第二章53話 教鞭は虫の一生
青海夜海です。
はやく戦闘シーンを書きたいよー。
てか、八月が終わりそうで死にそう。
虫の世は三年。動物の世は五年。人の世は十五年。植物は二二五年。
そう唱えた生物学者がいた。無論、それが正しい寿命かと言われればそうでもないし、この年数が何を表しているのかと問えど解はない。
ただ、命というものは統制がとられており、それをひっくり返すことはできないのだと。
彼は命の期限を悟り語ったのだった。
虫の生存能力は逞しいと耳にするが、実際には生殖力を上回るほどの死が纏わりついている。奴らの超絶な生殖能力、繁殖力は多大なる死に抗うための存続の意志であり、けれど永遠に生き延びることはできない。
動物も同じだ。虫よりはよく生きて、けれど人よりは短命に終わる人生。食物連鎖の上では虫を捕食する側だが、その動物は人間に捕食される。奴らもまた滞らない死に対して生き延びる、種の存続を第一と考え行動している。
人間も等しく虫と動物と同等であろう。いずれ来る寿命や運命の死に抗うために生殖行為をして種の存続を促す。しかし、人間には他の生命体にはない弱点が存在していた。それが『知性』『理性』『感性』なる人が人である所以の三大感覚だ。
思考する力、自我を保ち得る力、それらを表現してあらゆる感情を取り込む力。神から与えられた人間としての特権は、しかし時代と共に進化していき一種のマジョリティを築き上げた。
とどのつまり、彼らの個人の意志によって生殖行為の取捨選択ができるようになったことだ。
大昔は三大感覚を得ていても種の存続のため生殖行為は本能的に行われており、一度に子を成す数が少ない人間はそれは頑張ったものだ。何度も生殖行為をして子を宿し続け、その使命は子へと移りそうして代々血脈は受け継がれ種の繁殖と存続を守護してきた。
しかし、時代は変化し人々もまたかつての本能を失い始めていた。
パンテオンの襲撃により人類の死亡率は跳ね上がり守護の意識が強まった。しかし、彼らが子を早急に残し繁殖する本能の危機感は抱かれなかった。既にその時代、子を成すのは家族としての幸せを得るためだったからだ
よって、人類は種の絶滅に瀕しても種を残すための行動をしないという欠落を抱いてしまったのだ。
それは、まさに終焉と言える危機であろう。
人類はいずれ絶命する——それが生物学者たちの結論だ。
「なんだ今の?」
知らない教会内部に転移させられたと思えば生物学者の研究の夢を見せられた。彼らが何を研究してどんな結論に至ったのか。
「これが終焉の意味、なのか?」
「そうです。人類は存続の危機にあります」
目覚めた後のようにまどろむ頭にぐるぐる回る生物学者たちの研究の日々。それを切り裂き目覚めさせるような凛とした声音が首肯した。
頭を押さえるノアルは視線を前に向け、声の人物と眼が合う。
外からの光がほとんど通らない薄暗さは、白一色の廊下の壁を灰色に見せる。そんな不気味な廊下を赤いカーペットが伸びていき、その中心に一人の少女が立っていた。右窓から差し込んだ月光が朧月光の髪を黄金に輝かせ、蒼穹の月のように蒼月の瞳が異彩と共にノアルへと視線が放たれる。昇月のはずなのに廊下は月沈みのように薄暗く、その廊下に佇む十歳くらいの少女は真顔のまま一歩近づく。
「人類は愚かでした。我が振り見て我が身を直せ。自覚以前の問題です。誰も彼もが人類存続の大義を忘れ去り放棄しました。人という種族として生きる責任を手放し、過去ばかりに囚われています。死を悼んでも生に鈍感すぎます。これを私は人類の過ちと思えてなりません」
嘆く少女の言い分は理解できるものだった。人類が絶滅してもいいと思う奴は別として、人々はなるほど未来など考えていないのだろう。
「それが守護を嫌う理由か?」
