この希望にも絶望にも似たなにか
#深夜のN分小説執筆 2018/2/17開催分 参加作 使用テーマ: 「不思議な機械」「曇り空」「テセウスの船」
3Dディスプレイにそれが表示されていく。それの3次元投影が表示されていく。
* * * *
私は思っていた。コネクトームは充分なのかと。それは所詮脳、あるいは脳細胞という基盤を前提としたものだ。人間の知性は脳や脳細胞を基盤としなければならないものなのか。
人工知能においても、人間の脳を模した構造が結局のところ用いられている。それほどまでに、脳や脳細胞は知性に対して絶対的なものなのか。
違う。
decades前に、私は叫んだ。
私はmemectome† の概念および処理の概念の構築に時間を費やした。
a decade前に私は脳の活動マップを捉えるデバイスの埋め込みを受けた。それにより、私の最初のmemectomeを記録した。
以後、週に一回、自身のmemectomeの記録を取り続けた。
* * * *
今、すべての記録の差分が投影されている。差分の3次元投影が表示されている。私は a decade前と同じ私だろうか。
投影されているそれは、違うと言っている。
だが、私は思う。その総体が私なのだと。
では、とも思う。記録されているmemectomeは私だろうか。明らかに、それは私の総体以上のものに思えた。
ならば、私とはなんなのか。私とは誰なのか。ただ、私と思っているだけなのか。私と思い続けている、そのことによってのみ、私なのか。
ならば、記録されているmemectomeは決して私ではない。それらのmemectomeは動かない。思うこともない。
ならば、ならば、ならば…… memectomeが駆動したら…… それはなんなのか。それは誰なのか。なにかになり得るのか。誰かになり得るのか。
私は私のmemectomeを記録したことを知っている。memectomeは、私によって記録されたことを知っている。知っているはずだ。それとも、そう推論するだろう。
私とこのmemectomeの違いはただそこだけなのだろうか。
そうであって欲しいとも思う。それは、知性は脳や脳細胞に絶対的に従うものではないことを示すからだ。
そうではないとも思う。それは、記録が残る限り、そして駆動される可能性がある限り、私は存在し続ける、あるいは潜在的に存在し続けることでもあるからだ。だが、私の唯一性は失われる。
この感情をなんと呼べばいいのだろう。希望にも似て、絶望にも似ていた。
3Dディスプレイの向こうにある窓には、その感情にも似た雲が広がっていた。
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† memectome: ミメクトーム。ミームあるいは先天的および後天的概念、および概念処理の機能の全結合。