忘れてしまったあの日
ボロいギターを引っ提げて、スタジオを後にしようと思ったのに、何回か同じライブで一緒にしたバンドがスタジオで練習してたらしく、外の扉前で引き留められた。
「今日も練習か? 大学、平日なのに無いのか?」
「あぁ──さぼったんですよねぇ」
「大学なんてもんは、さぼってナンボさ。俺らみたいなつまらない社会人になっちまったら、出来ないことよ」
煙草に火をつけたその人は俺にも一本くれた。あまり知らない銘柄だったけど、歳はうんと先輩で断る理由も無かったから、俺も持ってたライターで火を点けた。
「何か、たまに何もしたくなくなる時があるんですよねぇ。何というか俺、大学で何しに来たんだろうって思うんです」
この人たちが大学を出ているのかは知らない。けれども、俺よりも一歩早く社会人になっているこの人たちは、どんな時間を経て社会に出たのだろう。
「俺もそういう時期あったなぁ。果たして、ちゃんと社会に出られるかどうか、そのために俺は今何をしようとしているのか。どうしようもなく自信が無くなってしまう時があったよ」
「そうなんですねぇ……」
スタジオの外の風景はいつもと変わらない。近くに田舎ならではの駐車場が広いコンビニがある。いつも同じ老人がコインランドリーのベンチで新聞を読んでいる。定期的に押しボタン式の歩行者信号機が青に変わって、人が横断している。そして、俺はこうやってギターを抱えて煙草を吸っている。何か大きな困難があるわけでもないし、このまま生活していれば平和な毎日が過ごせると思った。だけど、段々とよく分からない不安に心をすり潰されてしまっている。一体何故だろう。
「前会ったときに聞きそびれてたんだけど松本のギター、年季入ってるよなぁ。いつからギターやってんの?」
俺のギターケースを指さして「社会の先輩」は言った。俺は後ろに置いていたケースを前に持ってきてじっと見る。
「いつからでしったけ……。よく、覚えてないんですけど、結構小さい頃からやってたと思います」
「そうなのか。そりゃ相当前からやってんなぁ。どうにて上手い訳だ!」
「いえいえ。僕みたいなレベルじゃ、まだまだですよ」
俺は小さい頃の記憶がほとんどない。厳密にいうならば、中学生だった頃の記憶から、綺麗に無い。良く覚えてないがある日の朝、自分の名前が分からない上に、中学生だった事も、友達が誰だったかも分からなくなってしまっていた。あの時目覚めた場所も、良く覚えていない。
だけど、不思議なことにギターの弾き方だけは覚えていた。家のどこにギターを置いていたかも覚えていた。ギターというものだけが、俺の昔の記憶にある。他は一体どこに行ってしまったのだろう。
「で、今度はいつライブするの?」
意識が内側に向かっていた瞬間、隣から声がした。一気に現実に戻された感じがして、昔の記憶を辿って、一種の懐古の情が残像として残り、失せようとしていた。
「今度は、一週間後ですかねぇ。俺以外のメンバーが日程が合うのが、そこだけなんで」
「来週となると──あぁ、たっちゃんが主催してるライブか。俺らも出るから、その時は対バンよろしくな」
「こちらこそよろしくお願いします」
俺は握手を交わした。煙草が燃え尽きたと同時にその人たちは帰っていった。会社に戻るらしい。一人灰になっていく煙草を持ったまま残された俺は、火を消してコンビニへと向かった。