亀裂
運動会が終わってから、平日が過ぎていき土曜日になった。今日は午前中で授業が終わる。朝、家を出て、僕はいつものように通学路を歩いて学校に向かう。学校の向かいには壊れた工場が建ったままになっている。窓が壊れていて、不気味な様子はいつも変わらない。そんな工場を見上げながら、今度は丁字路の真ん中を見てみる。夏休みの初めに肝試しをした時には、ここに、子猫が車に轢かれて死んでいた。皆と子猫を埋葬したことは懐かしい思い出だけれども、思い出すと何だか寂しい気持ちになる。僕は、その現場から早く離れたい気持ちになった。ランドセルの肩ひもを両手でギュッと握ると、学校に向かって走り出す。小学校の正門を息を切らせて駆け抜けて、下駄箱室に入ると、小川と一緒に上履きに履き替えている太田を見かけた。太田は、小川と楽しそうにじゃれ合っている、僕は右手を上げて、二人に挨拶をしようとした。
「おは、、、」
喉元まで声が出るのに、二人に挨拶が出来ない。二人は、僕に気が付かないまま階段に向かって歩いて行く。あの時以来、僕は思うように太田に声をかけることが出来ずにいる。上履きに履き替えると、太田に追いつかないように歩くスピードを調整して、僕は階段を登っていく。なんで、どうして、今までは、こんなはずじゃなかったのに。教室に入り自分の席に着くと、伊藤 学が僕の席にやって来た。僕は笑顔を作って、座ったまま伊藤を見上げる。
「部長、これ読んだから、今度は部長が読んでよ」
そう言って、伊藤は、僕に本を差し出した。僕はその本を受け取って表紙を見る。伊藤の誕生日に、本読みクラブの皆でプレゼントした灰色の巨人だ。
「ありがとう。どうだった」
「面白かったよ」
伊藤はそう言うと、何か気になるものがあったのか、顔を横に向ける。伊藤に釣られるようにして僕も顔を横に向けると、視線の先に太田がいた。伊藤は太田に手を振る。太田は、伊藤に応えつつ、僕が振り向くと、慌てて向こうを向いてしまった。僕は小さなため息をつくと、困ったような顔をして伊藤の顔を見る。伊藤は少し声を落として僕に話しかける。
「あの一件以来、なんか難しくなっちゃったね。部長と太田」
「うん、僕もどうしていいのか困っている。太田は僕の為に動いてくれたことだし、その気持ちが分かっているから尚更、」
僕は、伊藤を見る。伊藤は、クリッとした目で僕を見ている。自己主張をしない奴だけれど、伊藤はとっても素直で信頼がおける。僕は何となく、そんな伊藤に愚痴ぽいことを零してしまう。
「あの時、太田と木村の喧嘩を止めなければ良かったのかなって、思ったりする。そうしたら、太田が怒ることもなかったのかなって」
伊藤は、僕をじっと見ている。
「でも、喧嘩はして欲しくなかったし、あの時は止めさせなきゃって思ったんだ。でも、こんなことになるなんて思ってもみなかったし、正直、どうすればいいのか、全然分からない」
伊藤が、口を開く。
「僕に、いいアイデアがあるんだけれど」
僕は、目を開いて伊藤の顔を見る。
「今度、小川の誕生日が来るんだ。また、プレゼントってどう?」
「えっ、いつ」
「来週の十月十六日」
「そうか、」
僕は、考える。悪くはない。ただ、前回の高橋哲也の反応が、記憶の隅でちらつく。プレゼントを通じて、太田と話をすることは出来るけれど、高橋も納得させないといけない。そんなことを考えていると、伊藤が、また口を開く。
「良かったら、僕が太田にそれとなく、言ってみるよ」
伊藤のその言葉は、すごく助かると思った。太田はその気になれば動き出す男だ。僕は、新しい変化に期待して、伊藤の顔を見る。
「じゃ、お願いできるかな」
伊藤は、ニコリと笑って僕の席を離れると、早速、太田の所に行った。
♪キーンコーンカーンコーン
