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その手をはらうもの

作者: 獺太朗

 市内から国道を下り方面へ三十分ほど走った山の中に、『出る』と噂の廃病院がある。僕らは家で酒盛りをした勢いそのまま、そこへとタクシーで向かった。

 道中、須崎がそこであったという怪談話を続けている。

「そこの廃病院の遺体安置室? そこで普通は出るって思うじゃん。でも、違うんだよなぁ。地下じゃないらしいんだ。階段を上って二階に行く。そこで、出る、らしいんだよ。それに病院って言っているけど、病院じゃないんだわ」

「病院じゃない?」

 タクシーの後部座席で窮屈な思いをしながら、僕は須崎に尋ねた。

「そう。病院じゃなくて、なんだ、ほら、あの、難しい病気の人を隔離する」

「サナトリウムか?」

 助手席から、笹田が俺たち二人を振り返る。須崎は「そうそう」と頷いた。須崎の目の焦点がいまいち合っていない。たぶん、わかってはいないが、同意しただけだろう。

 酒臭い俺たちに対して、タクシーの運転手は無反応だ。行き先を告げたときも「はい」と言っただけだった。深夜一時半。もうまともな客は期待できないと諦めているのだろうか。

「須崎のやつ、ひどく酔っ払っているな」

 笹田が俺の目を見ていった。そうやって俺を見つめる笹田の表情を、僕も観察する。部屋では真っ赤だった顔が、いつの間にやら肌色に戻っている。

「そういうお前は割と醒めてるな」

「抜けやすいんだ」

 無愛想にそう言って、笹田はまた前を向いた。

 そうか、と僕はつぶやいて、隣の須崎の顔を見る。こいつはだめだ。そもそも肝試しを言い出したのはこいつのくせに、このまま今にも吐くか寝るかをしそうな勢いだ。

 どちらかというと、笹田は肝試しには乗り気ではなく、ほっといたら須崎のやつが一人で行きかねないから仕方なくついていく、そんな感じだった。僕はその二人の間くらい。乗り気ではないわけではないが、自分一人だったら絶対に行かない。

「あの病院だったら、こっから行ったらいいよ」

 今まで一言も喋らなかった運転手が唐突にそう言って、ハザードランプを炊いて車を停めた。

「あ、そうですか」

 笹田が、不意を突かれたせいなのか、やけに気の抜けた声で言った。運転手は、窓を開けて、山肌の道を指さす。確かに、ここを真っ直ぐ上っていけば、たどり着けそうだ。須崎の言っていた場所に本当にあるならば、の話だが。

「金は俺が立て替えとく」

 笹田の言葉に甘えて、僕は須崎を抱えるようにして車から降りた。

「着いたぞ」

「あ……おー、ここだ、ここだ」

 嘘をつけ、と僕はあきれかえった。行ったことがない、と前置きをして怪談をしていたくせに。

「結構、ここで降りる人多いんですか?」

 降り際、笹田が運転手に尋ねた。

 確かに、考えてみればおかしな話だ。こんな何もないところを、しかも男三人に深夜に目的地に指定されたら、タクシー強盗を疑うだろう。そうでなくても、ろくでもないことには違いない。乗車拒否をされなかったことの方が不思議だ。

「割とありますよ。ここ」

 運転手は無愛想に言った。本当に表情の変化に乏しい男だった。頬の筋肉の力が人よりも弱いんじゃないだろうかと疑ってしまうくらいだった。

「携帯は通じないので、携帯が通じるところまで移動してから、帰りのタクシーは呼んでください」

 僕と笹田は顔を見合わせた。そして、笹田は「ありがとうございます」と声を掛けると、ドアを閉める。テールランプが尾を引くようにして、車は暗闇の向こう側へと消えていった。灯りのなくなった道は、どっかりと闇が圧しかかってくるようだ。

「懐中電灯、一人一つな」

 笹田が俺たちに懐中電灯を手渡す。小型のLEDライト、昔ながらの電球を使ったもの、そして押し入れの奥から引っ張り出してきたなんに使ったのかよくわからないペンライト。家を出るときはそう思わなかったが、この場所に来てしまった後では、なんとも心許ない装備だった。

