第七節
その日から、ジーノとリタの日常は変わった。
リタは研究区画へ行く練習の時間をとり、外へ出ようと試みるようになった。
検査は相変わらず出ているが、アラームは止めてもらった。
単純にうるさいという理由もあるが、強制感をなくすためだ。
ジーノとしては、検査自体行くのをやめた方がいいと思っているが、リタとしては行かないと不安らしい。
互いの意見を交換した上で、間をとりアラームを止めるという判断に至った。
アラームを止めたことにより、リタは検査に早めに行くこともあったが、逆に遅刻するようにもなった。
そこで初めて先生の言いつけ破りをしたらしいが、先生達はリタに何かするわけもなく、普通に検査が始まった。
初めはものすごく不安がっており、ジーノを呼び出して、後ろに隠れて検査室に入っていたが、何度か遅刻している内に、ジーノが呼ばれることはなくなった。
先生の言いつけを破っても、大丈夫であると体験できれば、言いつけを破ることはできるらしい。
洗脳という面では、いいことなのだが一般的な遅刻という面では、堂々と遅刻するようになったのはどうなんだろうと地味にジーノはリタの将来を心配していた。
一方、ジーノはというと、研究区画に入り浸るようになった。
理由は主に二つあり、一つは調べられるエリアが広がったからだ。
これまで、ジーノはロックがかかっている部屋には行けなかった。
しかし、先生が自分の言うことをなんでも聞くことを自覚したリタは、ジーノに協力するように先生にお願いした。
これにより、探索可能範囲は格段に広がった。
もう一つは、ジーノの気持ちの問題だった。
リタが研究区画の前で立ち尽くしているのを見ると、どうも見てられない気持ちになる。
リタの洗脳はもともとは薬のため、リタの気持ちの問題ではない。自力で突破するのはかなり難しいだろうと薄々感じていた。
ジーノはなんとかリタの洗脳を解くために永遠に資料を探し続けていた。
しかし、洗脳をする方法や薬に関する資料は多々見つかるが、解く方法は全く見つからなかった。
もともと、この施設は鯨に洗脳をするための施設と思われるので、当然といえば当然なのだが、それでも、ジーノは探し続けていた。
秒針を刻む時計の針の音がやけに大きく聞こえ、ジーノはふと我に返った。
時刻は深夜三時を指している。机には本が山積みになっているが、成果はない。
「今日もだめか」
ジーノは本のタワーに倒れ込むと、のそのそと体を起こし、部屋を出た。
実験区画の扉の前を通ると、リタが立ち尽くしているのが目に浮かんだ。
今は深夜なため、リタはいないのだが、ジーノの記憶には動けないリタが焼き付いていた。
「すまない」
そう呟き、扉を抜けた。
疲れもあり、半ば寝ているような状態で歩いていると、どこからか足音が聞こえてきた。
この時間は先生達も出歩くことはなく、足音が聞こえることはない。
不信に思ったジーノは、音の聞こえる方へ歩いて行った。
廊下は暗く視界は悪い。念のためと思いジーノは適当な部屋に隠れ、音の主が廊下を通り過ぎるのを待った。
ジーノがドアの窓から廊下をのぞくと、寝ているリタを抱いた先生が通りすぎていった。
疲労で溶けていた脳が一瞬で目覚める。去っていく先生の武装を素早く確認すると、ジーノは再び身を隠した。
「先生は無害じゃなかったのかよ」
小声で呟いた。
頭がクリアになった脳で作戦を考える。
確認した限り、先生の武装は腰にあるハンドガン一丁のみで、他になかった。ただ先生はゾンビなので、そのハンドガンを奪って撃ったところで死ぬことはないだろう。
戦うよりも、リタを奪って、逃げるほうが勝算がありそうだった。
「…………」
ジーノは息を殺して、先生の後を追った。
先生を追っていると、自分が通ってきた道を歩いていることに気づいた。
理由は何であれ、研究区画へ向かっているのは確かのようだった。
あの扉に逃げ込まれるわけには行かない。
扉を開閉できるのは、現状、先生だけで、先生が敵であるとわかった以上、ジーノやリタの言うことを聞くとは限らなかった。
ジーノはこれ以上、様子を伺うわけにもいかず、闇に紛れ飛び出した。