「そうです。守護は現状維持でしかありません。停滞が生み出すのは希望ではなく絶望の未来です。誰もが自我を強く持ち生物本能を失い始めている今瀬、生きている者は自分の幸せしか望まず、その先も子どもたちの未来も誰も直視して考えてはいません。人々は無差別な死を嘆きますが、産み出す大義を果たしていない彼らに嘆く資格はないのです」
「だからいくら死んでもいいと? それは破滅思考じゃないのか?」
足を止めた少女はノアルを観察するように睨みつけ、少しの間を置いて「いいえ」と。
「人類の停滞は絶滅に繋がります。守護も維持も破滅を迎えるのを指をくわえて見ているだけに過ぎません。今の幸せを享受したとして、未来に残らない記憶など何になるでしょうか」
「…………」
今度はノアルが口籠る。
誰かが成した栄光も、尊き勇士も、特別な愛も、献身の微笑みも、あなたが成し遂げた笑顔の人々も——語り継がれ記憶や記録に残り誰かが胸に仕舞わなければすべては無意味に消えてしまう。
確かにそれは
「虚しくて惨いだけだな」
「はい。人がどうして死を受け入れられるかわかりますか?」
少女は問う。
「発達しすぎた自己は傲慢となりました。数多の知識が強欲に駆り立てます。本能を失った彼らに生命の摂理は遂には受け入れられないものとなったことでしょう。色欲と嫉妬が愛の形となり、憤怒は絶えません。生きることに怠惰になった人類です。そんな人類がどうして今でも死を受け入れられると思いますか?」
ノアルだって罪人の一人であろう。彼は傲慢を犯し、嫉妬を抱え憤怒に燃えて現在進行形で怠惰を犯している。もしかしたら気づいていないだけで強欲も抱き色欲も暴食も発症しているのかもしれない。そんなノアルが生命の死は次なる生への道すがらなので、などと宣われた所でピンとはこない。それと同じだ。死に対して許容的できないのだ。
ならば人はどうして死を受け入れられるのか。
「…………」
皮肉なことに、ノアルはその答えだけは知っていた。その答えを教えてくれた人がいたからだ。思い出すだけ虚無に襲われる。それでも答えは知っていた。
「――生きていた意味があったから」
——多くの人を救えた。それでよかったのよ。
「…………」
それ以上の言葉はいらず、視線が下がっていることに気づいたノアルは慌てて上げる。改めて少女を見るとどこか呆気に取られた風で少し目を大きく開ける。その姿は年相応の愛嬌があった。
「驚きました。只人のお兄さんがそこに辿り着いただなんて」
「別に……特別なことじゃない。誰だって一度は思うんだよ。何かを残せたらって。昔はそれが血脈だったってだけだろ」
「その通りです。血脈の継承は記憶の残燭に変換しただけです。自分の生きた意味が残る、それだけで人は死を受け入れられるのです。けれど、この認識は致命的です。記憶とは概念です。実態のない記憶が人類存続の手助けにはなりません。人類は滅びを迎えた時、等しく私たちの生きた価値も意味も理由もすべては無意味へと成り果てます。即ち虚無に消えるのです」
少女は言うのだ。幼い相貌に多大なる悲壮を抱え焦燥の裏に孤独を滲ませて言うのだ。
「――それはとても悲しいではありませんか」
「私が今ここに生きて成し遂げたことすべてが無意味に帰るのです」
「妹を愛する感情も、成し遂げたことへの喜びも、失ったことへの悲しみも」
「すべてなかったことになるのです。きっと私の名前も残らないでしょう」
「獣や異種族と違う私たち人類は水は花、草木や空に記録を残すことはできません」
少女はそう最後に微笑んだ。そして、付いて来てください、と背を向けて踵を返す。
見つめる少女の背中は小さい。齢十ほどの少女だ。背は小さく手も小さく足だって短い。それでも背筋を伸ばし懸命に前に進みその手で何かを手繰り寄せようとしている。何かを掴み取ろうと。
逞しくどこか悲し気で、ふとノアルは訊ねた。
「お前の名前は?」
