第二章41話 暴雪突撃
青海夜海です。
夏過ぎて頭がバグります。
刹那の事だった。
肌に強烈な痛みが襲い手綱の先の馬は甲高い声を上げその場で地団駄を踏んだのは。
「どうした——」
その先の言葉は紡ぐことを許されなかった。
まるで川のせせらぎの中を音もなく風が流れたように、白い風雪が横切りノアルとルヴィアの真横にそいつは顕在する。
銀雪の花吹雪より舞い出た氷豹は海よりもずっと深い青の瞳を細め——
『――――』
音もなく氷雪をぶちまけた。人間の数十倍の巨体、その顎から放たれた暴雪はあらゆる生命体の拍動を凍死させる。極寒の暴雪は馬車を木っ端微塵に吹き飛ばし、馬を瞬間に凍死させ、脆弱な人の身など氷雪の塵のように吹き飛ばす。
たった一息。それだけで辺り一帯は氷雪地帯へと変形し、平野の見る影もない。
すべてを白紙に染め上げた氷豹は、しかしその場を動かない。深海の瞳が氷雪地帯を凝視し。
「そう、簡単に見逃してはくれませんか」
積もった雪の下から現れたルヴィアが苦渋の顔を見せる。そんな彼女のすぐ横からノアルも姿を見せる。
「ノアルさん、大丈夫ですか?」
「ああ、助かった」
「いえ。それよりもです」
ルヴィアの防壁によって間一髪で暴雪から防げた二人。隣同士で座っていたことが功を奏した現在、されど眼前の獣はノアルたちを見逃す気はないようだ。
「…………氷河の豹。確か」
「ニクスレオパルドゥスです。『十一の獣』ほどではありませんが、危険視されているパンテオンです」
「知らなくてもわかるな、これは」
彼我の距離は約二百メルほどだろうか。だが、覗き込まれた時と距離がさほど変わらない気がするのはニクスレオパルドゥスの全長があまりにも大きいからだ。
「全長は三十メルほどですか。記録にある平均個体よりも大きいです。氷雪に紛れて来るので注意してください!」
「それはわかった。で、この温度だと俺らはどれだけ持つと思う?」
ニクスレオパルドゥスが現れただけで気温は反転し、体温は一気に奪われてしまった。水棲の聖衣、あるいは|火絡の聖衣《サラマンダラストをも装備していないノアルたちは急激に死の淵へと追い込まれている。既に手足はかじかみ血色は青白く心臓が今に凍てつきそうだ。
ルヴィアは〈ユリの金紋の首飾り〉を〈白火の閃剣〉へと変形させ、剣を二人の足元に突き刺す。
「【サラマンダーよ・アンアの名の下に・暖となる焔を灯せ】」
魔術を詠唱すると火のエレメントより現象が起こる。白い炎を赤い炎で包む、そんな焔が剣より灯り直径五メルの気温を取り戻す。
聖火はすぐにノアルとルヴィアの身体を温めかじかみを解し血を行き渡らせる。
「この炎も持って十分が限界です」
「それまでになんとかしないと俺たちの負けだな」
「はい。くれぐれもニクスレオパルドゥスの氷雪には気を付けてください」
「わかった!」
剣を引き抜いたルヴィアはこちらを窺うニクスレオパルドゥスへと構える。その後ろでノアルもまた十字架のペンダントを旗錫杖に変形し、周囲を警戒する。
「…………」
「…………」
秒針のように鼓動する心臓。氷雪の世界で、ふと吐息を吐くようにニクスレオパルドゥスが霞んでいった。その刹那——
「――っ⁉ ノアルさん!」
『――――――――ッッッッ』
「ぐぅっ——」
背後より音も気配もなく出現し、ノアルへと肉迫したニクスレオパルドゥスの前足の爪と運よく予想を的中させたノアルの旗錫杖が迎撃する。
強烈な一撃は三十メルの巨体による重量と相まって更なる負荷を上乗せる。貧弱なノアルは旗錫杖を両手で支えるも堪えられない。
「…………」
だが、ふと気づいた。その気づきに反応するようにニクスレオパルドゥスの身体が弾け消え、数百に及ぶ氷棘へと変貌した。
「うそだろ……」
呆気に取られるノアルに慈悲はなく氷棘は一斉に穿たれる。棘壁が迫り悲しくもノアルに反応する暇も対抗する実力もなく——
「はぁああああああああ!」