チャイムが鳴ったけれど、伊藤は太田と話し込んでいる。教室に本荘先生が入って来たので、クラスの皆は自分の席に戻っていく。伊藤も、太田と話を終えたみたいで、自分の席に戻っていく。そんな様子を自分の席から見ていたら、太田と目が合った。太田は、僕を見ると右の口角を上げてニヒルに笑う。喜んでいるのか良く分からない笑顔だった。ただ、太田と目が合ったことで、僕は少し安心する。僕は、太田に笑顔を見せる。太田は、そんな僕の反応を確認した後、前を向いて本荘先生を見る。僕も、前を向いて授業を受け始めた。
♪キーンコーンカーンコーン
一時間目の授業が終わると、太田の方から僕に会いに来た。僕は、何だか緊張する。
「部長、伊藤から話は聞いたで」
「ああ、そうやねん。伊藤から小川の誕生日が来週って聞いたから」
「誕生日プレゼント、ええやんか。小川の奴、喜ぶわ」
太田が楽しそうに話すので、僕は少し安心した。太田は、さらに話を続ける。
「プレゼントの内容については、今回は俺が考える。俺に任せてや」
「ああ、いいよ。じゃ、プレゼント代を用意しておく。他の皆はどうしようか」
「あ、それも、俺がやっとく。今回は、部長はゆっくりとしてたらええ」
何だか、太田は僕のことを少し気遣ってくれているような気がする。
「ありがとう。じゃ、お願いする」
僕が、そう言うと、太田は右手を上げて、自分の席に戻っていった。短い休憩時間が終わると、また授業が始まった。僕は、伊藤が貸してくれた灰色の巨人を触る。色々とあったけれど、何とか動き出せたようで、正直、ホッとした。その日一日は、休憩時間になると、伊藤から借りた灰色の巨人を読んだ。本を読むって凄いと思う。その世界の主人公になって、一緒に物語を楽しむことが出来る。僕は、ドキドキしながらページを捲った。
「起立、礼」
本荘先生に向かって、クラスの皆がお辞儀をする。
「さようなら」
今日の学校での授業が終わった。僕は挨拶を終えると、ランドセルを背負い、左腕のギプスと三角巾で出来た空間に、伊藤が貸してくれた灰色の巨人を大切に忍び込ませる。家に帰ったら、また、ゆっくりと読もう。そう思うだけで、帰るのが楽しみになる。その時、教室の入り口で、太田が高橋を捕まえて話をするのが見えた。太田は、小川へのプレゼントの件について、加藤祐子と坂口直美からは午前中に了解を取り付けていたみたいで、僕も本を読みながら、そのことは確認していた。残りの本読みクラブのメンバーは、高橋哲也だけになっている。僕は、ちょっと心配になり、二人の成り行きを見ていた。
「なあ、お願いや。小川の為に」
太田が、高橋にプレゼントの件をお願いしている。
「今回は、いやや」
「なんでや」
「だって、あれは塾で一緒だった坂口へのプレゼントだったから。それに、何回も何回も、プレゼントに協力するつもりはなかったし」
「お前も、本読みクラブの一員やで」
太田の一言に、高橋は口を噤んで下を向いてしまう。
「なあ、お願いや」
太田は、なるべく優しい声を出して、高橋の肩を掴む。すると、高橋が口を開いた。
「それやったら、俺、本読みクラブをやめる」
そう言って、高橋は自分のカバンを掴むと、教室から走って出ていった。太田は、そんな高橋が出ていった教室の入り口を見て、舌打ちをする。僕は、その一連の様子を、ただ、見ているしかなかった。それらの様子を僕と同じように見ていた小川は、太田の所に駆け寄る。
「無理せんでいいで。俺の為に」
太田は不満そうにしている。そんな太田の機嫌を取るように、小川は新しい話題を振る。
「今日は駄菓子屋でこっそりジャンプが買えるから、一緒に行こうや。キン肉マンが読めるで」
太田は、小川に促されるようにして帰っていった。僕は、新しい問題が起きてしまったことに、心が塞ぐ。貴子お姉さんが僕にくれた怪人二十面相の本は、僕を冒険の世界へを誘ってくれた。怪人二十面相が仕掛ける様々な問題に、小林少年や明智小五郎が立ち向かい痛快に解いて行く。その活躍を、僕はいつもワクワクしながら読んだ。でも、いま僕自身に降りかかってくる、これらの問題は、どのようにして解いていけば良いのだろう。僕には分からない。解きたくないといって、本を閉じることも出来ない。僕が主人公だから。僕は家に帰ると、逃げるようにして灰色の巨人を読み続けた。