背後から先生を足払いする。
不意をついたようで、あっさり先生はバランスを崩した。
ジーノは先生から素早く銃を奪うと同時にリタを引き上げる。
「ほえ」
リタの間抜けな声が聞こえた気がするが無視して、リタを肩に抱えた。
先生の足を奪おうと、引き金に指を掛ける。その瞬間耳元で悲鳴が聞こえた。
「だめ! ジーノ!!」
問答無用で引き金を引いたジーノであったが、リタに腕を捕まれ、軌道は大きく反れた。
ジーノは舌打ちし、怒りをあらわにしたが、今はリタに文句を言っている場合じゃない。
リタを抱えたまま、ジーノは走った。
「逃げるぞ」
「待って待って待って」
リタは足をバタつかせ、ジーノの背中をぽこぽこ叩いてくる。
「そんなこと言ってる場合か」
「違う、違う。違うの。先生は悪くない」
「あの状況を見てもそれを言うか」
「違うんだって。そうじゃない。ジーノは勘違いしてる」
「どこをどう見たらそうなる。完璧に連れてかれるところだっただろ」
「連れてくように私がお願いしたの!!」
「は?」
ダッシュしていたジーノの足が止まった。
「それ、どういうことだ」
「私が、先生にお願いして、私を研究区画に連れてくようにお願いしたの」
あまりの衝撃にジーノはしばらくリタの言葉が理解できなかった。
しばらく立ち尽くした後、リタに問いかける。
「なぜ」
「私が実験区画から出られるように。私が寝ているときなら、先生に手伝ってもらって外に出れると思ったの」
徐々に理解し始めると、ジーノは全身から力が抜けた。
「だったら、早くそう言え!!」
「言ったよ!!」
ジーノはリタを下ろすと、リタは激しく抗議した。
「言ったけど、ジーノが止まらなかったんだもん」
「止まらなかったじゃねえ。こっちはどんだけ心配したと思ってるんだ」
「それは、……ごめんだけど。聞かなかったジーノも悪いし」
リタは目を反らしながら、後ずさりした。
そんなリタの様子を見ながら、ジーノは大きなため息を漏らした。
「あの状況で無理だろ。一歩、間違えてたら終わると思ったんだぞ」
「ごめんなさい」
リタは素直に謝った。いつもと違い聞き分けのいいことから、しっかりめに反省しているようだった。
「なんで、こんなことしたんだ。いくらなんでも、強引すぎるだろ」
「それは……」
リタは口を開きかけたが、直ぐに閉じてしまった。言いたくないのかと思ったが、表情を見るに迷いが見られた。
悪気があるわけではなさそうなので、少し待ってみることにする。
しばらくすると、リタはぽろりと呟いた。
「ジーノが焦ってるから」
「は? 俺?」
こくりとリタは頷いた。
「ここ最近、ジーノはずっと研究区画に籠ってた。実験区画に返ってくるのは私が寝た後だし、ご飯を食べないときもあった。ジーノは私に焦らなくていいって言ってくれたけど、本当は焦ってたの、わかる。でも、いつまで経っても私の足は動かない。一生懸命頑張ったけど、動かなかった。ジーノの気持ちに答えようと頑張ったけど動かなかったの」
リタはジーノに体当たりするように抱きついた。
悔しさを殺すように顔を押し付け、背中が小刻みに震えていた。
泣いているのが一目でわかった。
ジーノは驚きのあまり反射的に、リタを慰めようと手を伸ばしたが、ジーノの手は止まった。
リタがこうなった理由はもとをたどれば
自分と言うことに気づいたからだ。
ジーノは自分の行いを恥じた。
「すまない、リタ。俺が悪かった」
リタは顔を上げぬまま首を振る。
「無意識にリタを焦らせていた。無神経だった」
リタは変わらず、首を振った。
ジーノはリタが泣き止むまで待っていたが、深夜ということもあり、リタは泣き疲れて寝てしまった。
ジーノはリタを部屋に戻そうと抱き上げると、今まで隠していたリタの泣き顔が目に映った。
目元が赤く腫れており、相当激しく泣いていたのがわかる。
かなり追い込まれていたのだろう。
今まで、子供だと散々思っていたジーノだったが、今日は自分の方が子供だと思った。
「リタはよく頑張った」
ジーノはそう言いながら、廊下を歩いていった。