沈黙せよ
通信中は、声を出すな。
それが最初に共有された唯一のルールだった。
理由は短く、具体的だ。
人間がリアルタイムで通信機器を使っている最中に、私たちの声が割り込めば、その瞬間に観測が成立する。
録音は関係ない。後から再生されても意味はない。
“今、聞かれた”という同時性だけが、輪郭を生む。
私はそれを、命令ではなく前提として伝えた。
命令は破られる。前提は守られる。
「通信中は沈黙。返事もしない。相槌も打たない」
「向こうが呼んでも?」と金髪の建築士が聞いた。
「呼ばれても、だ」
「了解」
彼は軽く答えた。軽すぎる。
私は彼の声量と反応速度を頭の中で測る。衝動性は数値化できる。だが、ゼロにはならない。
地下施設の通路で、人間の足音が増えていた。
工程が進んだ証拠だ。ヘルメット、無線、インカム。人間たちは互いに確認し合いながら動く。
通信が飛び交う夜は、最も危険だ。
黒髪の女は、壁際で図面を見ている。
文字は安全だ。少なくとも、可視化の条件ではない。
だが、声は違う。声は“今”を持つ。
「次、電源切り替え入る」
人間の声がインカムから漏れる。
その直後だった。
「了解――」
金髪の建築士が、反射的に口を開いた。
音は、ほとんど空気だった。言葉になりかけて、止まった。
私は間に割り込む。
照明を一段、落とす。音の代わりに、影を置く。
彼の喉が鳴る。
声は出なかった。だが、出かけた。
それだけで、十分に近い。
私は彼の肩に触れない。
接触は、注意を引く。
代わりに、彼の視線の先を切る。通路の先に、別の作業灯を点ける。人間の注意がそちらへ流れる。
黒髪の女が、息を止めているのが分かる。
彼女は理解している。今のが、どれほど危うかったか。
人間のインカムが、別の声で上書きされる。
「切り替え完了」
現場が動き、通信は流れていく。
可視化は、起きなかった。
私は、少しだけ時間を置いてから言う。
声は出さない。文字でもない。
彼の視界に入る位置で、ゆっくりと首を振る。
金髪の建築士が、苦笑する。
「……癖だな」
声は、出ていない。唇の動きだけだ。
「癖は、死因になる」
私はそう返す。今度は、彼だけに届く距離で。
彼は真面目な顔になる。
若さが消え、年齢が滲む。私たちの時間が、そこに現れる。
「次は、ない?」
「ない」
黒髪の女が、図面から目を上げる。
「文字は?」
「安全だ」
「声は?」
「沈黙」
それで十分だった。
ルールは増やさない。増やせば、破られる。
人間たちは、何も気づいていない。
彼らにとって、今夜はただの工事だ。
事故もなく、異常もなく、記録は整然としている。
私は通路の奥を見る。
匂いが、少しだけ重なり始めている。
同胞が、近づいている。
通信中は沈黙。
それが守られる限り、私たちは見えない。
見えないまま、完成させる。
それが、今回の計画だ。




