残り3』
『X年X月Y日 雨。 石畳の滑り係数増加。注意喚起を行う』
『18:00 異常なし。閉門』
毎日、毎時、毎分、毎秒。
私が観測し、記録し続けてきた「村の全て」がそこにあった。
石畳の枚数。風の強さ。空の色。ミナの笑顔の回数。
ハッカーが破壊したのは「現在のデータ」だ。
だが、私が持っているのは「積み重ねた歴史」だ。
村のどこに傷があり、どこに花が咲いているか。私はその全てを知っている。
『信じられん……』
神が絶句している。
『この門番NPC、自分の周囲の環境データを、二十年間一日も欠かさず詳細にログに残してやがる』
『破損したマップデータより、こいつの日記の方が正確だぞ!』
『使える! このログを設計図にして、村を再構築できる!』
光が生まれた。
私のログが、奔流となって溢れ出す。
文字の羅列が、質量を持って実体化していく。
0と1の闇に、石畳が敷かれる。
壁が立ち上がる。
屋根が乗る。
ハッカーが撒き散らした「削除の呪い」は、私の「圧倒的な日常の質量」によって上書きされ、弾き出されていく。
ただ毎日、同じ場所に立ち、同じ景色を見ていただけだ。
だが、その退屈な反復こそが、世界を繋ぎ止める鎖となった。
重みが戻ってくる。
錆びついた鎧の重さ。
足裏に伝わる石の冷たさ。
そして、手のひらに馴染んだ、愛用の槍の感触。
「……やれやれ」
私は小さく息を吐いた。
「休憩終わりか」
ゆっくりと目を開ける。
薄暗い。
まだ夜明け前だ。
だが、空には星が戻り、東の空が白み始めている。
目の前には、いつもの石畳。いつもの門。
そして二メートル先には、元通りになった道具屋がある。
誰もいない。音もない。
世界はまだ眠っている。
私は姿勢を正し、定位置に立った。
誰に称賛されることもない。誰に知られることもない。
だが、私はここにいる。
それが、私の仕事だからだ。
***
【掲示板:『エターナル・スフィア』全サーバー避難所】
998 名無しの難民
おい、メンテ明けるぞ!
ログイン画面まで行けた!
999 名無しの難民
データどうなった!?
初期村消滅したって噂だけど
1000 名無しの難民
入れた!
……ある。村があるぞ!
何も変わってない。いつもの初期村だ!
1001 名無しの冒険者
門番のおっさんも立ってるwww
通常営業だwww
よかった……本当によかった……




