第二節
触手の上を走っていると、何度も、神経細胞の隙間からやってくる触手に襲われた。
ジーノを神経細胞から落とそうとしているようだった。
けれども、触手の動きはぎこちなく、銃を使うまでもなく、簡単に避けれる。
ドクトルもジーノ同様、神経細胞がたくさんあるこの場所では、思うように動けないのだろう。
しばらく走っていると、ドクトルは方針を変えたのか、急に触手を束ねジーノの行く先々にバリケードを作り始めた。
ジーノは銃を背にかけ、携帯しているナイフで、バリケードを切り裂く。
所詮はクラゲの触手のため、強度は大したことない。
次々と邪魔なバリケードを切り裂いていったが、幾度目かのバリケードを切った時、バリケードの隙間から、タコが飛び出してきた。
咄嗟にジーノはタコを刺すが、タコは二十本以上ある足で、ジーノの腕に絡み付いた。
少しの痛みを感じたが、ジーノは構わず、タコを切り裂く。
左手でタコを引き離すと、右手で持っていたナイフがぽろりと落ちた。
回収しようと右手を伸ばしたが、視界に腕が映らなかった。
慌てて左手を伸ばしたが、すでに遅く、ナイフは神経細胞から落ちていった。
ジーノは右腕を見る。
外観の異常はない。しかし、腕はだらりと垂れたまま全く動かなかった。
痺れている。
「なんだ、こいつは」
振り払ったタコを見ながら、ジーノが言うと、冷静なドクトルの声が響いた。
「ミクログリア。脳専門の免疫細胞。形状が僕と似てるから、触手に毒を盛ったんだ」
「そんなことできるのかよ」
「できる。今の僕はリタの脳なんだ。ミクログリアと僕のDNAから毒を作る命令を出した。後はうまく組み合わせればいい」
「リタの機能を使って、自分の毒を作る。まるでウイルスだな」
「バイ菌であるジーノを排除するため、仕方なくね。……減らず口叩いている余裕があるなら、自分の心配をしたほうがいい。ほら」
いつの間にか、ミクログリアが周りからわらわらと湧き始めた。
「結構作ったから、ここで倒れてくれると助かる。こいつら、制御するの大変なんだ」
ミクログリアは一斉にジーノに向かって、進行し始めた。
ジーノは動かない右腕を庇い、急いで来た道へ走った。
しかし、来た道からも、ミクログリアが迫っている。
ジーノは上ってきた神経細胞を飛び降りると、下の神経細胞へと着陸する。
ミクログリアは、落ちたジーノをじろじろ見つめると、ゆっくりと泳いで追ってくる。
移動がそんなに速くないのは、不幸中の幸いだが、これだけいると囲まれるのは時間の問題だった。
ジーノはミクログリアから逃げながら、思考を巡らした。
けれども、持っているものは、銃一丁のみで、ここでは思うように撃つことができない。
気がつけば、神経細胞の端まで追い詰められており、足を止めた。
その瞬間、鞭のようなにしなった触手がジーノ目掛けて、飛んできた。
咄嗟に持っていた銃でガードしたが、衝撃は抑えられず、ふっと飛ぶ。
すぐさまドクトルは二打目を打ち、ジーノを直撃した。
ジーノは壁に激突する。
激しい痛みを覚えたが目を開くと、触手がすぐ伸びてきており、壁を蹴って避けた。触手の上に乗ると、銃を撃とうとしたが、引き金の手応えがない。
銃が曲がっていた。
壊れている。
触手が動き出す前に、ジーノは近くの神経細胞に飛び移る。
神経細胞が多くある場所へ行き、触手を撒こうとしたが、移動先にもたくさんのミクログリアがジーノを待っていた。
隣の神経細胞に飛び、触手とミクログリアから逃げるが、あまりにもミクログリアの量が多い。すぐに集まってくる。
避けて通ることはできない。
ジーノは頭上に目を向けると、ミクログリアのさらに奥にドクトルが見えた。
彼は何かするわけでもなく、ただジーノを見つめていた。
「観念する気になった?」
その余裕は、化け物と対峙したかのような畏怖すら感じる。
今更になって、ジーノはとんでもない生き物に喧嘩を売ったのを自覚した。
けれど、
「なるわけねえだろ。馬鹿が!」
ここで負けるわけにはいかない。
プライドがジーノを奮い立たせた。
「暇そうだから、すぐにそっちに行ってやるよ」
「期待してる」
ドクトルはわずかに微笑んだ。
威勢は吐いたものの、ジーノは実際手詰まりだった。
周囲を観察しながら、打開方法を必死に考えるが、何も出てこない。
触手から逃げるべく再び足を動かしたとき、何かを蹴った。
蹴った勢いで、その何かはふっ飛び、ジーノの目の前に現れる。
それは、銃弾だった。
ポーチから落ちたのだろうか。
けれども、そんなことはどうでもよかった。
ジーノは無意識に銃弾に手を伸ばした。
不思議と銃弾がチェスの駒に見えたからだ。
