続きが浮かばなかったので没にした原稿の冒頭部分
タンスから女性の上半身が飛び出した。
一番下の抽斗がガバッと開いて、それこそ猫型ロボットのように飛び出してきた。
真っ白な髪をした彼女は、こちらを認めるとこう叫んだ。
「な、なんなのじゃこれは!」
「こっちの台詞だよ!」
俺はたまらずパソコンの前からタンスのそばまで移動すると、彼女に蹴りを一発お見舞いした。
「や、やりおったな」
「俺に当たられたって分かるものも分からねぇよ。こっちだって言いたいことは軽く一ダースは有るんだ。お前が何かしたからこうなってんじゃねぇのか」
彼女の頭をぐりぐりと踏みつける。
彼女も売られた喧嘩を買ったようで腕を振り回してこちらに殴りかかってきたが、頭を押さえられた状態ではリーチの短い手を俺に届かせることは叶わず、ただ空を泳ぐばかりだった。
なんだこいつ、ちょっと可愛いじゃないか。
「ほら、落ち着けよ」
「ええい、我を見くびるでない!」
流石にやりすぎたか、と思ったときには時既に遅し。彼女は俺の軸足を掴み、その細腕からは信じがたい剛力で俺をタンスの中へと引っ張り込んだ。
ほとんど全体重を彼女にかけていたからどうしようもない。為す術無く俺はタンスの中へとランデブーすることとなった。
「痛たた。やりすぎたか」
「今更謝っても許さぬぞ?」
完全に彼女にしてやられた。完敗だ。
諸手を挙げて降参の意を示そうと思い目を開くと、挙げた手を支えきれないほど体から力が抜けてしまった。これは拍子抜けによるものではない。むしろ逆だ。
この場所はテレビの中に広がっているような洞窟で、傍らに置かれた焚き火だけが辺りを照らして薄暗い。道路工事の音が響きわたっている年度末の日本とは大違いの静謐な空間だ。
そして、俺の目の前で勝ち誇って笑う彼女の下半身は、人間ではなく蛇のものだった。
これはあれだ。最近アニメ化の波が押し寄せてきている異世界転生とかいうやつだ。まだ死んでないが。いや、すぐ死ぬか。
「オーケー。事情はなんとなく分かった。俺すんげー無謀なことしてたわ」
勝てる気がしない。俺が部屋でやったことを彼女の長い体でやり返されて終わる。
俺は土下座をした。それはもう地面の土を額にくっつけるぐらいに。
「この状況について話すからそれで見逃してくれ。このとおり、もう反抗しない。もし納得できなかったら木の下に埋めてもらっても構わない」
「ふむ」
彼女の瞳孔が開いた。これは死なないにしてもアカンやつだと肌で感じる。
「殊勝な心がけじゃのう。話してみろ」
俺はかいつまんで話した。
俺は彼女のような存在を生まれてこの方見たことも聞いたこともないこと、そもそも彼女の出てきた場所には雑貨と板が存在していたはずであること、ここと向こうは異世界で、本来行き来できるようなものじゃない可能性が高いこと。
彼女は信じようとしなかったが、ポケットに入れたままだったスマホを見せるとなんとか納得してくれたようだった。スマホは盗られた。
「なんじゃ、我がやっても何も変わらないではないか」
「爪じゃ無理だし傷つくから止めてくれ。指を寝かせて、腹でこう」
「ほう」
俺の秘蔵ファイルを見られやしないか不安ではあるが、俺に彼女を止める手段はない。もうどうにでもなれというものだ。
「ところで、じゃがな」
「なんだ?」
「これは何と書いてあるのだ?」
「読めないなら返せよ」
俺がそう言うが早いかスマホが腹に突き刺さった。綺麗な弾道だった。
彼女の方を見れば、実に良い笑顔をしていた。
「ヌシのことは片腕を折りたいぐらいに感じておるが、これで手打ちじゃ。我の方も軽率であった」
「ああ、それはどうも」
SAN値はごっそり持って行かれたが、肉体的な被害は軽微で済んだ。そうと決まればとっとと帰りたい。そして抽斗を釘で打ち付けるか粗大ゴミに出すかして、今日のことはとっとと忘れるに限る。いっそフリーマーケットに出そうか。ちょうど引っ越しシーズンだし良い値段で売れてくれるだろう。
「帰って良いんだよな?」
「それとこれとは話が別じゃ。少し、我の話を聞いてくれぬか?」
なんとなく答えは予想できるが、一応訊いておく。
「いいえと言ったら?」
「捕まえて聞かせる」
予想より外角低めのストレート。もっと殺戮上等な頭を狙ったデッドボールが来ると予想していたのだが、かなり穏便である。その要件というのはどうしても俺に聞かせたいものらしい。
それだけ困っているというのなら、見た目麗しい上半身に免じて聞いてやるのも悪くない。どうせ逃げても捕まるだろうし。
「だが断る」
帰り道は辺りを見回したときに把握しておいた。背後に描かれている魔法陣、その中央に空いた大穴の奥に今年の頭に乗り換えたばかりの俺の嫁が見える。
あそこにさえ入れれば、彼女は体が引っかかってしまい簡単には出てくることが出来ない。逃走成功ワンチャンある。そして捕まっても死なない。悪くない賭けだ。
「捕まえられるもんなら捕まえてみやがれってんだ」
「ほう?」
俺が振り向くが早いか彼女の尾によるものであろう強烈なビンタが襲いかかり、俺の意識は刈り取られた。
知ってた。
体を絞められる感覚で意識を取り戻す。
「あー、苦しい。少し緩めてくれても良いんじゃないか?」
「そう言って、また逃げるつもりなんじゃろ?」
いや、まあ、そうなんですがね。更に絞め上げられたら本当に意識飛びますよ冗談抜きで。
彼女は俺の体にぐるぐると巻きつき、吐息がかかるぐらいの至近距離まで顔を近づけてこちらを睨みつける。蛇らしい縦長の目だ。完全に獲物の気分だ。
もはや抵抗する気も起こらない。しようと思ったところで頭しか動かないが。
「分かった分かった。話を聞こうじゃないか」
「その言葉はもっと早く聞きたかったのう」
面倒事に巻き込まれると分かっていておめおめ話を聞くほど俺はお人好しな性格をしていない。三ヶ月ごとに変わる嫁とイチャイチャする生活を壊さないで欲しい。いくら傍から見て可哀想に見えたとしてもだ。
そんな俺の心情を全く斟酌せず、彼女は言葉を続けた。
「我はな、我が主ーー魔王となる者を探しておるのだ」
「いやいやいやいや、待てよ。お前何言ってんだ」
俺の心情がどうたらこうたら以前に突拍子が無さすぎる。
慌てる俺を後目に彼女は尚も煽る。
「我は『お前』じゃないのでその質問には答えかねるのう。我の名はエティシアじゃぞ、魔王様?」
「俺は魔王じゃない。俺の名前は航平だ、エティシア?