「月が出ているから、なんとかなるだろう」

 開き直った様子で笹田は言う。こういうときの笹田の落ち着きは頼もしい。

「行くぞ、おい」

 須崎の背中を叩き、僕たちは山道を登り始めた。



 幽霊よりも、蛇や蚊の方が怖い。そんな道だった。僕たちは足下に注意しながら、くらい山道を登る。距離は数百メートル程度しかない。歩き始めて五分ほどで、道の向こうに、目的の建物が見えてきた。

「あれだろうな、たぶん」

 笹田がつぶやく。さっきから須崎は黙ったままだ。寝そうになっているのか、吐きそうになっているのか。

「……どうするんだよ?」

「とりあえず、中に入らないと肝試しとは言えねえだろ」

 須崎は普段の調子でしゃべったのだろうが、無意識に小声になっていた僕にはその声はやけに大きく響いた。

「あまり大きな声を出すなよ」

「そうか?」

 両手をぷらぷらと振って、須崎はいまいちわかっていない様子だった。

「じゃあ、行こうぜ、一夏の思い出作りに」

 へらへらと笑いながら、須崎は俺たちの先頭に躍り出た。脳天気だ。あまりにも。

「もう帰ってもいいんじゃないか?」

 呆れ半分に、僕は笹田に同意を求めた。

「ここまで来て帰るのも、もうあまり意味がないな」

 ため息交じりに笹田は言う。僕は今まで歩いてきた道を振り返った。確かにここを一人で戻る気はしない。

「じゃあ、行くぜ」

 いつの間にやら先に廃病院の玄関にたどり着いていた須崎が俺たちを振り返り、声を掛ける。ガラスのドアは破られていて、油断すると足を切りそうだ。

「足下、しっかり照らして入れよ」

「わかってるよ」

 暗闇の中に消える須崎の背中を追って、僕たち二人も廃病院の中へと足を踏み入れた。



「なんで、こんな辺鄙なところに病院を建てたんだろうな」

「隔離病棟だからだろ」

 僕の質問に笹田は淡々と答える。病院の中は、こう言っては何だが、予想以上に落ち着いている印象だった。とても静かだ。もっと重苦しい空気があるのかと思ったが、そうでもないらしい。

「須崎はどこへ行った?」

 足下を照らし慎重に進みながら笹田が言う。散らかってはいるが、歩けないほどではない。時折、何かの破片を蹴り飛ばしながら、前へと進む。

「あいつ、酔っ払った勢いのまま先に行きやがったな」

 僕がライトで照らす先に、須崎の姿はない。病院の間取りはよくわからない。中に入ってみて、なんとなく細長い構造であるということだけはわかる。外から見た感じ、一階建てではなさそうだ。たぶん、二階もある。

「病院なら、一階が診察室とかで、二階が病室かな?」

 僕の言葉を肯定するように笹田のライトの光が揺れた。

「階段だな」

 ぼそりと笹田がつぶやく。ライトで照らした先、廊下の横に二階へと続く階段があった。奥の暗がりにも、まだ先は続いている。

「どうする?」

 僕は笹田に尋ねた。二択だ。先に行った須崎は、上へ行ったのか、それとも奥へ行ったのか。

「大声を出してみるとか?」

 さらに僕は笹田に提案する。しかし、笹田は「やめておこう」と言った。

「変な奴らと鉢合わせする羽目になったら面倒だ。須崎を見つけたら、とっとと帰ろう」

 そう言って、笹田の照らす先には、近所の暴走族が書いたようなスプレーの落書きがあった。参上!、と間違った字で書いてある頭の悪そうな字だ。

「やっぱり、たまり場になってんだな」

 僕はため息をついた。幽霊なんかより、生きている人間の方がよっぽどやっかいそうだ。

「早く探すなら、二手に分かれた方がいいな」

 笹田が提案する。

「はぐれたりしないか?」

「そんなに大きくない建物だから大丈夫だろう。とっとと須崎を捕まえて戻ろう」

 僕は頷いた。暗闇の中で、それが笹田に見えているかはわからないが。

「俺が二階に行くから、おまえはそのまま奥へ行ってくれ」

 そう言って、笹田が廊下の奥を照らす。僕は再び頷いた。

「わかった」

 笹田は二階、僕は一階。笹田は僕の背中をぽん、とたたくと、二階への階段を上っていった。笹田の姿が見えなくなるまで見送ってから、僕は奥へと歩き出す。恐怖心よりも、須崎の軽率さに対する腹立たしさの方が大きかった。



