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8.黄昏島のいけにえ唄




 乱心したままヤトノの座敷に飛び込んできたメリュクシナを見た時、彼の心に浮かんだのは「また駄目だった」という諦めだ。それに彼はもう求めない。

 知ってはならぬ。

 考えてはならぬ。

 永劫を変わらず生きよ。従え。讃えよ。疑うべからず。

 神への不信を明らかにすれば人も竜も滅びはせずとも、永劫の業火に焼かれる。

 ならば竜は今まで通り勤めを果たすのみだ。

 たとえ、たとえメリュクシナが壊れてしまうのだとしても。


「ヤトノ! わたくしの子供たちが……あれが、あれが槍だと! ヤトノはご存じでしたの? シロとクロをお勤めに出されたのはあなたのご意志ですか。わたくしが不出来だから子供たちを奪ったのですか」


 そうか。白黒の一対もいってしまったのか。胸を焦がす感傷を見て見ぬふりをする。いつからこんな感情を抱くようになってしまったのだろう。

 文机の前に座すヤトノの足にすがりついて平伏すメリュクシナに竜大神は距離を取った言葉を使った。


「落ち着け、女神よ。あれこそが我らの勤めぞ。竜は皆そのために神に遣わされる。何も嘆くことは」


 自分で言って違和感に引っかかった。しかし何がおかしいのか考えずに続ける。


「シロクロは天上神のご意志を直接受けて参ったのだ。竜としてそれ以上の誉れはない」

「ならばシットエ様は? シットエ様はあなたの手で槍になされたのですか。あんなに、あんなにあなたを慕い仕えてくださったシットエ様を!」

「あれとていずれ勤めが来ることは理解していた。私の力不足ゆえ少しばかり長く仕えさせてしまったようだ」


 神と人はわかり合えぬ。竜は理解を越えた生き物だ。思考を制限され、神に従い生き続けねばならない彼らのことを人である女神は理解し得ない。

 ほんの少しでも軋轢が生まれてしまえばあとは恨みが募るだけだった。

 女神たちは識り、憎む。

 誰が為に?

 彼女たちは子を喪って哀しんだことがあったか。

 そもそも子などとは思わなかった。彼女たちの中には神と人間しかいなかった。自分たちが神に赦されることしか望まなかった。でも赦されることなどあり得ぬ。だから憎む。ぶつけようのない憎しみは畏れから生まれ、力になった。

 神を憎む。それこそ贖いきれぬ罪。


「メリュ、クシナ……?」


 彼女の潤んだ瞳はひたむきにヤトノを見つめている。


「やっと、わたくしを見てくださった」


 指先がヤトノの頬に触れようとする。彼は畏れ、指を払った。メリュクシナを傷つけた。そう思った。けれど彼女は苦笑こそすれ、ヤトノに恨み言をぶつけようとはしなかった。

 なぜ。なぜ――。


「そなたの故郷を滅ぼしたのは竜ぞ」

「わたくしを捨てた故郷です」

「私がそなたに触れたから神がお怒りになられたのだ。私のせいでそなたの大切なものは全て失われた。だがそれで良い。竜を憎め。私を畏れよ。それこそが女神を女神たらしめる」

「あなたが子に冷たく接するしかなかった理由を知った」


 彼女は突き放すヤトノに決して怯まなかった。それどころか凜と竜を見据えた。


「わたくしが竜をいとおしいと言うと驚く理由を知った。わたくしが育てた子が国を焼く。今までいらっしゃった女神さまは識った時どうなされたのですか」

「……竜を憎んで呪って死んだ」


 最初に神と人の領域を繋いだあの鳥居から身を投げるのだ。『落ちる』とは『堕ちる』。彼女たちは黄昏となった。


「お可哀想に」

「そうだ。我らのせいで彼女たちは哀れな最期を迎える。悟られぬようにした。精一杯いとおしんだ。だけど彼女たちは最初から最期まで竜を畏れ憎んだ。……ここはそういう場所なのだ。贄と言われるのも致し方ない」


