7.神の槍
黄金の槍の雨など知るよしもないのにメリュクシナの目にはあり得ない光景が映っていた。彼女が見ているのではない。瞳に映されている。視せられている。頭の中をこじ開け無理矢理流し込まれている不快感。それを上回る恐怖と畏れ。
「ああ……あ、ああ……」
炎に包まれる父。黒の原になった故郷。人の死。人の残骸。泣き叫ぶ声すら聞こえてくるようだ。
これはなに。夢か幻?
ならば誰が視せている。
ヤトノはどこ? 怒りを買ってしまった。だからこんなことを。こんな、こんな恐ろしい『嘘』を視せるなんて。これは虚幻に過ぎない。そうに決まっている。
メリュクシナは屋敷を飛び出し駆けた。
「フレレラ! おいでなさい!」
呼べばどこからともなく現れる竜の子。紅い髪は炎のようだ。
「母さま、どうしたの?」
もう一人前と言えるくらいに立派な竜の躯を持つ最初の息子はすでにメリュクシナの背を追い抜いた。どことなくヤトノに似ている面影に胸が痛む。
でもそんなのは気のせいだ。竜たちがヤトノに似ているわけがない。彼の子らは彼の種から生まれ出でてはいない。卵は神の御力で月に一度聖域に賜われる。メリュクシナの卵でなければヤトノの種でもない。
それでも、それでもいとおしいと思っていたのに。
島の西端へ。流れ落ちる滝の虹が生まれる場所へメリュクシナは走った。あそこは崖になっていて雲海が晴れていれば地上が一番良く望める。ヤトノが最初に連れてきてくれたメリュクシナにとっての大切な場所だった。
「母さま、どちらへ……」
「わたくしはあなたもあなたのお父上も愛しておりますよ」
だからこそ真実を知らなくてはならない。
竜の勤め。ヤトノは何をした。メリュクシナの故郷は本当に滅びてしまったのか。シットエやいなくなった竜はどこへ行ってしまった。
わからないことはたくさんあった。ヤトノは微笑んでばかりで本当のことは隠した。メリュクシナは聡くはない。けれど考えることくらいはできる。
ならぬ。ヤトノは言った。
きっと知れば罰せられる。
ヤトノと共にはいられなくなるかもしれない。神は赦してはくれない。
それでも知りたい。知ればヤトノにあんな悲しい顔をさせない。
好奇心は鬼をも殺す。過ぎたる正義心は深淵へと引き込む。
人の愚かさはそこにあるのだろう。
知らねばならないと思い込み、知れば自分なら善きように修正できると思い上がる。
更なる悲劇を招く可能性も考えずに。
眼下に広がる雲海。時々雲を突き抜ける流星。こがね色の星が今日は一段と多く地上に降り注ぐ。とても美しい幻想的な光景だ。
でも、あれはほんとうに星?
何もかもが偽りに思えた。
「母さま! 戻ろう!」
「いいえ!」
大きく二歩踏み出せばすぐ崖だ。メリュクシナの緊迫した表情にフレレラも兆候を感じ取る。母の凶行を止めねばならない。女神の存在はこの島にはなくてはならない。産まれたばかりの竜ですらそんなことは知っている。本能に刷り込まれている。
「いいえ、フレレラ! わたくしは行かねばなりません!」
ほとんど己を鼓舞するための文句だ。喉を鳴らす。姫として地上で暮らしていた頃は自分がこんな激情に突き動かされる人間だとは考えもしなかった。
「母さま!」
メリュクシナは勢いをつけて思いきり飛んだ。竜の子はどうすべきか迷った。
「あなたもおいでなさい!」
落ちてゆく女神に喚ばれ、フレレラは恐れることなく踏み切る。空中でくるりと回転し、風を纏った竜は深紅の翼を羽ばたかせ女神を追う。竜化した巨体は颯爽と風を切る。風と同化する。
彼らの後から左右に飛び出してきた影があった。白と黒の竜だ。唸りを上げて、紅竜が追う身ひとつで落ちてゆく女神に追いつこうと速度を上げる。ほとんど兄弟のように育った三匹はいつも女神の傍についていた。メリュクシナが子らを庇護していたのではない。最初から彼女を護るために竜たちはおのずと役目だと認識していた。