 処置室、診察室、浴室――古さを感じさせる手書きの表示を通り過ぎながら、奥へと進む。病院は迷路ではない。おかげで簡単に奥まで進むことが出来た。一番奥の部屋、そこから細い光が漏れている。ふらふらと動くそれは、人の手にあることは明らかだった。問題は、その手が須崎のものか、それとも他のろくでもないやつのものか、ということだったが――

「お。おーす」

 僕が中を覗くかどうか決断する前に、そいつは部屋から出てきた。

「お前、先に行くなよ」

 呆れながら僕は言った。

「あー。悪い悪い。なんかこう、テンションあがって」

 こちらの気も知らず、須崎はへらへらと笑う。手元にバケツがあったら、水をぶっかけてやりたいところだ。

「もういい。とっとと帰るぞ」

「ほい、了解」

 僕の声が怒気をはらんでいたからか、須崎は素直に従った。あとは真っ直ぐに戻って、二階にいる笹田に声を掛ければいい。

「……笹田は?」

 ここでようやく須崎は僕一人だけということに気がついたらしい。

「お前がどっちに行ったかわからなかったから、二手に分かれた。笹田は二階を探している。早く声を掛けてやろう」

「二階、まじで」

 須崎の声色に違和感を覚えた。そこまでしたのか、とか、迷惑をかけたな、とかそんな感じではない。言うなれば、怯えのような。

「やべえよ」

 笹田はそう言って、僕の肩を揺らした。

「ここ、二階がやべえんだよ」

 そしてもう一度繰り返す。喉の奥に絡まった痰を吐き出すように。

「やばいって、どういことだよ」

「一階はなんともないんだ。なんかあるなら、二階なんだよ」

「だから、どういうことだよ!」

「俺が聞いたなんかあった話っていうのは、全部二階で起きてんだよ!」

 須崎は僕の肩を掴み叫んだ。僕の肩に指が食い込む。

「なんだよ、それ……」

「一階だけ、一階だけなら大丈夫だって話だったんだよ。だから、てっきりお前らも俺の後を付いてきていると思ったんだ」

 今にも泣きそうな須崎の声。だがしかし、須崎の話が本当なら、こんなところで時間を浪費している場合ではない。

「呼びに行こう。まだ、お前を探しているはずだ」

 足の重い須崎を引きずるようにして、僕は道を戻る。先ほどまで何とも思っていなかったはずの道が、不気味なものに思え始めた。物陰に、何かがいて、僕たちを見つめている――それは錯覚だと何度も自分に言い聞かせる。

 笹田が上った階段までやってきた。辺りをライトで照らす。須崎を見つけられなかった笹田が降りてきているかも、と希望を持っていたが、それは潰えた。玄関まで照らしてみたが、そこに笹田の姿はない。

「くそ」

 僕は喉の奥から声を出す。覚悟を決める必要がある。幽霊なんていない。そんなものは適当な嘘だ。ちょうどいい廃墟があったから、そんな噂が出ただけだ。須崎はどうしようもない馬鹿だから、そんな噂話を信じてしまっている。僕は馬鹿じゃない。

「行くぞ」

「え、まじ」

「誰のせいだと思ってんだよ!」

「……わかったよ。でも、先に行ってくれよ」

 情けない須崎の声に、僕はため息しか出なかった。

「わかったよ」

 そう言って、階段を上る。

 早く駆け上がってしまいたい。ゆっくりとできる限り気配を消して進んでいきたい――相反する二つの感情の中で宙ぶらりんだ。

 なんとか階段を上りきった。ライトで行く先を照らしながら、慎重に歩みを進める。

 僕たちはもう二階にいる。

「笹田ー! 須崎は一階にいた! 帰るぞ!」

 僕は大声で叫んだ。この廃病院の大きさなら、これくらいの声で叫べばどこにいても聞こえるはずだ。しかし、返事はない。

「笹田ー!」

 もう一度叫ぶ。暗闇が細いライトの光を押しつぶすようだ。

「もう二階にはいないんじゃないか?」

 震える声で須崎は言う。しかし、その可能性はないだろう。すでに外へ出て待っているのだろうか? 笹田はそんな無責任なやつじゃない。

「そうだ、携帯」

 そこまで言って、僕は失敗に気がついた。携帯の電波は入らない――あのタクシーの運転手はそう言っていたのだ。実際、ポケットから取り出した携帯電話のディスプレイには圏外の文字が浮かんでいた。

