第一節
「リタは浅海に行きたいのか」
「うん」
「なんのために」
「何って、人を乗せるため」
「どうして、人を乗せたいんだ」
問うとリタは、指を口にあて、考える仕草を見せた。どうやら、考えたことがないようだった。
「私が鯨だからかな。だって、鯨は人を乗せるでしょ」
「乗せてどうしたんだ」
不安からか、やや強めの口調でジーノは言うが、リタはけろっとした様子で不思議そうに返す。
「一緒に暮らしたいから?」
「は?」
「だって、鯨はそういうものだって、本で読んだんだもん。待っててすぐ持ってくるから」
リタは頬を膨らませながら抗議すると、勢いよく部屋からでていってしまった。
病室のような部屋にジーノと先生と呼ばれたゾンビだけが残された。
状況が状況とは言え、小さい子を怒らせたことになんとなく罪悪感を覚えたが、今は感傷に浸っている場合ではない。
ジーノは警戒しつつ、ベットの横に立っている先生に目を向けた。
彼は負傷しているが、ゾンビである以上、戦えないということはない。腰に目をやると、ハンドガンが目に映った。
どうやら、あまり刺激しない方がいいらしい。
「ここはどこだ」
「…………」
瞳孔の開いた目は向けられたが、返事はない。
「お前は何者だ」
返事はない。
「俺をどうするつもりだ」
返事はなかった。
会話のないままにらみ合っていると、両手で本を大事そうに抱えたリタが戻ってきた。
辛気臭い空気など露知らず、リタは本をジーノに見せてくる。
「ほら、見て、これ!」
そこには『ひととくじら』とファンシーな文字で書かれた絵本があった。
表紙には人と鯨がにこにこした顔で手を繋いで輪を作っている。
この本はジーノも幼いときに読んだことがあった。というより、誰もが知っている有名な絵本だった。
子供が人と鯨との関係を知るための絵本。
「むかーし、むかーし、あるところに」
リタはベットに座ると、ジーノに読み聞かせ始めた。
この物語は鯨の背中に住む人々と鯨の日々が描かれている。物語に登場する鯨は生まれたての子供で、立派な鯨になれるか不安を抱えていた。友達の人の子に悩みを相談すると、人の子は町の店や学校、様々な場所を案内した。たくさんの人の友達を増やしながら、楽しい一日を過ごすと人の子は鯨に言う。いつもありがとうと。日々楽しく暮らしていけるのは鯨が人を乗せているからだという。人の子の言葉で自信を取り戻した鯨は人と協力し、立派な鯨に成長したという。
そんな話だった。
リタが絵本を読み終わると期待に満ちた目で、ジーノを見つめてきた。
「どう?」
「どうって何が」
「すごいでしょ」
「まあ、そうだな」
適当に同意しておくと、リタは嬉しそうに笑った。
「そうでしょ。私もこの絵本のような立派な鯨になりたいんだ。だから、まず、人を乗せたいの」
「なら、最初っからそう言えよ」
「だって、今思ったんだもん」
リタは口をへの字にした。
交流器官と呼ばれる人の姿の鯨は常に幼い姿をとるため、見た目で年齢を判断できない。
しかし、このリタという鯨は本当に年相応の姿をしているように見えた。
ジーノは呆れ混じりにリタに聞く。
「だから、人がいる浅海に行きたいのか」
「うん」
「なら、行けばいいんじゃないか。鯨にとっては、深海から浅海に行くことなんて造作もないことだろ」
ジーノがそう言うと、リタは体を小さくし、縮こませた。
「それが、行けないの」
「え、なんで鯨だろ」
「そうなんだけど、行けないの」
「なんで?」
ジーノが聞くとリタはうつむき、小さく呟いた。
「体、動かなくなっちゃうの。境界に近づくと」
「どういうことだ」
「わかんない。だから、浅海から来たジーノなら、浅海に行く方法を知ってるかなって」
「いや、知らない。鯨で境界を渡る方法しか知らない」
「え、そんな」
リタはがっくりと肩を落とした。
浅海に行けないことは問題だが、それよりも目の前のゾンビの方がジーノにとって、命の危機に直結しそうだった。
「それより、あれ、先生? は大丈夫なのか」
「大丈夫ってどういうこと」
「襲ってきたりしないのか」
「え? どうして?」
「いや、その」
ジーノが最もらしい理由が思いつかず、口ごもっているとリタが答える。
「先生は襲ってきたりしないよ。私の面倒を見てくれるの。たまにちょっと厳しい時もあるけど、すっごく、すっごく優しいんだ。ジーノのことも、先生が運んでくれたんだよ」
リタは食いぎみに、聞いてもないことをしゃべり始めた。
よほど先生のことが好きなのだろう。
ジーノはゾンビに運ばれたことに、顔をひきったが、辛うじて笑って誤魔化す。
「そう、なんだな」
「うん!」
「それは助かった」
「うんうん、あ、そうだ。ジーノお腹空いてない? 一緒にご飯食べに行こうよ。先生のご飯、すごく美味しいんだよ」
リタはジーノの腕を掴むと、引っ張り始めた。
ゾンビの作ったご飯にただならぬ嫌悪感を抱いたが、ここで拒否すると、持ち直したリタの機嫌を損ねそうだった。
リタの言うことを聞く必要はないのだが、少女の姿のせいか、なんとなく断りづらい。
現状を知るためと適当な理由をつけて、ジーノはリタに連れられ、食堂へと向かった。