一度立ち止まった少女は、半身振り向きじーとノアルを見た後、顔を前に戻し沈黙。再び歩き出す。
二人分の足音がコツコツと響き、差しこむ月光が薄暗い廊下で二人を鮮明に刻み込む。
沈黙が続き、長い長い廊下を進み、いつしか時の流れも忘れた頃。
少女は呟いた。
「…………アリス」
「…………」
ちらりと振り返った少女と眼が合うと、すぐに目を逸らされてしまった。
けれど、少女の名を知って、だからノアルは口にする。
「アリスだな。俺が覚えといてやる」
「…………随分上から目線なんですね。少し軽蔑します」
「軽蔑なり嫌うなり勝手にしろ。お前の憂いくらい、俺が覚えといてやる」
「……バカなんですか? あなたは自分が死なないと思っているのですか? それこそ傲慢です」
なるほど。ならば言い方を変えよう。
吸い込む空気にいつかの血の味を感じ、忸怩たる無力を噛み締めながら卑屈なこの身で、けれどあの人に多くを学ばせてもらった偽りながらも聖なる身で一つ覚悟を示す。
「――俺はいつか元の世界に戻るつもりだ。大切な人に顔向けできるようになって、花を供えにいく」
「…………」
「俺の帰りを待ってくれている人はその人しかいないけど、約束する」
「約束ですか?」
「ああ。俺が見て聞いて味わった、お前たちの物語を語るってな」
「…………」
生きて帰った時、必ずこの物語を彼の世界で記憶に残すと。
それはなんとも微力な約束だった。叶うかどうか。可能性としてはゼロではないとしか言いようがない、そんな果てしない先の約束だ。
「……そもそも、帰る手段は知っているのですか?」
「さーな」
「もし帰れるとして、あなたはいつ帰るのですか?」
「さーな」
「あなたは! バカ、ですね」
「さーな」
「バカです。バカバカバカです! ババカバです」
「言い過ぎだろ」
それは小さな反抗だった。そしてとても微かな希望だった。
それでも、アリスは振り向かない。とっくにアリスの中で覚悟は決まっているからだ。
だからアリスが振り返った時、それがこの物語の終着点であり本当の始まりなのだ。
「…………」
「…………」
振り返ったアリスの背には赤い扉が一つ。先までの子どものような愛嬌はどこへ。迎え入れた時の冷徹な眼差しを再び。引かれた境界線が敵対関係を示唆させ、ノアルの背に緊張が走る。
「私は——人類を救います」
そして扉は開け放たれ、ノアルはまたしても違う場所へと転移させられた。
ルヴィアは聖女になる前から根っからの生真面目な生娘である。
その性分が功を奏して聖女に任命されたのだが、とにかくルヴィアというい少女は昔から真面目で人想いな子どもだった。困っている人がいれば一目散に駆け寄り未熟でもその手を差し伸ばした。虐められている子がいれば間に入って助けてあげたり、近隣から手伝いを頼まれれば二つ返事で了承し、お小遣いの代わりにもらえるお菓子が嬉しかった、そんな子どもだった。
当時のルヴィアに正義感などという高尚な志はなく、ただ真面目ゆえに困っている人をほっとけないだけ。善悪に固執し悪を退治するなんて思想は持ち合わせていなかったのだ。
身体が弱いながらもルヴィアを大切に育ててくれた母が大好きで、そんな母の助けになりたい。それがルヴィア・ベルギアの真面目さと優しさの根源である。
故に——
「今のは……過去の映像?」
聖女と只人の両面と向き合うことを決めたルヴィアは見せられた生物学者たちの思念に大きく頭を悩ました。
聖女のままであれば、人類存続のために個人の命を蔑ろにすることは間違っている、と言語道断したことだろう。
けれど、今のルヴィアは善悪に囚われない純粋な眼差しで人類の絶滅に対する現実に思考を馳せていた。
その意外性に、姿を露わにした少女も。
「あれれ? 理由なんて聞かないで否定すると思ってたのにー?」
と、首を傾げる。
