第1章(1)
地元でも有名な大学病院。コンクリートの巨大な建物がニョキニョキと生えるその地区は、空中でも地下でも入り組んでいて最早入ってみないとそこが何の役割を果たしているところなのかさえ分からない。慣れないスーツに黒い鞄を抱えた僕は、入学式当日早速複雑な迷路にはまってしまった。
どうにか警備員に発見され大学構内に足を踏み入れた。病院と併設されている施設に大人数がわらわら集まるのを防ぐためか、筆記試験会場も面接会場も別の場所で行われたので、実は大学自体を訪れるのは初めてだった。むしろ大学病院の中とは、職員関係者か患者としてしか訪れる機会など冷静に考えてもないだろう。少なくともこの場所は大学とはいっても学生の教育のための役割よりは、より多くの患者を治療する役割の方が大きいようである。というのも、校舎とされるその建物は、他の建物をいくつか通り抜けたところに存在する、息抜きがてら散歩をしていた患者が容易に入り込めそうな比較的小さな一角にあったのだ。
分かりにくいその場所に入学者全員が集まったのは集合時間より十分ほど後のことだった。大学長の有難い言葉に始まり、開始数分前に頭に詰め込んだ校歌の斉唱など、入学式は滞りなく進んだ。
何しろこの学部には幼い頃は天才と呼ばれた、経済的にも豊かな全国の人々が集まるのだ。見た目も雰囲気も、時には言葉も違う面々。皆が恐る恐るコミュニケーションを取り始めるまでかなりの時間が必要だった。僕も含めてだが、何しろ勉強一筋で来てしまった集団だ。頭に詰め込むのは得意分野であっても、生身のヒトとの意思疎通を苦手とする奴はどうやら少なくなさそうだ。
「ねえねえ、緊張しているの? 現役生? 可愛いね。」
オリエンテーションとはスーツで行くものという両親の指示に従い、早速教室の中で浮いてしまった僕に対して、やけにフリルの付いたスカートを履いたフランス人形のような容姿の女の子が話しかけて来た。
「こう見えてね、ってどう見えているか知らないけれど今年で二十一歳。二年間寄り道しているのよ。どうも、佐衣子と申します。これから宜しく、佑都君。」
鉄砲玉のように一方的に話した後、佐衣子さんは昼食に食べたサンドイッチのゴミを捨てに席を立った。
僕は知っている。この種のヒトは一見周囲になじむのが得意そうに見えて、実は沈黙を苦手とするという点で意思疎通が下手なタイプだ。佐衣子さん、同級生、二十一歳、二浪、女子。とりあえずこの情報を頭にインプットした僕は、手元にある赤飯のおむすびに齧り付いた。夢中で話を聞いていれば時間が過ぎる講義とは違い、やたらと学生たちを交流させるオリエンテーションという行事。僕は苦手だし、何の役に立つかも分からなかった。
僕が帰ってぐったりしている間にも、アルバイトを決めたり部活動を決めたりと、おそらく学力面も優れているだろう要領の良い方々は一部いらっしゃった。気疲ればかりする一週間が過ぎ、ようやく講義が始まった。
待ちに待った講義……と言いたいところではあるが実際始まった講義はとてもミクロな世界の話から始まる、高校で学んだ理科の延長線上で、それらをひたすら暗記で乗り切った僕にとっては正直に言うと難解であった。
考えてみればスタジオに体験のために来た初心者にいきなりトウシューズをあてがいチュチュを着せ音楽を流すバレエ教師はいないだろう。それと同じだ。まず初心者は何事も基礎から勉強しなくてはならないのだ。
毎週末に迫りくる小テストに三日おきには出される課題。アルバイト? 部活動? そんな青春を楽しんでいる暇はない! とは言いつつもずっと摩訶不思議なサイエンスの世界に浸るのも苦しいものがあったので一応運動系の部活動には入部した。高校の体育で少し齧ったことのある剣道だ。
しかし出席出来ても週一回という有様で、それは他の同学部の部員も同様だった。こういうのを幽霊部員と呼ぶのだろう。その中でも先輩やら後輩やらと縦の繋がりがやたら厳しかったのも煩わしかったが、勧誘に乗せられたとは言え無理矢理退部の交渉をするのも面倒であった。