「後悔について、未来について」
私がいつも考えていることは、どれも身の丈に合わないことばかりで。現実に目を向けると大して凄くもない平凡な自分に嫌気が差す。人の問題を解決したいなんて思って空を仰いでも。巨大な壁を見上げているうちに時は過ぎていく。人はいつまでも生きているのが当たり前だと思っているけれど、今日もどこかで死んでいく人達がいる。何事もなく平和な、穏やかな時間が流れていくと思いこんでいるけれど、その平和も何がきっかけで崩れるかわからない。何よりも現実に存在する壁に圧倒されてしまって、閉塞感を抱いてしまっている。
曲がりなりにもこの21年、大きな病気も大きな不幸事にも見舞われることなくやってこれたが、今回はどうもうまくいかない。順当にいかないことがこんなにも不安で怖いことであると初めて知った。この怖さも漠然としたものなのだが、あえていうならレールが途切れている怖さとも言えようか。周囲の人達の流れから一人取り残される恐ろしさとも言えるかも知れない。今までの人生、辛いことはあったものの、乗り越えられないことはなかったし、大きな壁に阻まれてこれ以上先に進めないということも経験したことがなかった。己の頑張りが足りなかったと言えばそれまでだが、それでも微妙な気持ちなのである。それなりに順当に進んでいた人生の流れが、ここで足踏みしてしまう事態になった。もともと人より優れているともいえなかった。ごまかしごまかしここまで生きてきたが、人生というものは甘くない。目の前に突きつけられて初めて、私は私の能力がそれほどでもないことを認めざるをえなくなった。屈辱、といっても身から出た錆なので、怒りはない。あるのは、ふがいなさと溜息のみである。もっと頭の良い人間に生まれたかった。そうすればこんな壁にぶち当たることなく、社会で活躍できただろうに。なんて全ては自分が悪いのである。ここまで生きてきて、私は私がどのような人間であるかはある程度分っているつもりだし、そうであることを願う。いくら頭の回転が悪くても私は生きていかないといけないのだ。両親の将来の世話もしないといけないし、もうすぐ私は叔父になる。
石につまずいて倒れても、私は倒れたままでいることは許されない。立ち上がって、進んでいかなければならない。死んでしまったら楽になるのか、なんて私には考える資格もない。残された者のことを考えると、私はいくら辛くてもその方法を採ることはできないし、とれない。なら、倒れても立ち上がるという選択肢しか私には残されてないのだ。これまでの人生、正直辛かった。けれど私は今ここにいる。だから、私はこれからも生きていけるとかすかな希望を抱いている。壁を呆然と見上げるしかない私でも、生きていれば、いつかきっとその壁を乗り越えて、先へ進むことができるかもしれない。無念にも死んでいった人達の叶えられなかったことを叶えてあげられるかもしれない。他人が通り抜けていく門ですら、私はスムーズに越えることができない。はっきり言って、私は自分が賢いとは思わない。賢いとは思わないが、私は一人の人間として考える頭を持っている。考える頭を持っている以上、不思議に思うことがこの世の中にはたくさんある。例えば、なぜ貧富が生じるのか。なぜ国家は戦争をするのか。人々の幸福を最大限にし、不平等を最小限にする国家構築は不可能なのか、等たくさんある。
私は大学で経済学を専攻している。思い知らされるのは、私がいかに頭が足りないかということ。そして、いかに学問というものが広がりを持ち、深さを持っているかということだ。経済学において一番大切なのは、聞いた人全員が同じ答えに行き着くこと。だから経済学の言語は数学になってくる。数学は文化的背景、どんな生い立ち、思考、信条を持っているかに関係なく、説明を受けた人に1つの解とそれに至るプロセスを理解させる。解と解までの一連のプロセスに口を挟む余地はない。示された数理モデルに反論するには、こちらも数理モデルを用いて対抗するしかない。そこまでしなくても数理モデルを理解するためには数学が必要だ。つまり何が言いたいのかというと、経済学を理解するためには数学が必要なのである。国語の出る幕は、あんまりない。試験には、特に。
私は、経済学を学んで良かったと思う。世の中には経済学を現実とあまりにもかけ離れた学問で学ぶに値しない、という声もある。私は、その人達の気持ちが分らないこともない。だが、違うのだ。経済学は社会科学に属する。つまり、経済学とは科学の一種なのである。科学とは突き詰めて言うと、分からないことを分かるようにすること。そしてそれを人の為に役立てることだと私は思う。つまり経済学も、この社会(=経済)というものをわからないまま放っておくのではなく、起こっていることを何とか試行錯誤して説明できるように数学的手法を用いて体系化する。それを人々の集合である国家の政策の道標として役に立てる。私は、こういうことだと思っている。遊びではなく、真剣だ。
私を嫌と言うほど悩ませる数式の羅列がそれを示している。実際、私は数学が大の苦手だ。センターで国語を九割五分以上取った私の能力は、この学部の試験では全く役に立たない。私にできることはと言えば、教えられた数式を必死に反復練習し、足りない頭でその数式の意味を考え理解し、上手くいくよう神に祈ることぐらいだ。それももう破綻を来している。私は経済学、しいては大学を恨まない。自宅から通うことができる、ということで最終的にこの大学を選んだのは私だからだ。留年を覚悟すれば転学部することもできた。だが、私はそれをしなかった。数学が苦手でこれが私の足を引っ張るであろうことも、私はわかっていた。だが、私はその影に怯えるばかりで直視しようとしなかった。
私は、私が見たくないものを直視する必要がある。正々堂々、私はそれに挑もうと思う。逃げるのはやめだ。怯えるのも、もうやめにする。私に乗り越えられなかった壁なんて今思えば一度もなかった。私は、私の人生とその巡り合わせと目の前に立ちふさがった困難に感謝する。応援してくれる家族がいることは、私にとって一番勇気になっている。まだ頑張れる気がするから、頑張ろうと思う。信じてくれる家族の為にも、何よりも自分の為にも。私は先が見たい、先を見るためにこの壁を越えたいと思う。私は弱いし、頭も足りないけれど、自分の弱さを理由に諦めたくない。壁の先の未来は、きっと胸を張って生きられると思うから。
自分を鼓舞するためのものです...。頑張ろうって思える内はまだ頑張れる気がします。ちょっと疲れたので寝ますね。おやすみなさい。