第三節
やってきたのは、この鯨の主、リタだった。
微かに瞳を揺らしながらも、まっすぐ二人を見ている。
来るはずのない存在に、ジーノもドクトルも驚きを隠せなかった。
呆然とリタを見ていると、後ろから、二匹のクラゲが現れる。
一匹のクラゲは、二人の視線を阻むように、リタの前に立つと、大きく息を吸い込んだ。
「あんた達、バカあああああ???」
完璧なる罵倒が響いた。
「当人呼ばないで、なに勝手に喧嘩してるの、バカなの? アホなの? カスなの? 脳みそ小さすぎない? ちゃんと機能してる?」
返す言葉がなかった。
「まあまあ、そのくらいにしましょう、コルル。お二人も悪気があったわけじゃありませんし」
「クララは甘い! こういうバカには、ちゃんと言わないとわからないの。バカだから」
「なんで、リタがここにいる」
信じられないものを見るように、ドクトルが呟く。
「そりゃもちろん、あんたがバカなせいでしょ。あんた達がバカみたいに喧嘩してたから、隙を見て、あたしとコルルがリタ様の記憶の神経を繋げたからよ」
すとんと、コルルの前に、ミクログリアが落ちてきた。
形状は非常によく似ているが、体は明らかに機械だった。
「ドクトル、あなたの毒は完璧でした。しかし、自己識別する能力はないようですね。同じ成分の私の毒では、あなたの監視網に引っ掛かりませんでした。私達の同胞がリタ様に攻めてくるとは思いませんが、今後のことを考えて、改良することをおすすめします。幸い『リタ』様には便利なガラクタがたくさんありますからね。あ、その時はぜひ、私も呼んでくださいね。あなたの作り出す毒は、非常に興味深いので」
「コルル、私欲が出ているわ」
「あ、ごめんなさい、つい」
クララが触手で口を覆うと、コルルは小さくため息をつく。
「さて、私達は仕事が終わったし、さっさと帰るわ。あのバカの始末はリタ様に任せればいいし。リタ様、後、大丈夫?」
「うん、ありがとう。コルルちゃん、クララちゃん」
「がつんって言ってやんな。バカにはわかんないんだから」
「うん。そうするよ」
リタは出ていく二匹に手を振った。
「俺達、あの二人の手のひらの上だったんだな」
ジーノは倒れながら言ったが、ドクトルから返事はない。
それほどまで、リタがこの場にいることが衝撃なのだろう。
リタはゆっくり、こちらに向かって泳いでくる。
邪魔は入らない。
「ジーノ、大丈夫」
倒れているせいか、先に声をかけられた。
「大丈夫だ。ちょっと痺れただけだ。……記憶、戻ったのか」
「うん、全部思い出したよ」
ドクトルの触手にわずかに力が入ったのが見えた。
「そうか。そいつは大変だったな」
「うん。そうだね」
リタはどこか寂しそうに微笑む。
ジーノはかろうじて動く左腕でドクトルを指差す。
「なら、俺より、あいつのことを見てやってくれないか。ドクトルは頑固だから、リタの言葉しか耳を貸さない」
「うん。初めからそのつもりだよ」
リタはドクトルに歩み寄った。
「ドクトル」
名を呼ばれたが、ドクトルは言葉を返さない。
俯いたまま動かず、まるで、怒られる前の子供のようだった。
リタは苦しそうに、こう告げた。
「ずっと気づかなくて。ごめんなさい」
ドクトルは目を丸くする。
「違う! リタは悪くない!! 悪いのは」
ドクトルは咄嗟に顔を上げたが、言葉を失った。
リタの目には失望や哀れみではなく、後悔の念が映っていた。
「どうして、リタがそんな顔をするんだ」
リタは告げる。
「ドクトルは勘違いしているみたいだけど、私が言いたいごめんなさいは、深海に閉じ込めって守ってもらったじゃない。ずっと一緒にいたのに、ドクトルにだけ、その苦しみを背負わせてごめんなさいって言いたいの」
ドクトルの触手が震えだした。リタはかまわず、続ける。
「ドクトルはずっと、私の中にいた。私が壊れていっても。ずっと。それを一人で見てきたのはすごく辛かったと思う。だから、気づけなくてごめんなさい」
「違う!!あれはリタのせいじゃない、人間のせいだ」
「それでも、ごめんなさい」
ドクトルは触手を握りしめる。
「なら、どうしてリタが謝る。謝らないといけないのは僕の方だ。リタを守らず、壊れゆく君の中で何もせず、ただ怯えてた僕の方なんだ。なぜ、リタが謝る。あの時、僕が何かしていれば防げたかもしれない。なのに僕は……。これは僕の弱さが招いた問題だ。僕が全てを持っていく。だから、」
「ドクトル。私にとって、ドクトルは命の恩人。ううん、命そのもの。私がこうしてドクトルと話していられるのも全てドクトルのおかげだもん。ドクトルが私を生かしてくれたから、私はまだ生きていられる。それだけでもう十分だよ」
「そんなことを言わすために、僕はリタを生かしたんじゃないっ!」
ドクトルの声が震える。
