自転車男
「ところで、ヒロ君、さっきの自転車男を見た?」
西村お姉さんは、怒った口調で僕に質問をする。僕はずっと窓から表通りを見ていたけれど、あの自転車の男は家の前の道路を合計三回も通り過ぎていた。とっても目立つ赤色のサイクリングの自転車に乗っていて、一回目は格好いい自転車に乗っているなと思って見ていた。二回目は同じ自転車がまたやって来ただけでなく、一回目と同じ右側から現れたので、僕はこの近所をグルグルと回っているんだと思って見ていた。ところが、三回目は西村お姉さんの胸を触ったもんだから、ビックリしてしまった。
「うん、見た」
「どんな奴だったか、分かる?」
「えっ、どんな奴って、赤い自転車に乗ってた」
「顔は?」
お姉さんは更に僕に質問を繰り返す。
「顔、顔って言っても、大きなお兄ちゃんだった」
「お兄ちゃんじゃ分からないでしょ」
僕は自分が怒られているように感じて泣きそうな顔をする。西村お姉さんは、僕が怯えていることを感じたようで、少し僕から離れる。腕を組んで目を瞑る。
「ヒロ君、お菓子をあげるから、ちょっと家に来てよ」
そう言うと、僕の左手を掴んで、僕の返事も聞かずに、お姉さんは自分の家に連れて行こうとする。僕は抵抗することが出来なくて、そのままお姉さんの後を着いていった。玄関に入ると、何か僕の家とは違う匂いがする。家にはお父さんもお母さんもいないようだった。
「私の部屋は二階だから付いてきて」
そう言うと、靴を脱いだお姉さんは一人階段を上がっていく。僕も仕方なく二階に上がっていくのだが、初めての家だし何か不安な気持ちにさせられる。お姉さんの部屋に入ると、
「ちょっと、そこに座ってて。お菓子を取ってくるから」
そう言うと、お姉さんは慌ただしく下りて行った。
僕は部屋の真ん中に座った。先ほど、お姉さんが僕に顔を寄せてきたときに良い匂いがすると思ったが、この部屋はその匂いがもっと強く充満していた。少し酔ってしまいそうだ。部屋の中を見回すと、折り畳み式の勉強机があり、机の上には難しそうな教科書が積んである。ぬいぐるみとか女の子らしい物は全然見当たらなくて、テニスラケットとそれに関係するバッグ以外は、本棚に沢山の本が並んでいた。
「ヒロ君、ジュースも飲むでしょ」
そう言って階段を上がってきたお姉さんは、お盆にオレンジジュースとバームクーヘンを載せていた。僕の前に座ると、お姉さんはジュースが入ったコップを僕に手渡す。お姉さんは自分もコップを手にすると、一気にゴクゴクと飲んで「フー」と大きな吐息を漏らした。僕もコップに口をつけてオレンジジュースを飲む。甘酸っぱい。
「さっきはごめんね。きつく言っちゃって。私ね許せないの、自転車男が」
そう言って、お姉さんは真剣な顔で僕を見る。
「それでね、ヒロ君に協力してほしいの」
「協力?」
「そう、そんなに難しいことじゃないわ。まずは、あの自転車男の特徴を、ひろ君が憶えていることでいいから、私に教えてほしいの。お願い」
僕は、天井に視線を向けると、先ほど起こった出来事を頭の中に思い浮かべる。
「えっと、自転車は赤いサイクリング自転車だった」
「そうね、赤かったわ。確か、何回か走ってきたよね」
「うん、三回だと思う。お姉さんを触ったのを入れて三回」
「触った話はいいのよ」
お姉さんは、少し口を尖らせる。
「でも、よく見ていたわ、ヒロ君。ところでね、ここからが重要なんだけど、どんな男だったか分かる。なるべく教えてほしいの」
僕はかなり返答に困ってしまう。どんな男。なんて答えようか。
「服は灰色か白色、大きいお兄ちゃんだったけど中学生か高校生か分からない」
「もう一回、会ったら分かるかな」
「たぶん、分かると思う」
「それは上出来よ。実はね、あまり言いたくないんだけど、最近、私のものが無くなることが多いの。大したものじゃないけど、この前は家に停めてあった自転車のキーホルダーが無くなったの。それに、」
そう言って、お姉さんは少し顔を赤らめた。
「とにかく、私は許せないの。もし、何か気が付いたことがあったら、私に教えてほしいの」
「分かった、西村お姉ちゃんに言ったらいいんだね」
「ありがとう、私のことは貴子でいいわ」
「貴子お姉ちゃん」
「そう、それと、お礼にこの本をあげる」
貴子お姉さんは僕に一冊の本を渡した。表紙には怪人二十面相と書かれてあった。
「私はもう読んだからいいの。面白いのよ。その本の中に小林少年が出てきて活躍するんだけれど、ヒロ君も小林だし、一緒じゃない。その本を読んだら、きっと私に協力したくなるわよ」
僕はその本をよく見てみた。作者は江戸川乱歩と書いてある。そういえば、貴子お姉さんの本棚には、江戸川乱歩の本が沢山並んでいた。