卒業と桜の木
S大学理学部数学科。修士課程1年生の宮沢徹は、朝8時30分に自分の研究室に入る。季節は3月上旬であり、春らしい陽気で陽射しも眩しい。大学に植えてある桜の木もつぼみが大きくなってきてそろそろ花が咲きそうだ。
今日は9時から研究の中間発表である。
あーあ。ダメだ。
ぜんぜん、研究が進まない。
宮沢はそこでため息をつく。彼は今、研究テーマを探している途中なのだ。彼が学部4年生の時は研究室の先輩からテーマを与えらえ、そのテーマの手伝いをすれば良かった。だが修士課程では自分で研究する内容を考えなければならない。
「数学ねぇ。数学の研究が何に役立つのか。全然分からん」
そんなことを呟きながら5人の机が置いてある部屋に入る。男性2人、女性3人。理系の学部にしては女性が多い研究室である。これは教授が女性だがらというのも一つの理由かもしれない。宮沢が部屋に入ると既に他の研究室のメンバーは揃っていて黙々と今日の発表の準備をしていた。
彼も覇気、元気もなく、自分の机の前に行く。
んっ・・・・・・と、そこに封筒が置いてあるのを見つけた。
自分の机に置いてあるということは、オレ宛ての封筒なのだろう。
でもいったい、誰が?
封筒には宮沢様へと書いてあるが、差出人は”4人の魔女”と書いてあるだけだ。
周りからはクスクスと笑い声が起こる。
なるほど。キミたちの嫌がらせか。”4人の魔女”ね。粋な名前だ。
封筒を破り、中身の手紙を見た。
『宮沢徹様へ。
おはようございます。突然、手紙を送り申し訳ありません。私は以前からあなたのファンでして一度、数学に関してお話したいと思っていたのです。今日から1週間、月が見え始めた、満開の桜の木の下で返事をお待ちしております。3月14日』
ただパソコンで打たれた文字が無機質のように並んでいた。
”4人の魔女”と数学ねぇ。俺に何を挑戦するのか。
もーう、こんないたずらをするのは誰だ。
とそんな言葉を叫びたくなったが、彼は少し考えそのまま研究発表の準備をし始めた。
3月19日、18時10分。宮沢は珍しく研究室に残り、そしてある人の机の上に満開に咲いた桜の木の枝を置く。
「卒業おめでとうございます。犯人はあなたですね」
修士課程2年、木下桜は微笑し、「ありがとう。あなたらしいわ」と顔をほころばせた。
「私だとわかったのは嬉しいわ。でも理由を説明して」
木下は宮沢が置いた桜の枝を研究室の花瓶に入れながら不思議そうに聞いた。宮沢が自分にたどり着くのがよほど意外だったのだろう。
「どうやってオレがこの問題を解いたか気になる様子ですね。わかりました。でも・・・・・・、私は最初からあなただと疑っていたのです」
「えっ・・・・・・。どういうこと?」
「オレは数学の問題を考えるとき、まず、予想を立てる癖があるんです。たとえば恐らくこの公式、数式が成り立つのではないかというふうに。今回も犯人は恐らく、木下さんだと予想して考えたのです」
宮沢がそれを言った瞬間、彼女は黙ってしまった。
「予想を立ててしまえば、あとは論理的に証明していく。手紙にはまず時間帯が書いていない。だが、”月が見え始めた時”と書いてある。だから月の出の時間帯を考えました。次に今日から1週間と書いてある。今日とはいつか?これを定義する必要がある。普通に考えたら文末に3月14日と書いてあるのだからここから1週間と考えました。木下さんの卒業式が3月21日だ。となると・・・・・・」
「1週間後とは書いていないから、1週間は待っている人、でもそれ以上は待てない。つまり卒業する人と考えたのね。でも、今日は3月19日よ。私が1週間ずっと待っているとは思わないでしょう。今日を選んだのは特別な理由があったんじゃないの」
木下は掛けているメガネを取り、タオルでそれを拭きながら聞く。彼女からは何やら香水のいい匂いがする。恐らく・・・・・・、木下もこの日を待っていたのだ、宮沢が気づくかもしれないと思って。
「ええ。手紙には”満開”という言葉がありました。だからオレは桜が満開になる日、今日を選んだのです」
宮沢の答えは鋭い。ただ・・・・・・、木下は”自分の気持ちを気づいてくれたら嬉しい”と思いながら、最後の疑問を聞いた。
「なるほど。・・・・・・でも私は場所を桜の木の下で、という条件を出したわ。なぜ、研究室に桜の木の枝を持ってきたの」
「オレは、最初からあなただと思っていました。だから桜の木の下という言葉は、場所をあらわしていないと思ったのです。そして時間、日にちがもう分かっていれば、ただその日、その時間帯、その犯人を監視していればいい」
宮沢はそういうと、木下に振り向きにっこりと笑う。
「それにね、この大学からこの時間帯、”桜の木の下からは月が見える場所”はありませんよ」と言い、「木下さん、卒業おめでとうございます」ともう一度、祝福した。