「ただ、生きてほしかった。リタが僕を受け入れてくれたから、今の僕があるんだ。リタ、君は鯨だ。鯨は人間のいうことを聞きやすいように、あらゆることを肯定するようにできている。リタはそのDNAに刻まれた命令に従っているだけだ」
「だとしても、私は嘘をついてない。私は、私の気持ちでここまで来た」
リタは強く言い張った。
「思い出す手伝いは確かに、コルルちゃんとクララちゃんにしてもらったけど、私がここに行きたいと言ったのは私だよ。だって、ドクトルに謝らないといけないこと、一杯あるもん」
涙ぐみながらも、リタは強く語りかける。
「ドクトルは頭がいいから、難しい論理とか数字とかでないとちゃんと信用できないのかもしれない。でも、私の気持ちを買って信じてほしい。私はドクトルを恨んでないし、ごめんなさいと思っている。プログラムなんかじゃない。だって、ドクトルは私のために一生懸命頑張ってくれたもん。そのせいかが私だよ。ほら、だって、私、生きてる」
リタは、自分の手を胸に当てた。
「ドクトルが守ろうとしてくれたものは、確かに私として存在している。私もそれを感じてる。だから、プログラムなんて言わないで。私を、自分を否定しないで。ドクトルの一部である私がドクトルを認める。ドクトルは、正しいことをした。その結果、遠回りになってしまったかもしれないけれど、私達はまた会えた。それだけでもう十分だと思わない?」
リタは泣きながらも、ドクトルに笑いかけた。
「それでも、もし、自分を許せないというなら、私を憎むといいよ。ドクトルが自分を責める原因になったのは私にもあるから。だから、また一緒に生きていこうよ。罪も悲しみも私が一緒に背負うよ。だって、私達、自分自身でしょ」
ドクトルの触手から力が抜けた。
「リタ、君はずるい。僕の罪に、自分を持ってくるなんて。ずるすぎるよ。だから、僕はリタに会いたくなかったんだ。リタは必ず僕のすべてを許す。こんなことをしたのにも関わらず」
「だって、ドクトルが私のこと考えてしてくれたことでしょ。私にはわかるもん。常に思考を共有しているからね。だって、私だもん」
「はは。そうだな。お互いが、自分自身だ。自分のことは自分が一番理解している。……リタが浅海に行きたいのも、理解、してる」
ドクトルの声に嗚咽がはらみ、声にならなくなっていく。
「だから、行かせたくなかった。体は同じでも、心は違う。リタが、どんなに、浅海に行きたくても、僕は、行かせたくなかった。だって、リタが、また、壊れてしまうんじゃないか。そう、思うだけで、怖くて、たまらなかった。でも、リタは、浅海に、行きたくて、僕は、浅海に行かせたくなくて……。リタを守りたいのに、守ることが、リタの本心に、背くことだった。だから、僕は」
「なら、ドクトルがリタを守ればいいだろ、人間から」
足元に倒れていたジーノが声をかける。
リタとドクトルが驚いた顔で、ジーノを見つめた。
「なんだよ。その目は、一応俺もいるんだが」
「そうだけど、忘れてた」
「まあ、そうだよな。俺にはわからない話だから」
「ごめん」
「いいよ。昔からそうだった」
ジーノは小さくため息をつくと、ドクトルに向かって言い放つ。
「聞け、ドクトル。お前は俺に勝ったんだ。人間の俺から。情けないことに体が痺れて一歩も動けない。ふざけんなよ、本当に。……でも、それって、今のお前には人間を負かすだけの力があるってことだろ。俺はリタと浅海に行くまで守るって、約束はしたが、浅海に行ってからのことはしてねえ。だから、ドクトルがリタと約束しろ。浅海に行ったら、リタを守るって。人間が信用できないドクトルなら、人間からリタを守るのは適任だろ」
「なんだよそれ。勝手すぎるだろ」
「だってそうだろ。ドクトルがどう思おうと俺とリタは浅海を目指す。納得できないのはお前だけだ」
ぷつっとドクトルの何かが切れる。
「君達は本当に最低だ。そうやって、いつも僕を振り回す」
「でも、ドクトルがいつも、うまくやってくれるから、私とジーノはちょっといけないことでも、強気にできた」
「僕はやめてほしかったよ、本当に」
「でもね、ドクトル。三人でいろいろなことして楽しかったでしょ。ドクトルも文句を言いながら一緒に楽しんでた。だから、また一緒に行こうよ」
リタはドクトルに向かって手を伸ばした。まるで、楽しい遊びにでも誘うように。
ジーノはそれを見守った。遊び相手が来てくれることを信じて。
そんな二人を見て、ドクトルは触手で顔を覆った。
「本当に、本当にさ。酷いよ、君達は。僕に拒否権なんてないんだ。……君達の楽しげな声が僕をここから連れ出す。ただ、リタを生かす器官として、無視してもいいはずなのに。二人の声が聞こえると耳を貸さずにはいられない。それほどまでに、僕は二人に毒されているんだ」
ドクトルは、涙をぬぐうと、泣きながらもどこか嬉しそうにリタの手を取った。
「また、三人一緒だね」