型にはまった戦術を覚えることは、確かに勝利への近道だ。
でも、それだけじゃ、私に勝てない。
戦況に合わせて柔軟に適応してこそが本当の戦術といえるだろう。
ジーノは銃弾を掴む。
そして、軌道を大きく変え、ミクログリアに向かって走り出した。
ミクログリアに対峙するとジーノは左手で銃を握る。
そして、銃を高く掲げると、そのまま剣のように振り下ろした。
「はあ!?」
唖然としたドクトルの声が響く中、ジーノはミクログリアを叩き潰す。
そして、そのまま銃を神経細胞に突き立て、棒高跳びのように高く跳躍した。
周囲のミクログリアがジーノに向かって飛んでくる。
ジーノはポーチから残っていた銃弾を鷲掴みし、ミクログリアに向かって投げつけた。
ミクログリアは銃弾に飛びつく。
銃弾を掴みとると、ミクログリアは異物を排除する免疫細胞として食べ始めた。
「ちょっと待って」
ドクトルがミクログリアを制御しようとしているようだが、ミクログリアは食べるのに夢中だ。
そんなミクログリア達の頭を踏んで、ジーノはさらに高く飛ぶ。
気がつけば、ドクトルよりも高い位置にジーノは来ていた。
呆然と見上げているドクトルを見て、ジーノは笑う。
「来てやったぜ! ドクトル!!」
それはどこか子供を彷彿させるような無邪気な笑みだった。
「本当に来るとは思わなかった。いや、当然か、ジーノなんだから」
ドクトルは傘を顔を隠すように触手で掴んだ。
けれども、迷いを振り払うように、すぐ向き直る。
そして覚悟を決めたようで、触手に力を込めた。
「ジーノはいつだって僕ができないことをやってきた。きっと今もそうなのだろう。……でも、それでも、僕だって、負けられない。負けたくないっ!」
ドクトルは神経細胞と融合した触手ではなく、自分の触手を絡めた。
「来いっ、ジーノ!」
「そのつもりだ!」
ジーノは頭上の神経細胞を蹴ると、その勢いで、一気に降下した。
そして、銃を振り上げると、ドクトル目掛けて振り下ろした。
「目を覚ませ!、この馬鹿がッ!!」
鈍い音とともに銃は命中した。
ドクトルの作り出したバブルリングに。
「なっ」
ジーノは驚きを隠せなかった。
バブルリング、それは鯨が使う技だ。
「なんで、クラゲであるお前が使えるんだ」
ドクトルは答えない。
代わりに海鯨歌を口ずさんでいる。
触手で作り上げた水鉄砲がバブルリングを作りだしていた。
今も触手を伸ばし、必死にバブルリングを維持しようとしている。
ジーノは驚きつつも、銃を握る手に力を込めた。
何が起きているか、わからない。
けれども、ここを押し切った者が勝つ。
それだけはわかった。
「そこを退けッ!!!」
「嫌だッ!!!」
拮抗状態が続く中、バブルリングがわずか歪んだ。
押しきれる。
そう確信したジーノは銃を握る手に力を込めた。だが、ここで負けるドクトルではない。
触手を震わせながらも、まっすぐバブルリングに伸ばしていた。
苦痛で顔が歪んでいるが、闘志は消えない。
絶対にリタを守る。
彼の声が聞こえてくるようだった。
だが、ジーノも負けるわけにはいかない。
ひととくじら。それがリタの夢だ。
浅海に留まることが、リタの幸せではない。
「邪魔だ!!!」
「それは、ジーノの方だ!!!」
幾ばくの時間をかけて、みしみしと音を立てて、バブルリングが歪んでいく。
そして、遂に耐えきれなくなり、バキっという音が鳴った。
その瞬間、ジーノの体が下に落ちる。
だが、バブルリングは壊れていなかった。
壊れたのはジーノの銃の方だった。
同時に何者かに足を捕まれる。
ミクログリアだろう。
足を失ったら、本当に最後だ。ドクトルから逃げることはできない。
嘘だろ。
そう思いながら、顔を上げると、ドクトルと目があった。
ドクトルは触手を前に伸ばしたまま、固まっている。
ただ、ジーノがドクトルの懐に入っているのを見て。
目の前には、バブルリングはない。
いるのは、ドクトルだけだ。
ジーノは拳を振り上げた。
「この馬鹿があああああああ!!!」
ジーノはドクトルをぶん殴った。
ドクトルは避けれず、殴られた衝撃でよろける。
ジーノは足が痺れ動けず、そのままドクトルの足元に倒れた。
よろけているドクトルを見て、ジーノは笑った。
ざまあみろと。
同時に自分にも呆れた。
馬鹿だと。
一矢報いはしたが、完璧にドクトルの勝ちだった。
ジーノは記憶を失い、また、最初からやり直しだろう。
くそがと思いながら、倒れていると、閉まりきっていた脳の扉が開いた。
そこにはジーノもドクトルも予想だにしない人物が立っていた。
「リタ!」「どうして、リタがここに!」