「行こう」

 僕は意を決して言う。

「行くのかよ!」

 須崎の悲鳴。しかし、そんなものを意に介するわけにはいかない。須崎の馬鹿ならまだしも、笹田は巻き込まれたのだ。そもそもこいつが勝手に馬鹿なことをしなければ、こんなことにはならなかった。

「お、おい! おい!」

 引き留めようとする須崎の手を振り切って、二階の中へと歩みを進める。二階にあるのは病室だけのようだった。

「一つ一つ見て行く」

 病室は五部屋程度か? 奥は暗くてよくわからない。

 真っ直ぐに一番近くの部屋に向かい、入り口から中を照らす。

「笹田ー!」

 返事はない。当たり前だ。笹田がいるのなら、ライトの光が見えるはずだろう。

 隣の部屋に行こう。

「先先行くなよ!」

 須崎が僕の後ろから叫ぶ。

「そもそも、お前が先に行っていたせいだろうが」

「一階は大丈夫だったんだよ!」

「知るか、聞いてない!」

「後で驚かせようと思ったんだよ!」

「知るか!」

 大声でやりとりをしながら進む。

「笹田はいねえよ! 人の気配がしないじゃん!」

 須崎がそう叫んだときだった。須崎の声の向こう側に、誰かが囁いているような声が聞こえた気がした。

「……須崎」

「なんだよ」

 須崎が不機嫌そうな言葉と共に俺に近づいてくる。足下のゴミでも踏みつけたのか、ガサリと音がした。たぶん、人の声みたいに聞こえたのはこの音だ。

「とっとと全部の部屋を見る。それでいなければ外へ出る。それでいいな? お前にも責任はあるんだからな」

「……わかった」

 渋々、といった様子で須崎は頷いた。おそらくは、このまま一人で出口まで行くことと、俺と一緒にいること、その二つを天秤に掛けた結果だろう。本当にいい加減なやつだ。普段なら、このこだわりのなさは、つきあいやすさと感じられるのだが、今はいらだちしか感じない。

 僕は須崎を振り払うように前へと進んでいく。隣の部屋、ライトで照らし呼びかける。反応はない。次の部屋も、その次の部屋も。

 一番奥まで進んできた。ここが最後の部屋だ。ここに笹田がいなければ、考えにくいが、笹田は先に外へ出たことになる。

 中をライトで照らす。やはり人の気配はない。

「笹田-!」

 大声で呼びかける。やはり返事はない。

 ということは、笹田は二階にはいないということなのだろうか。もう、建物の外に出ているのだろうか。それなら、それでいい。僕たちも外へ出るだけだ。

 僕は深く息をする。やっと外へ出られる、笹田は見つかっていないのに、そんな安堵を感じてしまっていた。

「戻るぞ、須崎」

 僕はそのときの須崎の表情を忘れることは出来ないだろう。驚愕と恐怖にゆがんだその表情は、僕たちのやって来た廊下の先を見ていた。

 須崎は悲鳴を上げた。そして、僕のいる病室へと駆け込んでくる。ベッドのない病室。床に転がっているのは、廃材のような木材だけ。須崎は、そのうちの一本を掴み、それを激しく振り回した。

「おい!」

 須崎のむちゃくちゃに振り回される木材から距離をとり、僕は須崎に叫ぶように声を掛けた。しかし、須崎の耳には届いていない。

「あー! あー! あー!」

 うなり声とも悲鳴ともつかない声を上げながら、須崎はひたすらに木材を振り回し続ける。

「お前、落ち着け、馬鹿野郎!」

 部屋の隅に待避しながら、僕は再び須崎に向かって叫んだ。しかし、やはり僕の声は届かない。だんだんと須崎の様子がおかしくなってきている。目を大きく見開き、口からはよだれを垂らしている。叫ぶたびに口から泡のようなものが飛ぶ。

 何をやっているんだ、ばかやろう! 僕は心の中で叫びながら、須崎を取り押さえようと機会を窺った。そのときだった。須崎の向こう、病室の入り口に何かが見えた。いや、正確には何かの気配を感じていた。

 暗闇。何もないはずのそこに、何かがいる。ぼんやりと、何かが。

 目を背けたい。けど、視線は外せない。僕は須崎が目の前で暴れているのを忘れているかのように、ただ、その暗闇だけを見つめていた。

 暗闇の中に流れるものがある。黒いもの。黒くて細長いもの。それが、髪であることに気づくのにそう時間はかからなかった。

 髪――どういうことだ? 笹田か? しかし、笹田の髪は短い。あれは人の肩につくくらいはある。そして――なんで地面すれすれの下の場所にいる?

