第1章(2)
身体の中を走り抜ける電気について理解し、身体を構成する物質について理解し、ヒトがこの構造となるまでを理解し、将来論文を読む際に役に立つ言語についても理解が深まった頃、その実習はやって来た。
最初からヒトの身体、というわけにはいかないので、研究室で育てられた動物たちの命を頂いて、実際の生き物の身体の電気の走り方、構造の成り方について理解を深めるのだ。事前にその実習があることを覚悟したところで、直前まで何も知らずに走り回りモノを食べていたことを予想させる生温かい体温に、僕はどうしようもない罪悪感を持った。
「絶対に写真は撮らないでくださいね。」
途中で先生の言葉が聞こえたが、一応面接試験にて選抜された面々の中にそんな人間性を疑う行動をする奴が果たしているのだろうか。
――バタッ
誰かが床に倒れた音がした。実習室の前の方で一人の学生がしゃがみこんでいた。はっと室内を見渡すとその他にも男女問わず口にハンカチを当て蒼い顔で座り込んでいるヒトが数名いる。目の前の命とスケッチブックと色鉛筆に完全に意識を取られていたが、日常生活ではありえない光景と香りが至る所で広がっていた。
「佑都君は、割と解剖とか大丈夫なタイプなのだね。」
昼の学生食堂で偶然佐衣子さんと遭遇し、向かい合わせで箸を動かしていた時にそう指摘された。佐衣子さんも幸い最後まで実習を終えることが出来ていた。そして二人の昼食は焼肉定食であった。
「まあだって。あの場で僕が実習を中断したとして、協力してくれた動物の命は帰ってこないわけだから。それならありがたく学ばせて頂こうかと。」
「そうだよね。ちなみにさっき倒れてしまったヒトの何人かは、もう無理だから大学辞めると言っているらしいわよ。まあ本当か分からないけれど。基礎の授業の時から含めるともう何人目かしら。」
そう、入学式を終えてから半年しか経っていないにも関わらずすでに数人の学生が学校を離れてしまっていた。
「でもやっぱり、自分と合っていないとか、これから勉強についていけそうにないと判断したのなら、早めの方が良いしね。中には自分の意志に反してここまで来てしまった子もいるからさ。医学部さえ受かればその後の人生は好きにして良いからと言われて、ここと本当の志望校どちらも受かったにも関わらず、受かったなら医学部行けって強制されたという私の友達が居てさ。入学したのは良いけれどやっぱりやりたいことは違うからこの前辞めたって。そういう家庭ほど親も医者のことが多いけれど。子供の人生を何だと思っているのだろうね。」
佐衣子さんの話を聞いて僕は正直驚いた。決して受験料も授業料も入学金も安くない学部であるというのに。ただ地獄のようなオリエンテーションで聞いた自己紹介で、この学部への入学を渇望していたかというとそうでもないのかもしれないと思う発言をしていたヒトは、実際に僕の後ろの番号にいた。
「お疲れ様。いや、何だか倒れていたヒトもいたけれどやっとこの学部らしいことが出来て興奮したな。」
頭に思い浮かべていた当の本人が大学から少し離れた商店街にある店からテイクアウトしたであろうチキンの袋を持ってやって来た。
「俺の父親は皆も名前を知っている教授で。小さい時からその背中を眺めているうちに当たり前だけれど父親の跡継ぎになるのだろうと周囲から見られていて。実際頭も良かったしこの学部に入ることに抵抗感はなかったから、促されるままに進んでいたら今日この場に立っていました。宜しく。」
うぬぼれているのか照れ隠しなのか、終始ニヤニヤした表情で自己紹介を終えた今時風な青年の印象は中々強かった。真理央君、同級生、十九歳、現役、男子。
「いつかは動物を使った実験に抵抗が無くなってきそうで怖いね。でもずっと罪悪感を持って実習をこなしていたら、僕らの精神が持たないね。午後は組織学か。顕微鏡とのにらめっこ。またミクロな世界に逆戻り。」
「組織学の先生、スケッチのチェックが細かいよね。私今日この後自動車学校の予約を取っているのだけれど、間に合うかしら。」
「俺も今日の夜クラブに行く予定があるのに、間に合うだろうか。良かったら佑都も一緒に来ないかい? そうだ、お腹がまだ空いていたらこのチキンも召し上がれ。俺の推しの店の逸品だよ。」
するべきことはこなしながらも、青春を楽しんでいる二人にやきもちを焼きつつ、僕は求められている回答をした。
「分かった。部活動の先輩から参考にと渡されているスケッチを今から見せてやる。自動車学校の予約とか、確実に行くことが出来る日程で押さえなよ。後クラブが開くのはもっと夜が深まってからだろう、知っているからな。お誘いは嬉しいけれど僕は遠慮しておくよ。明日も朝一から講義の日でしょうが、まったくもう。」
二人共目を輝かせて、僕がテーブルの中央に置いたスケッチブックを覗き込んだ。調子の良い奴らだな、と袋に入っていた中の一番大きなチキンを齧りながら呟いた。
昼過ぎに始まった組織学の講義。顕微鏡の中に広がる、ピンクや紫の模様の世界に最初こそ感動したが、先生の単調な話とつかみどころのないスケッチの難解さも加わっていつの間にか僕も他の学生と同じように、接眼レンズを顔に当てたまま数分間船を漕ぐこととなった。