第一章48話 青鈴の蘭草原
青海夜海です。
もうすぐ四月なのにこの気温はおかしいです。というのも恐らく六月くらいに言うなだろうと思いながら言います。寒い!今日は寒いのでみなさん温かくしてください。
「ここから先が『聖域』の『青鈴の蘭草原』だ」
ルナの眼でもわかる。外界と隔てる淡い力場膜が手を伸ばす先に揺らめいているのが。不思議な感覚であった。意識しなければベールなど見えず何ら変哲もない薄霧が漂う湿地帯が広がるだけ。しかし、意識して見てみると視界を遮断するように現れたベールは大空より揺られながら『青鈴の蘭草原』を守護しており、ベールの向こう側がうっすらとしか見えない。もう一つわかるのはベールの向こう側には途轍もないほどに水のエレメントで溢れていること。色で認識すれば星が隠れてしまう青い夜空そのものだ。僅かな星が他のエレメントに該当し、それはあまりにもささやかすぎて夜空の前には霞んでしまう。
ごくりと緊張感を呑むルナに対してリヴは「へーここが『聖域』なんだ。すごく興味深いからくりね。初めてだからワクワクだー」と平常運転。自分の浅ましさから見ていられなく、ふとアイレの方に目を向けて。その拳がぎゅっと強く握られていた。リヴとは相対的な在り方に親近感ではないが、仲間意識に似たものが沸き上がり見つめていると、アイレは視線に気づきルナを見返した。
「……」
「君は殺人は悪だと思う?」
「え?」
唐突な質問にアディルとリヴのいる方面の反対側に視線を逸らす。
「どんな理由でも人を殺すことは許されない悪事だと思う?」
しかしアイレはルナを逃がさない。そして、その問いこそ現在進行形でルナを苦しめているものだであった。
生きるために必要なこと。けれど、理由はどうあれ相手の命、人生を奪うことに違いはない。善悪を問われルナに答えられる明確な回答は存在しない。己ですら在り方に迷っているのだから。
ただ、一つ思うのは。ルナのこの感傷のような未熟な在り方はこの世界では途轍もない不義理なものであると。だから、『ルナ』として言う言葉は決まっていた。
「許せると思える理由があったら……悪じゃないと、思う」
顔を上げられない。眼を見て言えなかった。胸騒ぎが痛い。彼の視線が怖い。
アイレはそっと言う。
「君が、純粋に思ったことを答えてくれないか?」
優しい声音に顔を上げる。アイレは今までにないくらいに真剣な眼差しを向けていた。何かが少女を突き動かす。それは名のない少女としての激情か。わからない。けれど、すべてを取り除いてそこにあったのは、本当の純粋に思ったのは、その一つだけだった。
「できるなら、私は誰にも死んでほしくない」
「――――――」
アイレは口元を緩め、「そっか」と小さな笑みを浮かべた。
「ありがとう。きっと君なら叶えてくれると信じてる」
「え?」
儚げなあなたは覚悟を決めていた。一歩踏み出すその歩みがもの悲しく、侘しく。その背に何かを見出そうとして。
「なーに話してんの。ほらいくよ」
そう、背後から抱き着いてきたリヴが無理矢理にルナの手を取って走りだす。
そんな二人の少女を見つめながら、アイレは決意と共に『聖域』へと踏み込んだ。
薄霧に覆われた湿地帯。灰色の樹木が一定の距離を開けてぽつぽつと立ち並ぶ寂しげな風景。青よりも透明に近い水たまりが無数に広がり、低い丘陵が波のように続き生命の息吹があまりにも感じ取れない。獣の霊魂のように光を放つ青燐生鈴蘭が咲き並ぶ。まるで冥途への道標のように。
そこはあまりにも静かだった。そして、あまりにも生命力が濃かった。
「どうなってやがる? 死体どころかパンテオンの一匹も見当たらねー」
「気配も全然しないのに、この大きな存在はなに?」
異質だ。それが似合う状況であり、嗚呼、言葉通りここは『聖域』なのだろう。
「何人たりとも出ることができず、生きることも叶わない、生命が還る源。正しく『聖域』だね」
「アイレさん?」
勝手に歩き出すアイレに「おい!」とアディルが声を上げた。その時だった。
「ん? なにあれ? なにか来るよ!」
眼を細めたリヴが直ちにセフィラの杖を構え減力した土の魔術を発動しようとして、意識が奪われた。攻撃を受けたからではないその現れた存在に思考がフリーズしたのだ。
「なにあれ……?」
それは大地を這い駆ける獣のようにやって来た。灰色の樹木を薙ぎ倒し、青燐生鈴蘭を散らし貪欲猛禽狂気にして奇怪、それ相応の異質を持ってしてそれは来る。数十年樹木の幹の太さと変わらず、体躯は蛇のようにうねり動き、体躯の表面からは無数の生物の欠片が命を請うように飛び出ている。人の手や脚、パンテオンの首や尻尾。
一目見て言い表せる表現はあった。
「巨大な根っこ――」
嗚呼しかし、それだけでは言い表せなかった。と、同時に一目見てすべては理解される。この地で起こった悍ましいイレギュラーが何か。
「っち。クソが! あの根っこがここのすべての生命体を喰いやがったのか‼」
それが答えだった。爆音を叩きつけながら容赦なく突っ込んできた無数の怪根。
「逃げろッ‼」
アディルの合図で一斉に逃げる。しかし、既に背後は回り込まれ『聖域』から出ることは不可能だ。ここで交戦してもいいが本体を叩かない限り莫大な生命力が怪根をすぐに回復させるだろう。アディルが切りつけた傷が既に修復されているのが例だ。