 ぼんやりとそいつが形を取っていく。髪の下に目のようなものが見え始める。目か? あれは目なのか? 形はそうだ。真ん中は黒目だ。しかし、なんで、なんでそこ以外が真っ赤なんだ。

 その血走った目は、僕を見つめていた。呼吸が一瞬止まってしまった僕は、その上へと視線を外す。同じような、髪がそこにあった。そしてその下にはきっと同じような目も。

 胃袋を直接掴まれているようだ。吐き気が激しくこみ上げてきた。目の前で角材を振り回す須崎に対して、もっと激しく振り回せ! とすら思った。こいつらを全員追い払え、と。

 しかし、気配は濃厚になるばかりだ。この部屋を包む気配はなんだ? 怒りや憎しみ? 違う、もっとどす黒く、もっと純粋になってしまった何か。

 須崎の振り回す角材が僕の太ももに当たった。その痛みで、僕は飲み込まれそうになっていた正気を取り戻した。

――逃げ出すんだ

 部屋の入り口は問題外だ。ならば、外へ出る方法は一つしかない。

 ここは二階だ。しかし、そんなことはどうでもいい。外へ、外へ出なければ!

 真っ直ぐに僕は窓へ向かって走る。同じように暴れた人間がいたのだろうか、窓ガラスは全て破れていた。

 僕は全力で外へと飛び出す。二階から落ちることに恐怖はなかった。ただ、ここから抜け出すこと、それしか考えていなかった。



 勢いを付けて飛び出した僕は木に当たり、そのまま木の肌に引きずられるように地面に落ちた。顔や腕が切れる感触がしたが、痛みは感じなかった。両足がまともに動くかも確認することなく僕は走り出す。この場所から離れること、それ以外何も考えていない。考えられない。ずっと背筋が泡立っている。一歩でも立ち止まったら発狂しそうだ。来るときは慎重に歩いていたはずの道を一気に駆け下りる。蛇を踏もうが何を踏もうがしったことではない。とにかく、内蔵をかき回されて、頭が爆発しそうなこの状況から逃げ出したい。

 道路に出た。タクシーの運転手が、電波の通じるところに出てタクシーを呼べ、と行っていたことを思い出す。しかし、とてもそんなことは出来る気がしなかった。立ち止まったら、捕まる。あの赤い目に捕まる。今も、その縁の暗闇にいるかもしれない。薄めで、限界まで視界を閉じて僕は走る。どちらの方向へ走っているのか。どちらでもかまわない。あそこから離れられるなら、どちらでも。

 脚が引きちぎれるかと思ったが、それでも走るのはやめられなかった。酸欠で頭がくらくらする。肺がつぶれそうだ。胃袋の中からこみ上げてくるものを必死に抑える。立ち止まって吐いていたら、捕まる。

 山道の道路を無我夢中で走る。視線の先に、鳥居が見えた。思い出した。神社だ。ここには神社があった。

 そうなればもはややることは一つだった。あいつらも、神社には入ってこれない。この鳥居をくぐり抜けて境内まで行けば!

