懐古録
海に石を投げた。冬の海は暗く、いびきのように静かな波音をたてている。それは決して今日が曇りだからではないはず。それを証明したい青年はもう一度海に石を投げた。しかしその答えは返ってこない。諦めて波打ち際のスレスレを歩き始める。マフラー越しでも外気の冷たさは伝わる。夕方の凪でも黒い塩水は冷気をはらんでいた。
今日はねぇ。彼は独り呟く。今日はたまたまこういう気分だった。いつもは学校の体育館裏で帰宅部の連中とバスケをやっている時間帯だ。雰囲気は嫌いじゃない。部活に所属していなくても、しなくていい理由を自分たちが見つけたという言い訳できることもいい。その時間は勉強もしなくていい。たまたま今日はバスケをしたくないのだろうか。確かにバスケを好きでやっているわけではない。しかしそれがここにいる理由なのだろうか? いつものメンツと喧嘩したから? それも違う。確かに昼休みに好きなアイドルをからかわれた。お返しにあいつが片思いしている女子の事をからかうと殴り合いになった。おかげで口の中が少し痛い。それはあいつが悪いし、殴り返して鼻血を出しているところを見たら清々してお互い謝った。それでおしまいのはずだ。
巨大な水溜りに沿って砂の道を進む。細かい粒に埋もれて足取りは重い。隣を見ると猫がついてきている。彼は見ないふりをして歩き続ける。猫は嫌いだ。こちらを睨みつけてくるし、どこからともなく現れる。その上、尻尾を振って駆け寄る犬と違ってふてぶてしい態度も取る。彼は疲れと冬の寒さを感じて乾いた流木に腰掛ける。ついてきた猫もそれに倣う。地平線には老いさらばえた太陽がその身を横たえようとしていた。弱いが人の目には眩しいその光を浴びてぼんやりとする。視界の左端に手を伸ばすと、その毛並みを撫でることを許してくれた。長い毛並みと柔らかい温もりが彼の手の平を迎え入れてくれる。猫も案外悪くないかもしれない。喉を掻いてあげながら、やはり今日はいつもと違う。彼は再び思案に暮れる。しかし不思議と嫌な感じはしなかった。喧嘩した相手と顔を合わせることが気まずかっただけだ。お互いに謝ったとはいえ、やはり殴り合ったやつと数分後に平然と話などできない。帰り道から遠回りして海岸に来たのも喧嘩したから気まずい、それだけだ。猫の頭を撫でてやる。目を細めて耳を寝かせている様子を見ると、目の前の海が穏やかな理由もわかる気がした。
過去を懐かしんでいるんだ。彼は喧嘩する前の友達を。猫は毛並みを撫でてくれた見知らぬ人を。そして太陽は、海は暑い夏を。
明日はもう一度あいつに謝ろう。あいつは寝て忘れるかもしれないけど。彼はゆっくり立ち上がり、決心した。夜はすぐそこに迫っていた。
短時間でもうちょっと長く書けるようになりたい……(切実)