序章
幽霊鯨。
今やその名を聞けば誰もが怯え、姿を目にすれば、足がすくむだろう。
けれども、ジーノ・トゥレイスの反応は違った。
彼はこの時を待っていたとばかりに、前線に出ると言った。
対幽霊鯨の作戦会議が静まる。
たいした度胸だ。若さゆえによほど正義感が強いのか。それとも復讐や憎しみがあるのか。
その場にいた男はそう思いつつ、ジーノの顔をちらりと見た。
彼の目は、真剣そのもので、強い決意に満ちていた。
正義? 復讐? そんな単純なもので彼は動いていない。
彼は彼自身の目的のために動いている。そのように見えた。
作戦会議を終え、男は上官にジーノという少年について話を聞いてみた。
「彼はなぜ、真っ先に前線に出ると言ったのでしょうか」
上官は語る。
「彼は幽霊鯨に忘れ物をしたらしい。それを取り戻すために戦っている」
「忘れ物って、どういうことですか? だって、幽霊鯨に足を踏み入れないと、忘れ物をできないじゃないですか」
男が冗談交じりに笑いながら言うと、上官は驚きながら言った。
「知らないのか? 彼は幽霊鯨出身の少年だぞ」
***
すぐ側で魚雷が通りすぎていく音が聞こえた。
爆発物だというのに音は小さく静かだ。
外の様子を確かめるためにモニターを目にするが、ジーノはあまりそれに頼っていない。
代わりにソナーを使う。
ソナーは音波を発し、跳ねかえった音波から位置を推測する装置だ。
リアルタイムではないが、潜水艦を中心に敵の位置が左右前後上下まで事細かにわかる。
水中の映像技術は日々進化し続けているが、ジーノは相変わらずソナーを使っていた。
ソナーの情報を確認すると、数えられないほどの無数の潜水艦がジーノの後ろに迫っていた。
しかし、知りたかったのは潜水艦の位置ではなく魚雷。
ソナー更新前に見えなかった反応は、おそらく新たに発射された魚雷だろう。
ジーノは魚雷を素早く確認すると、さっと避けられそうな場所へ移動する。
同時に、避けれそうにない魚雷には、こちらも魚雷で返し、打ち落とした。
移動しながら、前方のソナーの反応に気を配っていると、ポケットに入っていた通信機が震えた。
ジーノは嫌な顔をしながらも、通信機を手に取ると、操縦席のメーターが被らないところに置いた。
「こちら、ジーノ・トゥレイス」
「ジーノ!!何してるの!?」
案の定、聞き慣れた少女の怒声が聞こえてきた。
「陽動作戦中ですが」
「ちがーう!!なんで、そんなに幽霊鯨の近くにいるの!?」
「大破した潜水艦が思ったより、幽霊鯨に近かったので、陽動役の俺も近づくことにしました」
「作戦ではもっと、離れる予定だったでしょ」
「作戦通りの距離ですと、陽動の意味がありません。ですので、この距離になりました」
「なんでそうなるの! あわよくば、幽霊鯨に乗り込もうとしてるでしょ」
ジーノの口が止まったが、すぐに話し始める。
「してないって言えば、嘘になります」
「ぜーったい、だめだからね!!」
「マリン様は俺の母親ですか?」
「母親みたいなものよ。私の背中にいる子達はみんな私の子供だもん」
通信機から椅子やら机やらを叩く音が聞こえてくる。
その感情的な様子は子供っぽく感じるが、口にはしない。
「そんなに心配しないで下さい。今のところ無理そうなんでしません」
「やっぱり、してるじゃない」
ぎゃーぎゃーうるさいマリンを静かにさせるために別の話題を振る。
「救助の方は順調なんですか」
「ジーノのおかげで思ったより順調よ。あと、五分くらい耐えてもらえば、大丈夫そう。でも、命令違反はこっぴろく叱られなさい」
「それはもとからそのつもりです」
「まったく。その操縦技術がなければ、とっくに海鯨隊クビにしてるわ。独断行動に、危険な賭けばかり」
「その結果、助かったものは多いでしょう」
「ジーノはいいかもしれないけれど、私の、みんなの心臓が持たないの!!」
「努力はしますが、状況によっては無理です」
「もうっ!」
マリンと話しながら、ソナーを確認すると、ジーノに撃ち込まれていない魚雷を数発確認した。
方向は救助を行っている潜水艦。
ジーノは通信機に手を伸ばす。
「マリン様、少し状況が変わりました。一度通信を切ります」
「ちょっと、変わったなら状況を話しな」
さいと言う前に、ジーノは通信機を切った。説明しなくても、すぐにわかるだろう。
更新されたソナーから、魚雷の位置を把握する。更新前に写った魚雷の位置と照らし合わせて、おおよその速さを予測する。
発射する魚雷の速度から、迎撃可能位置を予測し、魚雷を撃ち込んだ。
同時にジーノは、アクロバティック飛行でもするかのように、潜水艦を器用に百八十度反転させ、ひっくり返る。
後ろに飛んできた魚雷と迫り来る潜水艦に魚雷を撃ち込んだ。
数秒後、すべての魚雷と潜水艦の迎撃に成功する。
去っていく救助潜水艦の反応を確認すると、自分の役目がもうそろそろ終わることを知った。