勇ましい銀閃が一掃した。展開される閃撃が光線のように迸り、数百の氷棘を散らす。
まるで違う。自分とは次元の違う激闘に見惚れるノアルへ。
「直ぐにやって来ます! 備えてください!」
ルヴィアの叱咤が背を叩き、ノアルははっと我に帰ってニクスレオパルドゥスの襲撃に備える。
「霧か? いや氷霧!」
「ノアルさん! わたしの近くにいてください!」
氷棘の対処を終えたルヴィアの背にノアルは背を沿わす。そんな二人を囲い込むように冷気の纏った氷霧が白く渦を巻き、その向こうでこちらを欺くようにニクスレオパルドゥスの顔が幾つも覗く。
氷霧の高さは推定二十メル。飛び越えられない高さでもないが、どれだけ深いか計り知れない。ふと、そんなことを考えてとある疑問が覗いた。
「どういうことだ——」
だが、その疑念への思考をまたしてもニクスレオパルドゥスは許してくれなかった。
氷霧よりニクスレオパルドゥスの顔面が四方八方から強襲してきたのだ。
「――――っ⁉」
ルヴィアが指示する暇もなく、二人は反射的に己の得物で迎え撃つ。
「はぁあああああ!」
ルヴィアの鋭く綺麗な斬撃が氷霧に一閃を引き霧散させ、剣を翻し右手から迫るニクスレオパルドゥを撃破。しかし、それも霧となって霧散。すぐさま身体を回転させ背後から飛び掛かるニクスレオパルドゥスの顔面を縦に一閃。霧散する霧を払うように横に斬撃を放ち更に一体を討伐する。
「これも偽物⁉」
ニクスレオパルドゥスの体躯はそもそも氷体だ。氷河でできている身体は正しく生命体であり体内は生物の構造をしているが、そのほとんどが氷や雪と紛れもなく同質と言って過言ではない。よって、氷霧の擬態は限りなくニクスレオパルドゥスと同質であった。
嗅覚に鋭いアディルならどうか知らないが、パンテオンとの交戦の実績が乏しいルヴィアでは見分けることはできない。
「どれが本体ですか⁉」
次から次へと現れるニクスレオパルドゥスの氷体。ノアルも懸命に旗錫杖を振るい往なし続ける。
数十秒の氷霧との交戦を得て二人は同じ結論に到る。
「時間稼ぎか!」
恐らく一度目の攻撃はノアルとルヴィアの動作の確認のため爪撃を加えたのだ。その上でニクスレオパルドゥスはノアルとルヴィアの体力を消耗させた方が確実に勝てると考えたのだろう。獣にしては賢しいその頭脳はニクスレオパルドゥスにとって圧倒的に有利な長期戦へと計略し、見事に二人は獣の罠に嵌まった。
抜け出す暇を与えぬ氷霧の連続攻撃。聖火が尽きるが先か二人の体力が底を尽きるのが先か。どちらにしろニクスレオパルドゥスの氷爪が死を降す。
「どうすれば……っ」
氷霧を捌きながらルヴィアは思考を加速させる。思い浮かぶ案は三つあった。
だが——
「あの霧の向こうに行くなんてできません。死んでしまう」
二人が動けているのは灯された聖火のお陰。特殊な聖火は並みの風や水などでは消えたりしない。だからといって永続なわけもなく、聖火の消滅こそ本当のタイムリミットだ。
「なら、本体を見つけるしかありません。きっとわたしたちをどこかで見ているはずです。…………」
しかしだ。しかし、氷体として同質なニクスレオパルドゥスをどう見分ければいいか。一つとして案が生まれない故の停滞が焦燥を駆らせる。
そして三つ目だが…………それは、力の限りに吹き飛ばす蛮行だ。
こればかりは最終手段だ。その一撃で倒すことができなければどちらにしろ死んでしまうだろう。倒せたとして、物資もロクに持たない上に馬車まで破壊され、都市には敵愾心を宿す者ばかり。状況が生還の難しさを語る。
「どうすれば……どうすればっ」
急くルヴィア。その剣筋にも乱れが生じ効率的な一撃は余計な力みと動作に呑まれ体力を余計に奪っていく。
そんなルヴィアの傍ら、ノアルは必死に氷霧を迎撃しながらその黒い眼は氷霧の渦を凝視していた。まるで何かを探すように。
「…………俺の予想が正しければ」