 僕は石段を一気に駆け上がる。途中で一度躓いた。すねを激しく打った。着いた両手に砂利がめり込む。しかし痛がっている暇はない。這いつくばるように、階段を上る。

 手水場まで何とか倒れるようにたどり着き、両肘を地面に付けて、僕は呼吸を整える。

 ここまで来れば大丈夫だ。ここは、あいつらの領域ではない。

 空が少し明るくなり始めていた。真夏だ。午前六時までには空は明るくなる。僕は顔を見せ始めた太陽に安心しきっていた。

 ゆっくりと立ち上がり、おぼつかない足取りで神殿へと向かう。根拠はないが、その方がより安全な気がした。

 賽銭箱の隣に座り込み、からからに疲れ果てた体を休める。肺も喉も、もうぼろぼろだった。

 考えることなど何もなかった。ただ、助かった。それだけを感じている。

「君」

 心臓が止まるかと思った。背後から声を掛けられた。僕は慌てて振り返る。そこにいたのは、Tシャツに短パン姿の中年男性だった。

「あ、ごめん。怪しいものではないよ。ここの宮司です」

 その人はそう挨拶をした。そして、神社の脇にある建物を指さす。灯りの付いた家。どうやら、自分はそこに住んでいる、と伝えたいようだった。

「すみません」

 なぜか僕は反射的に謝った。

「君、厄介なのついてるね」

 しかし、宮司は僕の言葉に答えはせず、そう言った。淡々とした、世間話でもするかのような声で。

「霊感、というほどのものはないけど、わかるのよ。そういうの。なんとなく。曲がりなりにも神職だしね」

 そして宮司は深くため息をついた。

「あそこの病院に行ったね?」

 その言葉に、僕は首が落ちるように頷いた。

「あそこには本当によくないのがいるんだ。たまに、こうしてあそこからここにやってくる人もいる」

 僕はタクシーの運転手の態度を思い出した。やけにここで人を降ろすことに慣れているような、あの態度。

「お祓いとか、あの」

 意識するよりも先に言葉が出ていた。そうだ。助けを求めて、僕はこの場所にやって来たのだ。

 しかし、宮司は特に表情の変化も見せず、首を横に振った。

「手に負えない」

「手に負えない、って」

「たいしたことのないやつならなんとかなったかもしれない。でも、あそこにいるのは厄介だ」

「厄介?」

 その言葉に宮司は頷く。

「あそこにいるのはあそこで亡くなった方々だと、そう思っているでしょ? でも、それは半分間違い。昔から、あの辺りには厄介なやつがいて、その人達の霊魂はそいつに使役されている状態なんだ」

「……どういう?」

「土地が安いから、ってあそこに病院が建てられたんだけど、さっきも言ったように場所が悪かった。囚われてしまった」

「その、悪いもののせいで?」

 宮司は頷いた。

「あそこ、特にあそこの二階は本当に危険な場所なんだよ」

 その無責任に聞こえた言葉に怒りが湧いた。

「だったら、あそこを立ち入り禁止か何かにして、もっと厳重にしてくれればよかったじゃないですか!」

 僕の怒鳴り声を、宮司は無表情に受け流した。

「入れないようにすると逆に入ってくるんだよ、君たちみたいなのが。それでもう、そういうのはやめた。馬鹿馬鹿しいからね」

「じゃあ、もっと人が入らないように注意を喚起するとか!」

「している。我々の誰も、あそこは入っていい場所だ、なんて言っていないだろう?」

 返す言葉を無くした。確かにその通りだった。僕たちも、入っては行けない場所だと知っていたから、入ってしまったわけなのだから。

「……どうすればいいんですか?」

「どうしようもない。縁が薄い事を祈るしかない」

「友人二人を残してきたんです」

「探しに行くのは無理だ」

「でも!」

 僕は反論しようと顔を上げた。しかし、宮司は僕を淡々と諭すだけだ。

「君、煮えたぎっているお湯の入った釜の中に誰かが落ちたとして、そこに潜って助けに行け、なんて言えるかい?」

 返す言葉がない。そして、信じたくない現実を突きつけられる。あいつらを置いてきてしまった場所は、煮えたぎる湯の中のようなものなのだ。

「うまくあの辺で見つかればいいけど、混乱して山の中をめちゃくちゃに走られていたら厄介だな」

 見つかればいい――何が? とは尋ねられなかった。

「……じゃあ、僕はどうしたらいいですか?」

「とにかく縁を薄めることだ。一度持ってしまった縁は切れない」

「縁を薄める?」

「距離を置く。心理的にも物理的にも。そうすれば」

「そうすれば?」

「時間は少し長くなるかもしれない」

 なんて突き放すような言い方をするんだ、この人は!

「だったら、何とかしてください! あなたは神職なんですよね! もっと、なんとかすべきじゃないんですか!」

 宮司の無表情は変わらない。彼の顔は石で出来ているのではないか、とすら思った。

「私には手に負えない、と言ったはず。だから、あなたとの縁を深めるようなことは出来ないし、しない」

「出来ないし、しないって」

「悪く思ってくれてかまわない。私はあなたに一切同情はしない」

「同情はしない……じゃあ、せめてこれからどうしたらいいか教えてください」

 宮司は立ち上がり、鳥居の方を指さした。その毅然とした態度に、僕は少しの希望を見いだした。その指さす方向にいけば、縋れる希望があるのかもしれない。

 その指の先、朝日が昇る場所に、僕は希望を見いだそうとする。助かるんだ、そんな安堵があった。

「早くこの神社から出て行ってください」

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