苦い思い出
この世はとても残酷で、容赦のない世界だと思う。昨日の裁判のようなホームルーム以降、クラスの皆の僕に対する態度は一変した。朝。学校に登校して、クラスの友達に挨拶をしたが、余所余所しく「あっ、おはよう」と言ったきり、僕に目を合わせようとはしなかった。誰も彼もが、僕に関わることに慎重になっている。クラスの皆のそうした気持ちは理解できなくはないけれど、ちょっと辛い。いつも通りに本荘先生の授業を受けて、授業の合間の休憩時間になると、僕は一人で本を読んで過ごした。
♪キーンコーンカーンコーン
午前中の授業が終わり、給食の時間になった。エプロンを付けた給食当番がクラスの皆の為に給仕を始める。僕たちは、順番に並んで給食を取りに行く。今日の献立は、イワシの揚げたやつだ。僕は、積み上げられたトレイを手に取る。その上に銀色に光るアルマイトの食器に盛り付けられたイワシと、コッペパンと、マーマレードのジャムと、プロセスチーズと、三角パックの牛乳と、先割れスプーンを載せて自分の席に戻る。ちょっと前までは、牛乳と言えばキャップの付いた瓶だったんだけれど、五年生になってから三角パックに替えられた。そういえば、牛乳キャップをたくさん集めて、皆と遊んでいたことを思い出す。小川の牛乳キャップの収集癖は物凄くて、給食室にある集められたゴミの中を漁ってまで集めていたし、通常よりも大きなキャップも持っていた。「それ、何のキャップ?」て質問したら、ヨーグルトのキャップだと教えてくれた。僕はそのキャップが欲しくて、母親にそのヨーグルトを買って欲しいと、駄々を捏ねたこともあった。
牛乳パックにストローを指して、少し牛乳を飲む。美味しい。今度は、先割れスプーンを手に取って、イワシの揚げたやつを食べようとする。スプーンの先で刺してみたけれど、イワシが歪に崩れてしまった。仕方なく、イワシを半分に千切ってスプーンですくって食べる。その時、小川が給食を食べながら、クラスの皆に向かって叫んだ。
「このチーズ見てみ。これ、小林や」
僕は、小川が何を言っているのかが分からない。僕は、自分のトレイに乗っているプロセスチーズを手に取ってみる。学校の給食の為に用意されたそのプロセスチーズは、銀紙の包装紙に包まれていてその上に動物の写真が印刷されたシールが貼ってある。僕のチーズには、ペンギンの写真があしらわれていて、下の方に「ペンギン」と印字されていた。僕は、何をどう捻ったら僕になるのかがよく分からない。すると、小川の奴が、わざわざ僕の所にやって来た。今日一日、人と絡んでいなかったので、ちょっと嬉しい気がする。
「なあ、部長、これ見てみ」
小川の奴は、チーズを僕に見せつけてニヤニヤと笑っている。僕は、小川が差し出すそのチーズを見てみた。白い鳥の写真が印刷されていて下の方に「こさぎ」と印字されていた。
「子供の詐欺師で、こさぎ。なあ、小林のことやろ」
僕は、唖然として口を開けた。小川はそのことを言うために、僕のところまでやって来たんだ。僕は、小川から視線を外して、教室を見回すと、皆が僕と小川のやり取りに注目している。ニヤニヤと笑っている友達もいた。僕は、とても不機嫌になる。小川を無視して、給食を食べることに専念する。でも、自分が何を食べているのか、味がよく分からなかった。
次の日も、その次の日も、クラスの皆と僕の間には、見えない壁のようなものが立ちふさがり続けた。僕の声が届かない。皆の声が聞こえない。僕は、孤独っていうのは、周りに誰もいなくて、一人っきりのことが孤独だと思っていたけれど、それだけじゃないんだと知った。孤独っていうのは、人と気持ちの交流が出来ない事もそうなんだと、初めて知った。
でも、孤独だけなら、僕は我慢が出来る。だって、本を読んでいればいいんだから。でも、クラスの皆の行動は、段々とエスカレートしていく。本読みクラブは解散したのに、僕のあだ名は「部長」になってしまった。誰もが僕のことを「部長」と呼んで馬鹿にする。まるでバイキンのように僕のことを責め立てる。本読みクラブだった皆も同じようなものだ。いや、それ以上かもしれない。小川なんか、問題の元凶を作ったくせに、全ては僕が悪かったかのように、僕をからかう。
だんだんと、学校に行くことが辛くなってきた。朝、学校に行く時間になると、決まってお腹が痛くなる。母親にそのことを訴えたけれど、僕の額に手をかざし熱がないことを確認すると、「学校に行きなさい」と僕を追い出す。仕方がないので、僕は学校に向かって、トボトボと歩き出す。