……じゃなくてだな!」
ここで相手のペースに巻き込まれるようでは彼女の思うツボである。俺は彼女の気迫に負けじと声を張り上げる。
「まず一つ目、お前は俺の腕を折りたいぐらい嫌いじゃないのか」
「ああ、確かにヌシ……コーヘーの腕を折ったらさぞスカッとするじゃろう。
じゃがな、それとこれとは話が別じゃ。それぐらいやってのける者でないと我は下につこうとは思わん」
褒めているつもりなのだろうが、褒められた気がしない。
「物怖じする男に価値はない。使えぬからな。
そして、ただ粗暴な男にも意味がない。すぐ死ぬからな」
要するに俺は強者に媚びへつらい弱者をいたぶる小悪党というわけだ。自覚はあるが、他人に言われると小さじ一杯分の良心が痛む。
「それにな……」
俺のライフはもうゼロだ。止めてくれ。
「顔が好みじゃ」
「お、おぅ」
俺は単純だから、急にそういうことをストレートに言われるとクラッときてしまう。上半身だけ見ればテレビでも見たことがないような別嬪だ。悪い気はしない。
殺されかかっていることを除けばの話だが。そろそろ手の感覚が無くなってきた。
「じゃあ分かった。お前……エティシアのことに俺が口出ししたって仕方ないしな。
で、二つ目。俺の世界だと魔王っていうのは人間と対立しているイメージがあるんだが、そんなもんに人間の俺がなっていいのか?」
正直、一つ目の方はどうでも良い。問題はここである。
俺は人間を気楽に殺せるほど殺伐とした社会には育っていない。見殺しぐらいならばやれると思うが、直接手を下すのは駄目だ。仮に正当防衛だとしても絶対に躊躇う。
「それは認識に齟齬があるのう。別に人間に喧嘩を売る必要はない。魔物達を纏め上げればそれで良い」
エティシアの回答にほっと一息吐く。
「じゃあ、人間と魔物の関係も良好なのか?」
「いや、人間が魔物を見つけたら殺しに来る。逆も然り」
「駄目じゃねえか」
フラグを立てる間すら無かった。こちらの期待をへし折るのが速すぎる。
「せっかちじゃのう。もう少し我の話を聞け。
魔物が人間を襲い、人間が魔物を襲うのはこの世界の法則じゃ。したがって、異世界の住人であるコーヘーならばこの法則から外れることができる。
コーヘーがまだ生きているのが何よりの証拠じゃ。もしコーヘーがこの世界の人間だったなら、我はこんなに長い時間は正気を保てずに絞め殺しておるよ」
喜ぶべきか悲しむべきかわからない情報だ。
「そりゃどうも。
でもそんな魔物の頂点に立ったら、俺まで襲われるだろ」
「その地位に魔物が居るよりも希望が持てるじゃろう?」
エティシアの言い分は理解できないでもないのだが、彼女は肝心なことを失念している。
「だから、俺を巻き込むなっての」
俺にこの話を受ける義理はない。
薄情かもしれないが、俺は面倒ごとは他人に丸投げするダメな大人である。こういうシチュエーションに興奮する人間はいくらでもいるだろうからなおさらだ。頻繁にアニメ化するぐらいだし。
「向こうで希望者を募ってくるから待ってろ。
信用できないって言うなら毎日確認しに来ても良い。逃げないから」
この調子だとタンスを買い換えてもまたダメにされそうな雰囲気だ。無駄な出費と心労が嵩むぐらいならば代わりの人間を探す手伝い程度はしてやっても良い。
「本当かえ?」
「逃げたところで逃げきれるとは思えないしな。蛇はしつこさの象徴とも言うし」
「我を蛇扱いするでない」
とんでもない威力のデコピンを一発貰ったが、無事に解放してもらうことができた。頭蓋骨が凹んだような気がした。
もし約束を破ろうものならどうなるか目に見えている。俺は早速行動に移ることにした。
「『魔王になりませんか?』……どこから突っ込めばいいんだこれ」
とはいえこれ以上に言いようがないのだから仕方ない。
「送信、っと」
スマホで撮ったエティシアの写真を添付して、このメッセージをSNSを利用して全世界に送信する。それが俺の考えついた手段だ。
このために取得したフリーメールにはさっそく一通の応募が届いている。
「さて、どんな奴かね」
こんな胡散臭いネタに反応する人間がマトモなわけがないが、少しでも付き合いやすい人間であることを祈る。
俺はそのメールを開いた。