先ほど、ふと抱いた疑念から導きだした活路。発達した戦士のように良くはない眼で無数に浮かび上がってくるニクスレオパルドゥスの顔面を見つめ続け。
「そこだ!」
ノアルは氷霧の攻撃を甘んじ、凍傷と牙撃の激痛を腕や背に感じながら定めた一点へと飛び込んだ。
両手で構える旗錫杖を足の踏み込みと同時に振り下ろす。
「【弦の光】」
振り下ろされた旗錫杖が氷霧の渦を切り払い、描く弧の軌条を弦と成して光を一点に収斂させる。
「飛べッ!」
ノアルの号令に合わせて弦は収斂した光線を放った。眼前を覆い隠さんと迫る氷霧を貫き疾く駆ける。光線の一撃は凍て星のように駆け抜け、ニクスレオパルドゥス本体の右眼を貫いた。
『ウォオオオオオオオオオオオオッッッ⁉』
「よし!」
痛哭が氷霧を劈き液体化した霧のような白い墳血を上げた。ノアルの会心の一撃に悶えるニクスレオパルドゥス。
氷霧は晴れていき、聖火の下で奴の姿を露わとする。
「え? さっきと大きさが違います」
驚愕するルヴィアの視線の先には、全長十メルにも満たない豹は四つ足を折り曲げ左目の深海の眼光で睨みつけてきた。
「恐らくだが、ニクスレオパルドゥスに本当の大きさはないんだ」
「どういうことですか?」
「奇襲じゃない一度目の攻撃の時。俺は奴の攻撃を受けた。自分で言うのはアレだが俺の力などたかが知れてるんだ。俺ごときの腕力で三十メルの巨体、それも上位のパンテオンに敵うはずがない」
そう、ノアルは想像よりずっと非力だ。鍛えた人間の毛が数本生えた程度。超人的な身体能力も肉体も彼は持ち合わせていない。
「でも、ノアルさんは耐えて見せました! だから卑下しないでください! わたしはノアルさんが強いことを知っています!」
「……ああ、慰めありがとう。逆に悲しくなる」
「?」
ルヴィアの純粋な慰めに涙ぐみ、という茶番は置いておいて。
「違うんだ。俺が耐えられたのは予想よりずっと奴の攻撃が軽かったからだ」
「軽かったですか?」
「ああ。簡単に言えば三十メルの重量じゃなかった。ニクスレオパルドゥスは氷体だ。だから思ったんだ。その身体は氷や雪でできてるんじゃないかって」
「氷や雪でできてる……そういうことですか!」
そこでようやくルヴィアも事の真相に辿り着く。
「氷体でできているニクスレオパルドゥスは『変芸自在』というわけですね。三十メルの巨体から今の姿のように小さくもなれる」
「俺もニクスレオパルドゥスが俺たちを監視してることはわかってた。なら、偽造体と同じ姿で俺たちを見ていると思ってわけだ。三十メルの巨体に気を取られているとまず気づかない」
まず思い込みがあった。ニクスレオパルドゥスは三十メルの巨体であると。それゆえに聳え立つ壁のように渦巻く氷霧への意識は常に上の方へと逸れてしまう。だが、実際は十メルの体躯となり、偽造体と扮してこちらを常に観察する。それがニクスレオパルドゥスが持つ氷体の特性の一つだった。
「あとは不自然な動きや攻撃してこない個体、今回は深海の眼が目立ってたぞ」
『グゥゥゥゥゥゥ!』
ニクスレオパルドゥスは悔しそうに喉を鳴らし、ゆっくりと立ちあがる。
「すごいですノアルさん! わたしはまったく気づきませんでした」
「呑気にしてる時間はないからな」
「の、呑気になんてしてません!」
二人は晴れた景色の奥からこちらを睨みつけるニクスレオパルドゥスへと再戦の構えをとる。追撃しなかった理由は単純。聖火の恩恵が届かない位置にニクスレオパルドゥスが陣取っているからだ。策略を披露する豹が何も対策していないわけがない。
ノアルの思慮通り、もしも間髪を入れず追撃していれば視界など使えなくとも人間の体温を感じ取り氷雪地獄を味合わせたことだ。
彼の臆病さは一つ命を救った。
だが、見事に一撃食らわされてニクスレオパルドゥスの腹が煮えくり返る。激怒の眼光が吹雪き獣声を解き放った。
ありがとうございました。
次の更新は日曜日に行います。
それでは。