アイレ、ルナ。アディルとリヴと左右に分断され怪根の数は判断できるだけで三十はくだらない。加えて水属性以外の能力が低下している今、力押しで切り抜けることも現実味がない。万事休す。踏み込んだら最後、これが『聖域』がもたらすイレギュラー殺戮劇場だ。
「クソがっ‼」
「こっち!」
「きゃっ!」
真っ先に動いたのは怪根だった。暴食の限りに貪らんと襲来する怪根をアディルが可能な限り力を込めて迎撃し、アイレはルナの手を引いて逃亡する。
「僕たちはこっちから本体に向かう!」
「ちょっとアイレくん! 危ないって!」
「生き残るにはこれしかない! 君たちはそっちから向かってくれ」
「待って! こんな危険なことルナにっ」
ルナには危険すぎると食い下がる前に怪根が肉迫する。間一髪でアディルが手を引いたことで無事だ。
「リヴ、今はあいつの言う通りにするぞ」
「で、でも! こんなの二人だけってルナには危なすぎるよ!」
「バカか。俺らが分担することで敵の数の減りやがる。本来の力が出せねー以上、四人固まって迎撃すんのは効率がわりー」
「うっ……で、でもっ!」
「ぼさっとすんな! んな所で死ぬわけにはいかねーんだろ! それはあいつも一緒だ。あいつを助けてーならさっさと本体の所に行くぞ!」
理解はできたけど納得はいかない。それでも今はそれしか手段がない。
リヴは普段の倍以上に膨れ上がる水魔術の高ぶりを感じながら「わかった」と頷いた。
「こんなイレギュラーさっさと破壊するから!」
解き放った水砲が迫りくる怪根を吹き飛ばした。
怪根が蹂躙する。灰樹木を薙ぎ倒し大地を抉る。生命体を追いかける執着心は破壊をもたらすほどのものだ。背後の地形が幾度にも変形し、寂しくも儚く美しかった湿地帯は影も残らず見るも無残。圧倒的な物理攻撃を喰らえばいくら常人離れした能力を有していても人堪りもない。それこそ、歌うことしかできないルナには致命傷だ。一撃、余波すら危うい戦場を二人は駆ける。アイレがルナの手を引き、本体がいると思われる怪根の根本とへ大きく迂回しながら近づいていく。
「きゃっ! あ、アイレさん! このままじゃ!」
「大丈夫! 君に何かあったら僕が彼らに殺されちゃうからね。死ぬのは嫌だから大丈夫だよ」
「で、でもっ」
ルナの危惧は大きくわけて二つ。一つが迫りくる怪根。二つ目が行使している風魔術の低下だ。
『聖域』の加護により水属性以外の属性の能力が著しく低下している現在、低下した魔術を本来のスペックで行使しようとすれば減少分の力を上乗せで引き出さないといけない。つまり通常の倍以上の魔術行使によって本来の能力が引き出せるわけだ。単に効率が悪く消費に対価が似合っていない。
怪根が距離を詰めてきているのはエネルギーの消費スピードが速すぎる故に維持できないからだ。このままでは先にアイレがばててしまう。
しかし、怪根に慈悲はなく更に数を増やして左右頭上背後と八方から攻めてくる。
右側から突貫してくる怪根を前方へ大きく跳んで回避。立ち止まることは許されずこけそうになる脚を無理矢理走らせる。頭上からの強襲に前方三つの襲撃。左右からの挟撃。
「こっちだ!」
「は、はい!」
手を引かれるままに常に全速力で駆け抜け間一髪で回避していく。が、余波や散る枝葉や石が二人の身体を傷つける。流れる血と打撲の痛みと怠さを感じていく脚。衝撃に身体が浮こうが、肌が礫に切られようが、倒木の破片が腹を殴ろうが、鼓膜が破れようが、足を止めることは許されない。それ即ち生きることへの諦めに他ならないからだ。
「はぁはぁはぁああっ!」
「アイレさんっ!」
「……っ。大丈夫っ。もう少しで本体付近だ」
その圧倒的にして激烈で、なのに静謐なナギの感覚がルナとアイレを襲う。それは既にナギとは違うエネルギー体のようにも思え、ただただ、それがなんらかの形で解き放たれれば想像を絶する何かが始まってしまう。本能的感覚が恐怖する。あれには関わってはいけない。逃げるべきだと。
「……」
「怖い?」
「……うん、怖いです」
「……僕もだよ」
そうアイレは一瞬だけルナを見つめ。
「それでも、やらないといけないことがある。怖いなんて理由で逃げるのはもうたくさんなんだ」
「……アイレさん」
だからと、彼は右手へ急転換し駆け出した。無数に迫る怪根を掻い潜り往なす槍が半ばから折れ肌を掠める。得物を失い、怪我を負うい、それでも諦めずに足を動かし。やっと怪恨たちの出どころを見つけた。とある一点を守護するように陳列して唸る怪根たち。恐らくその向こう側に本体があるのだろう。円形状に並ぶ奴らは地中より襲撃してくる。アイレたちの視界範囲で五十に及ぶ怪根がその先には行かせぬと唸り一斉攻撃。逃げ場など微塵もない怪根の砦に。
「これは僕の我儘で使命なんだ」
だから逃げられないと、無数に並ぶ怪根の壁を跳躍した。全力の風魔を纏い目にも止まらぬ速さで人ひとりがぎりぎり通り抜けられる隙間を突破したのだった。
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