 ヤトノは拳を握り、俯いたまま現実を絞り出した。メリュクシナもきっと最期はそうなってしまう。また守れなかった。忘れるしかなくなり、ヤトノは逃れられぬ刻をひとりで過ごさねばならない。そしてまた贄を迎え竜を育てる。繰り返して変わらない。平穏を偽って壊れたら終わり。虚しい? いいや、これまで考えもしなかった。

 だけど、永い永い刻の中で塵が積もる。少しずつ少しずつ竜の心に変化をもたらした。それは子らの消失。あるいは女神の呪い。黒い塵を生んだ。

 重い。ゆえに必死にいとおしむ。そして失敗し、失う。

 割り切れば良かったのだ。女神は消耗品だと。壊れたら取り替えれば良い。人間など放っておけば幾らでも増える。代わりがいなくなることはない。

 でもヤトノには出来なかった。女神はいとおしいものだった。小さな花のように大切にしたかった。たとえ儚く散るのだとしても。

 幾度憎まれ呪われようとも。


「いいえ、お可哀想なのはあなた」

「なんだと?」

「そのようなお勤めを担っているのにあなたはあまりに人に近いのでは? シロやクロは槍になることを当然のものとしていた。なのにあなたは二人を喪って泣いてしまいそう」

「馬鹿な、私は」

「神はあなたが泣くのをお赦しになりませぬか? あなたの心を奪っておしまいになりますか?」


 立ち上がったメリュクシナは天を仰ぎ両腕を広げ声を張り上げた。


「神は竜を愛したわたくしを赦しませぬか?」

「メリュクシナ……ならぬ、神に逆らってはならぬ」

「わたくしはお勤めを果たしましょう。憎め、呪えと言うならば憎みましょう。呪いましょう」


 女神は畏れ震える竜に優しく触れる。白き頬を撫で、目尻をいとおしみ、光帯びる角をなぞった。


「わたくしはあなたを決して憎みませぬ。憎しみも呪いも必要ならば竜ではなく人を呪いましょう。わたくしの槍が大地を抉り、わたくしの呪が森を枯らす。何も変わりませぬ。わたくしの呪いがこれまで通り竜を育てましょう。そしてわたくしはわたくしである限りあなたを愛します」


 竜は怯えていた。メリュクシナを見上げ、その遥か先を視ていた。天は何と答えるのか。槍が彼女を貫きはしないか。ともすればヤトノが槍となり彼女を喰らうかもしれない。

 竜のこがねの瞳は不安に揺れる。メリュクシナもヤトノの不安を感じてはいた。何よりメリュクシナはちっぽけな人間だ。天上の神に楯突く意味とは。あの炎に包まれた大地が目に焼きついて離れない。一寸先には彼女がそうなるとも知れぬと理解していた。

 けれどこれを乗り越えねば先はない。変わらぬ未来しか知らぬヤトノに変われる未来を。


「神よ! わたくしを赦せぬというなれば今すぐに天罰を下されよ! わたくしは滅びを畏れはせぬ! 命を惜しみはせぬ! 竜にも安らぎをくださりませ!」


 女神は畏れ知らずに天を睨み、竜は審判を畏れ天を仰いだ。沈黙に息を飲む。

 最初に異変に気づいたのは竜だ。天上の後光が差した。


「なりませぬ!」


 光は真っ直ぐに黄昏島を貫く。ヤトノとメリュクシナ目掛け、神の真意が落ちる。稲妻のごとき光が全てを飲み込まんとした時、竜は神への畏れも忘れ光の前へ立ちはだかった。メリュクシナを守りたかった。女神を抱く。竜の背が光に灼かれたかに見えた。眩い洗礼の中で二人はきつく抱き合い、終わりが来るのを待った。

 息をするのも忘れる気圧はほんの一瞬だったのだろう。それでも二人は光が閉じてから数秒は放心した。

 何かが欠けてはしまわなかったか?

