とある令嬢の嘆き~得たものより失ったものの方が大きいですわ!~
「もう我慢できませんわ!!」
ガバッとベッドから跳ね起き、とある令嬢は最大限の気持ちを込めて、最小限の声量で叫んだ。
―――
結婚して半年。
政略結婚だが、何か特筆して言うべきことはなく、不満に思うこともない。ただ一つの除いては。
――“奥様”として求められることが多すぎなのよ。
少なくともこの国において貴族とは男性は領地を治めることが求められ、女性は屋敷内、さらには交友関係を広げ、より円滑に領地運営ができるようサポートすることが求められる。
まぁ、つまりは人間関係である。
別に対人恐怖症だとか、コミュニケーション能力が低いだとかそのようなことは一切ないのだが、相手は人間だ。正解も何もあったもんじゃない。
そんな毎日毎日毎日毎日、たまに屋敷の帳簿を確認する生活。そりゃあ誰だってうんざりするものである。
――一体世の中の奥様はどうしてるのかしら?
これがもし王妃のような立場なら……。震えが止まらない。
ちょっとくらいなら許されるわよね。ということでこっそりと不可侵領域に忍び込むのだった。
時刻は夜中の2時。罪である。
古くから、バックヤードとは主人であっても気軽に行くことのできない使用人の領域である。屋敷内の様々なところに小さな隠しドアがあり、張り巡らされた通路によって一切主人の目を通すことなく様々な業務を遂行することができるものである。また、主人が立ち入らない領域だからこそ、使用人がきちんと気を休めることができるといった理由もある。つまり、本来であれば彼女がバックヤードに行くことは好ましいことではないし、見つかったら一発アウトなのである。責める者はいないが、使用人か好ましく思われないことは明白である。
小さなドアをくぐり、バックヤードに侵入したものの、即座に迷子になった。
――困ったわ。帰り道はまだ分かるけれど、複雑すぎて何がなんだか……。
最初は屋敷内の部屋の位置を基準に歩けばおおよその雰囲気は分かると踏んでいた。だが、実際にはランドリールームや食料庫、掃除用具などの倉庫など知らない小部屋がポンポン出てくる。この屋敷は四次元に存在しているのか?というレベルである。
そうしてやっとこさ辿り着いた目的地は厨房である。
――作るわよ~!
意気込んではいるが、もちろんただの貴族の令嬢なので別に料理ができるとか、調理法を知っているだとかそんなことは一切ない。何なら料理したことがない。だが、ストレスからの夜中に何か食べたい欲とそのために料理人を動かす欲が対抗した結果、バックヤードに忍び込んで料理をするになったのである。普通はならない。若干の深夜テンションが混じっていたきらいがある。
とりあえず絵の具から色を作り出す容量で手当たり次第適当に出して混ぜていく。
「よし。これでいいわ。」
もちろんできたのはなんだかよく分からん香辛料と卵と小麦粉が混ざったなにかである。少し水も加え、なんとなく何かの生地っぽくなっているのが憎らしい。
気分も上がってきたところだが、何者かが近づく気配を感じ(たぶん使用人)、急いでボウルを隠して退散したのだった。
そして次の夜。
またもややってきた令嬢の手には調理器具の説明本である。そして説明本片手に昨晩作成したナニカを焼き始めた。
――なかなか美味しそうじゃない。……こんなに手間がかかるなんて思ってもみなかったけれど。
昨晩のナニカは一日かけて膨らみ、なぜか非常に食欲そそるナニカに進化を遂げていた。
食べてみるとなぜが美味しい。
――私ってもしかして天才かしら……!
腹と自尊心を満たし、証拠隠滅をして帰って行った。
たった一度の成功体験から調子に乗り、夜な夜なこっそりと厨房へ向かう日々。なんか最近お腹周りがきついけど、気のせい気のせい。自分と周りを誤魔化してきた。
だが…。
「奥様、何というか…その……最近非常にふくよかになられましたね」
「奥様、料理長からの言伝です。厨房にネズミが入り込んだ恐れがあるとのことです」
――そろそろ誤魔化すのがつらくなってきたわね…。
良心が痛み始めた頃。
その日も夜、厨房に行くと紙が置いてあった。
『冷蔵庫に軽食あり』
――これはバレてるわね。もろバレね。
そして服を着替える際も。
「体を動かすこともまた美の秘訣だそうですよ」
――いや、いっそのこともう、誰か私を糾弾してはくれないかしら!!
完全に使用人に知れ渡っていた。
今までの“奥様”の仮面は瓦解したも同然である。
使用人達の生暖かい目がつらい。
下腹部のぶよぶよもつらい。
何なら夜に調理していたから寝不足でつらい。
――“奥様”という役割に対してのストレスは解消されたけれど、失ったものの方が大きいですわ……!
読んでいただきありがとうございます。
あまり深いことを考えて書いてないので、別に世界観やら何やらはあんまり考えないでください。
そういう世界もあるということで。
また、本来なら令嬢ではなく夫人と書くべきでしょうが、なんとなく年若い印象をつけたかったので令嬢と表現しました。違和感があってもスルーでお願いします。