ルヴィアは顔を上げようやくここがどんな場所でその声が誰のものか情報を得る。白い廊下はやけに薄暗く全体を灰色に染めて見せる。ずっと続く長い廊下を一筋の蒼いカーペットが進み、左窓から差し込む月光の銀色が余計に閑静に冷たく見せた。そんな廊下に佇み、後ろ手を組んで月光を受けて微笑みを向ける白銀月の長髪に紅月の瞳。齢十ほどの少女はどこか愉し気に「お姉さん」とルヴィアを呼んだ。
「子ども? あなたはここの子どもなの?」
「まーそんな感じー。あと、リリアはリリアね。ちゃんと名前で呼んでよね」
「えっと、リリアちゃん? ……でいいかな?」
「まーいいんじゃない」
名前に拘りでもあるのだろうか。それにしても少し生意気な女の子だ。これがアディルなら普通にキレてるまである。もちろん、ルヴィアも落ち着いた大人なので生意気な小娘にいちいち腹を立てたりしない。
どうやらこの教会の子どもらしい少女。どこか悪戯な雰囲気が妙であるが、転移させられた先ですぐに人と出逢えたのは幸運だろう。
「リリアちゃんお願いがあるんだけど?」
「ん? リリアにお願い?」
近づいて来るリリアの目線に合わせてルヴィアは姿勢を低くする。基本敬語の口調も子どむ向け柔らかに。
「うん。お姉ちゃん迷子になっちゃってね、この教会の出口ってわかるかな?」
あくまで自分は客人。主人を立てて物事を円滑に進める。身に沁みた処世中に、しかしリリアは愉った。
「アハハハハハハハ! お姉ちゃんってもしかしてお馬鹿さんなの?」
「え?」
突然愉われたと思えば暴論を吐かれてしまった。激しく困惑するルヴィアに蝶のようにひらひらと踊るリリアは言う。
「お姉ちゃんはパパに正体されたんだよ? ホントに迷子になっちゃったって思ってないよね?」
「それって……わざとここに転移させられたってこと?」
「あーもう。その子ども扱いも禁止! お姉ちゃんに子ども扱いされるの、なんだかムカつくから普通に話して。てかリリア子どもじゃないしー」
酷い言いようである。一度口を噤み、同時にリリアが言う本当について思考を巡らせてから口を開く。
「あなたに会うためにわたしはここに転送されたということですか?」
「子どもに敬語って気持ち悪いんだけど」
「…………」
どうしろと。この小娘、思った以上に我儘なようだ。博愛精神に溢れているルヴィアだとしても多少の苛立ちを感じずにはいられない。
そんな心境のルヴィアなどいざ知らず、「ま、敬われる感じがするからオッケーかも」などと宣っている始末。思わず凍える笑顔を張り付けてニコニコと無言を貫くルヴィアを見上げたリリアは。
「冗談に決まってるじゃん。なに怖い顔してるの。モテないよ」
「余計なお世話です」
改めて怒り顔をぷんぷんさせるルヴィア。どうにもリリアという少女を前にすると感情が強く揺さぶられ顔に出てしまう。いけないと気を引き締め直し、よしっと心意気新しくリリアに向き合う。
つまりだ。ルヴィアはこの少女リリアと対面するためにここに飛ばされたということ。それ即ちリリアもこの事件に関わっている証拠。
早急に気づくべきだった。最早、ルヴィアとリリアは敵対者として剣を構えて相手の様子を見定めている状態なのだから。
「ふふ、やっとホンキの眼になったね、お姉ちゃん。リリアが優しくなかったらお姉ちゃんなんてとっくに死んでるんだからね」
「…………」
冗談ではない。手法は問わず、ただ結果だけが紅月の瞳が物語っている。ルヴィアはリリアの気紛れで生かされた。その事実が酷く己を打ちのめす。
「それじゃあ、いこっか」
「え? どこに?」
事でも構えるのかと警戒も虚しく、リリアはサラッと背中を向けて歩いていく。何度目かの困惑に笑みを含んだ哀悼が一つ。
「もしも、死んだ人ともう一度一緒にいられるとしたら——お姉ちゃんはどうする?」
ありがとうございました。
次の更新は日曜日に予定しています。
それでは。