「後、五分か」
モニターに目を向ける。
複数の潜水艦が映るが、その向こう側にいる幽霊鯨は見えない。
不謹慎ではあるが、ジーノはこの幽霊鯨の襲撃に期待していた。
もしかすると、乗り込めるかもしれない。そう思っていたが現実はあまくない。
「幽霊鯨討伐隊でも、作られない限り、乗り込むことは無理だろうな」
百八十度ひっくり返った潜水艦を戻していると、どうしてか違和感を感じた。自分に危機が迫っているようなそんな感覚。
すぐにジーノはソナーやモニターを確認したが、異常は見られなかった。
首を傾げていると、一定の周波数の静かな音が聞こえてくる。
ジーノはこの音をよく知っていた。
魚雷だ。
音が聞こえるということは相当近い。
すぐさまソナーを確認する。
すでに迎撃不可能な距離まで魚雷が迫っており、撃沈される未来は決まっていた。
なぜ、いきなり魚雷が現れたのか。
ジーノが焦っていると、モニターに一隻の潜水艦が目に止まった。
機体は大破し、片腕のない人間が乗っているのが見えた。遠目でも血が海ににじんでいるのがわかる。
ソナーに反応は無し。
その瞬間、ジーノはソナーの機能を呪った。
ソナーは敵潜水艦が大破し、戦闘不能となった潜水艦を写さなかった。
しかし、今戦っているのは、幽霊鯨に乗るゾンビ達。
彼らは不死だ。
体がちぎれようが、潜水艦の機能さえ生きていれば、戦うことができる。
ジーノはエンジンをフルで動かし、可能な限り避けようとしたが、激突は避けられなかった。
鈍い音とともに爆発音。
体を強く打ちつつも、機体の状況を確認する。
機体は動かない。
モニターの画面が赤くなっていった。
思っていたより、強く頭を打っていたらしい。体の重症に気づいた途端、急に意識が遠のいた。
負けじと操舵にしがみつくが、落ちる方向を変えられるだけで意味がない。
通信機が鳴っていたが、出ることはできなかった。
落ちていく潜水艦の中で、ジーノは意識を手放した。
最後に聞こえたのは、”歌”だった。
***
「ねえ、先生、今日、この人起きるかな」
誰かの声が聞こえてきた。声の高さからして少女だろうか。かなり幼い。
「先生はどう思う」
少女は何者かに話しかけているようだったが、一向に返事は返ってこない。
会話を聞いていると、自分に意識があることに気づき、飛び起きた。
「痛っ」
体を急に起こしたせいで全身に痛みが走る。けれども、自分がどうなっているのか気になった。
「あ、起きた!!」
ジーノの側には小さな少女が座っていた。
少女はベットに手をつき、好奇心に満ちた目でジーノを見つめていた。
ジーノは少女の姿に息を飲む。
思わず、声をかけた。
「あなたは」
「リタ!」
疑うことを知らない子供のようにリタは元気よく答える。
「あなた、しゃべれるの?」
「あ、ああ」
「名前は」
「ジーノ、ジーノ・トゥレイス」
ジーノがリタの勢いに気圧されながら答えると、リタは嬉しそうに両手を挙げた。
着ていた検査服の結び目のリボンが、リタの喜びを表すように大きく揺れる。
シルバーと黒のミックスのショートカットの髪もリボンと同様にふわりと揺れた。
非常にかわいらしい反応だが、ジーノにとってはそれどころではなかった。
リタのある一点に目がいく。
コバルト色の瞳とヒレのような耳。
マリンと同じ、鯨が持つ特徴だ。
「君は鯨なのか」
「うん、そうだよ」
「その、隣にいる人は」
ジーノは目の前にいるものが信じられないように、恐る恐るリタに聞いた。
「先生だよ」
「彼はゾンビ?」
「ゾンビって何?」
リタは聞いたことない単語を繰り返すように答えた。
先生と呼ばれた人間は、成人男性で、頭が半分なく、包帯が巻かれていた。白衣を着ているが片腕は通ってないようで、そでが垂れ下がっている。
もう片方の手でカルテのような、薄い電子機器を持っていた。
この姿で、動けるなんて、幽霊鯨にいるゾンビしかあり得ない。
「ここは」
「私の背中の上」
「違くて、この場所は」
ジーノは自分が乗っていたベットを叩きながら、リタに促した。
なんとなく嫌な予感がしていた。
リタは指を顎にあてながら、答えた。
「もしかして、施設のこと? 本当の名前は知らないけれど、先生達はそう読んでるよ。研究してるんだって」
リタの答えを聞いた途端、無意識に着ていた検査服を強く掴んだ。
ジーノの戸惑いなど知らず、リタは期待を込めた目で、ジーノに迫った。
「ねぇねぇ、ジーノは浅海から来たの」
「え、ああ」
リタのテンションについていけないせいか、あるいは驚きすぎて考えられないからか、リタの問いかけに答えてしまう。
「ねえ、浅海ってどんなところ」
急に頭が冷静になる。
ここは、深海なのか。
その疑問を問う前に先にリタが、口を開いた。
「私、浅海に行きたいんだ」
曇りなきコバルト色の瞳が、ジーノを見つめていた。
ここは一体、ここは何なのだろう。