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―某所―

挿絵(By みてみん)


「博多港からですか?」


 背後から問い掛かけた黒い覆面の男は右手で釣竿を提げて腰掛ける港の住人から一枚の紙を寄越された。


 見る所、便箋のようだ。覆面の男は文面をなぞって見た。


「音も無く、覆面も取らず、背後から不躾に、か。随分とデカい態度だ」


「閣下は困った方ですね。私に礼節を求める事は不毛です、とお教えしたではありませんか」


 覆面の男はそう言いながら、実に愉快そうな声色だった。釣竿の男は相変わらず当たりの来ない水面を見詰めている。釣竿の男は肩に軍用コートを掛け、頭には制帽がある。


「せめて、挨拶ぐらいは君達でも出来るだろう? 日共では挨拶しちゃいかんルールだったかな? 記憶に無いが」


「閣下は命知らずだ。皮肉を述べれば、舌を切り落とされるのが道理だと教えたではないですか」


 覆面の男はそう言いつつ、少し笑い出していた。釣竿の男は相変わらず、水面に視線を落としている。


「間も無く、停戦の使者が宇喜多殿の所に来る。博多はまだこれを知らない。東京は知っているようだが」


「おや、それは重畳ちょうじょう。戦争は無いに越した事は無いですから」


「そうだな」


 釣竿の男は軋む古竿の曲りを見ながらそう答えた。


「停戦の使者は、教会のお嬢さんですか」


「ああ、須崎すざき優和ゆうなという女司祭。聞き覚えがあるか?」


「いいえ。ただ」


 釣竿の男は覆面の男の答えが一間止まったのにも関心が無いように、水面を見詰めている。


「そういえば、紅衛兵達に反革命主義者として〈罰〉を受けた家族の1人がどこかの教会に勤めているとか聞いた事がありますね。風の噂ですけどね」


 ケラケラ、そんな笑い声で覆面の男は述べていた。釣竿の男は今尚釣竿を弄ぶでもなく、ただ竿を握っている。


「それに関わったのは紅衛兵だけか?」


「ええ、恐らく。ああ、いや違うかな。野次馬からの飛び入り参加は居たでしょう」


 覆面の男は布超しに分かる破顔でそう述べた。顔こそ愉快そうにして、口振りは淡々としつつ、それでいて声色に嗜虐と悦楽を漏らす男は


「少なくとも、我が部隊ではそういう事が無い筈ですのでご安心を」


「なぜ、そう言える?」


「はい。我が兵達は皆同性愛者ですから」


「そうか」


 釣竿の男は抑揚も無く返した。


 暫し、間が空いた。水面には揺らいだ月があり、釣竿はそこに餌を下ろしている。一向に当たりの来ない竿を男は忌々しそうに見詰めた。覆面の男は切り出した。


「しかし、これで終わると良いですね、戦争」


「上手く行けばな」


 釣竿の男は遂に諦め、竿を水面から外した。リールから餌を外そうとするが中々手際が悪い。覆面の男は笑っていた。


ほつれがあれば幾らでも壊れてしまう事ですからね」


「そうだ。だから、手は尽くさねばならない。大宰府と小倉、その二回がチャンスだ」


「灯台下暗し。そういう事にならない様、気を付けねばなりませんね」


「だからこそ、こちらは全力で仕掛けて注意を引く必要がある」


「やれやれ、また海を渡るのか」


 覆面の男はわざとらしく嘆息する素振りを見せたが、釣針からふやけた餌を漸く外せた男はそれに構う事なく、


「頼んだぞ」


 と言って、左手で覆面の男の肩を軽く叩いた。


「葡萄月大隊、お前達が紅衛兵共とは違うと証明する、良い機会だ」


 そう言って去って行く男は去って行った。それを振り返りもせず、覆面の男は水面に移る月への感慨に耽っていた。


 男は釣をしていた所へと腰を下ろし、水面へ岸壁より足を向けた。


「ご安心を。我らは一度として戦場に悔いなど残しませんでした」


 覆面の男はそう言うと再びケラケラと笑い、覆面を外して顔を露わにした。


 月光はその肌を照らす。光が透いて通るのではと思うほどの白皙はくせき、そして黒い瞳。男は実に穏やかな顔で水面の月を見た。


「波の下の都は、きっとこれを月だと思うんだろうな。羨ましいよ、全く」


 男はそう言うと、空を見上げて目を細めた。月には雲がかかっている。


「穢れた空に浮かんだ月は、実に不快だもの。世の縮図そのものだ」


 明日は雨が降る。水面の月は暫し見納めだ。男はすぐに目を下ろし、この日二度と空を見上げなかった。


挿絵(By みてみん)


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