毎日の孤独な学校生活を過ごしていたある日のこと、僕は良いことを思いついた。学校の帰りに秘密基地に行こうと思った。暫く足を運んでいなかったので、思い出すだけでとても懐かしい気がする。授業を受けている間、僕はその事ばかりを考えていた。
♪キーンコーンカーンコーン
終わりの挨拶を済ませると、僕はランドセルを背負って一目散に秘密基地に向かった。正門を抜けて、コンクリートで出来た四階建ての社宅の前に僕は立つ。人が入れないように有刺鉄線に囲まれているけれど、僕はその破れている所から中に忍び込む。敷地に入ると、相変わらず服や玩具だとかが散乱していて、この廃墟の不気味さは変わらない。でも、その不気味さが、なんだか今は心地良い。僕は、その社宅を迂回して、裏庭に向かって歩みを進める。貴子お姉さんがデッサンで座っていた所に桜の木が寂しげに立っていた。あの頃は緑色の葉っぱが数えきれないくらい生い茂っていて、地面に影を落としていたのに、今は、裸になってしまってとても寒そうだ。
僕は、そんな桜の木を横目に、忘れ去られた朽ちたバスに乗り込む。古い型のそのバスには、色んなものが運び込まれている。小川が買い続けている少年ジャンプが、何冊も何冊も積み上げられているし、貴子お姉さんが太田にプレゼントした妖怪博士の本も置かれたままになっている。「太田の奴、大事にしろよ」と、僕は呟く。
貴子お姉さんといえば、ジョージがお姉さんを描き続けたクロッキー帳がここにあるし、未完の貴子お姉さんの肖像画も置いたままになっている。僕は、倒れるようにして、バスの座席に身を投げ出した。天井が見える。このまま時間が止まってしまえば良いのにと思った。目を瞑る。眼がしらに貴子お姉さんとの思い出が蘇る。自転車男がお姉さんの胸を触って驚いた事、お姉さんの部屋に初めて上がらせてもらって緊張した事、窓越しに手紙を交換し合って嬉しかった事、テニス大会でお姉さんが喜んでくれた事泣いてしまった事、川添まつりでお姉さんを迎えに行くとクスクスと笑ってくれた事。思い出の数々が、僕の胸をギュッと締め付ける。お姉さんに会いたい。お姉さんの声が聞きたい。
その時、バスの外に人の気配がした。僕は耳を澄ませる。太田と小川がやって来た。僕は、寝転んでいた体を起こして、身構える。バスの中に最初に入って来たのは、太田だった。太田は、僕を見つける。
「部長、なんでここにいるねん」
僕は、怯えたように太田を見つめる。
「えっ、」
僕は、それ以上言葉が続かない。
「出ていってくれるか。ここは、俺たちの秘密基地や。部長は、もう関係ないねん」
僕は、黙ったままコクリと頷く。狭いバスの中、太田の横をすり抜けてバスを出ようとする。すると、太田が後ろから僕を押した。僕は、バランスを崩して倒れそうになり、右手で座席の背もたれに掴まり体を支える。僕は、唇を噛む。怖くて太田の顔を見ることが出来ない。僕は、振り返ることなくバスを降りると、そこに小川がいた。小川は、そんな僕を見て笑っている。僕はそんな小川から視線を外して下を向いてしまう。秘密基地になんて、来るんじゃなかった。後悔の念が、僕の中に広がる。その場を去ろうとトボトボと歩き出すと、驚いたことに、太田と小川が僕の後から付いてきた。何故なんだろう。僕は、少し怖くなる。
「部長、可哀そうやから、許したってもええで」
小川が、僕に向かって声をかけた。僕は立ち止まる。小川の奴、何を言っているんだろう。
「ほら、そこに、犬のウンチがあるやろ」
僕は、有刺鉄線の近くに黒く伸びた物体を確認する。
「アラレちゃんしてみてや」
僕は、どういう意味なのか理解が出来ない」
「ほら、棒にウンチを刺して遊んでる奴やん」
僕は、それで許してくれるんやと思う。近くに木の枝がないのかキョロキョロと首を回す。
「何してるの、部長。自分の指で刺すんやで」
僕は、言葉が出ない。何だか、うまく思考も出来ない。
「ほら、やってみ。許したるから」
僕は、小川の顔を見る。ニヤニヤと笑っている。太田の顔を見る。値踏みするように、僕を睨んでいる。僕は、膝を折って、その黒い物体を凝視した。乾いていて、ひび割れていて、大地に返ろうとしていた。僕は、ゆっくりと人差し指を伸ばす。グニュリと柔らかい感触がした。
「わっ、ホンマに触った」
小川はそう言うと、笑わずに驚きの顔を見せた。太田は、苦虫を嚙みつぶしたような顔をして、口を開く。
「小川、帰ろうぜ」
そう、ひとこと言うと、小川を連れて有刺鉄線の破れ目から表に出て行った。僕は、目を細めて二人の後姿を見送った。