 思考が働くようになると二人はまず互いの無事を確かめた。メリュクシナはヤトノの瞳を覗き、輝かしい角も凛々しい尾も優しい眼差しもそのままであるとほっと息をついた。ヤトノも女神の流れる髪を撫で、無茶をした細腕を掴んでもう一度抱き寄せた。


「神がお赦しになったのか……?」

「赦すも何も当然のことですもの」

「無茶を言うな。本当に赦されたとは……信じられぬ」

「まあ、それこそ神の御心を蔑ろになさる発言ですわ」


 ヤトノは目尻を下げ、呆れたように笑った。彼が久々に見せた彼のままの柔らかい陽射しに包まれるような笑みだった。


「そなたは本当に」

「ヤトノ」


 竜は女神に応え、頷く。畏れを知らぬ女神は最初からずっと竜の長の人ならざる黄金色をいとおしげに見つめていた。


「わたくしはこれからも心して役目を勤め上げましょう。竜と人が異なることを決して忘れませぬ」


 ゆえに呪う。


「けれど交われぬとは思いません」


 ゆえに彼女は人なれど人を呪う。


「変わることを厭うのならば変わらぬ愛を捧げましょう。あなたのためだけに」




    * * *




 気まぐれに大地を覗けば憂鬱がひとつ。罪が積み重なる前に罰を下そう。

 昼と夜の境目、曖昧な時間ならば愚かな人間は隣人が消えたことにも気づかぬとお思いか。

 かの島からは金の槍が降り注ぐ。たれそかれ。我らは隣人を忘れ得ぬ。

 ならば神の住まう黄昏島へ贄を贈ろう。神が憂鬱を忘れてしまうように。




     * * *




 黄昏島の竜神といけにえ姫の女神は島から人の世を見下ろす。こがねの流星が彩る、闇夜に包まれる前のほんの一瞬の黄昏刻を楽しむ。

 流れる光の粒はどれもこれも二人が手塩にかけて育てた竜だ。全てが光を撒き散らせ炎になって大地を焼いた。

 愛していた。愛している。


「人はいつ滅びるのかしら?」


 女神は微笑んで言った。

 ヤトノは小さく笑って、苦さを噛み消した。

 彼女は竜を愛し、人を呪う。

 神への真なる愛は果てない贖罪だ。人間が神を憎むことも畏れることも辞めてしまい、何もかもを享受し愛するのならば罪は生まれない。

 人が人を憎むのは罪ではない。

 人が竜を愛するのも罪ではない。

 メリュクシナ(人間)が罪と思わねば罪にはならぬ。

 女神は人の標。永劫に訪れるはずのなかった『罪の終わり』が近づいてくる。

 神への畏れを力にして育まれてきた卵は今もどんどんと力を失っている。

 槍をいくら降らせても滅びは起こせない。

 神が望まれたことなのかは竜もわからない。彼は変わらず竜を育て、人の罪を見つけては罰するだけだ。それが何の意味もなくなろうと竜がいる限り勤めは続く。


「フレレラはちゃんとお勤めを果たせたかしら」


 今しがた経った息子を想う母にすでに哀しみはない。メリュクシナはもう哀しまない。自分の子が神の望み通りに人を罰するのならそれでいい。彼女は知らない。どれだけ人を憎もうとも神への畏れをなくした女神では人は滅ぼせないことを。

 子を奪う勤めがいつか人を滅ぼし尽くし、竜の勤めが終わると信じて呪い続ける。その愛が尽きぬ限り、人への罰は失われるというのに。

 変わらないと誓った女神は、それでもあのメリュクシナとは違ってしまった。

 ヤトノだけはそれに気づき、けれどひとりだけで哀しみを抱き続けた。


「そなたの子は皆立派に果たしている」

「この子も槍になるのかしら」


 僅かに膨らんだ腹を撫でた女神は嬉しそうに夫となった竜を見上げる。ヤトノも微笑んで妻の腹に手を当てる。


「人の真似事をするのは初めてなんだ。だが確かなのはこの子はそなたと僕だけの子だよ」

「幸せね。ああ、本当に幸せ」


 黄昏島のいけにえ唄が聴こえる。

 彼らが贈った贄が役目を果たし、神は憂鬱を忘れてしまった。

 たれそかれ。誰そ彼。

 白き竜は哀しみだけを忘れられずに贄の唄を聴いて幸せの中でひとり神へ赦しを乞うている。

 願わくば竜と人の間の子に祝福が賜われるように。

 黄昏島は今も狭間の虚ろで黄昏ている。




〈了〉


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