フレレラの背がメリュクシナを優しく受け止めたのを確認して二匹は旋回して速度を落とし紅竜の左右についた。
「島に戻らねばならない」
「どこへゆくつもりか」
すっかり大人になった白黒は母に甘える子竜の面影もなく女神を叱責する。このまま育てば彼ら二人が次のヤトノの従者になるのだろう。立派に育った子供たちを頼もしく思い、また寂しくもあった。
けれどだからこそ母としてではなく人の子メリュクシナとして答えた。
「地上へ参ります」
「お役目を捨てるのか」
「いいえ、わたくしの故郷が本当に燃えたのか確かめたいのです」
白黒は困惑し、喉を鳴らし唸った。
「ヤトノはご存知であるか」
「……報せてはおりません。もしヤトノ様がおやりになったのならわたくしには教えないでしょう。あなた方もわたくしをお止めになる?」
メリュクシナを背に乗せているフレレラは答えに迷っている。鼻をぶるると鳴らした。何事もなくこのまま島に戻りたいに違いない。
だが硝子玉みたいな瞳で目配せした兄たちの意見はどうやら違うようだ。
「女神は皆いつか識る」
「識れば今までと同じではいられない」
「……それはヤトノの傍にいられなくなるということ? あなたたちのお世話の任から解かれてしまう?」
「全てはそなた次第だ」
「わたくしは……知りたい」
なぜ。――なぜ、ヤトノは急にメリュクシナを拒絶した?
彼女が知りたいのは結局そんな些細なことなのだ。
あんなに幸せそうに花を愛で、子と戯れ、メリュクシナに触れてくれたヤトノがどうしてあのように悲痛に鳴いて逃げなくてはならないのか。
知ってどうする。相手は神だ。人間風情には理解出来ぬ事情があるのだ。
知れば寄り添える。知らぬから怖い。畏れる。理解出来ぬと目を逸らしてはかつての女神たちと同じだ。
わたくしは違う。違うのだ。わたくしはヤトノの特別だから。
「ひとつ伝えるべきことはヤトノはそなたを守るために視せなかったのだ。識ればそなたはそなたではいられぬだろう。それでも良いのだな?」
「ええ。でも、もし本当にわたくしがわたくしではなくなってしまったら……ヤトノに謝っておいてください」
「承知した」
「シロ、ボクは母さまを……」
やっと言葉を発したフレレラは母を連れて逃げてしまいたい気持ちでいっぱいだった。不安で堪らない。優しい母が消えてしまうのは嫌だ。
だけど両脇は彼より一回りも大きな兄たちに固められているし、逃げようと方向転換などすればメリュクシナはまた空へ飛び兼ねない。選択権のない若い竜は情けなく抗議とも言えぬ抗議の声を上げるだけで精一杯だった。兄は怒りはしなかった。フレレラの不安を汲んで優しく諭す。
「いずれおぬしにも理解出来よう。今は母を信じるのみだ」
母。その言葉にメリュクシナは胸が熱くなる。巣立ちした子に抱くものよりもっと痛みを伴う感傷だ。
「……まだ母と呼んでくれるのですね」
「何を言うか。あなたはこの命尽きようと我らの母だ。そなたのぬくもり、この身に刻み忘れたことはない」
「我らは歴代の槍の中でも幸福であったと自負している。そなたは自信を持ってヤトノの隣におられるが良い」
「まあ、大袈裟な子たちね。わたくし母らしいことなど何ひとつ……クロ? それは……」
黒竜の躯がこがねの光に包まれる。驚いてシロをみやれば彼も同じ光を纏っていた。
「うむ。神もそなたに識られることを望んでいるようだ」
「近々喚ばれるとは思っていたが、天上神手ずからの召喚とは。それを母にご覧頂けるとはまったく我らは僥倖だな」
「二人とも、なにを……」
白と黒の二対の竜は満足げに微笑む。竜形態での表情はわかりにくい。母であるから見分けられた。母としての時があればこそ。メリュクシナの自負は強い。
それゆえとても優しい笑みの中に不穏を感じ取り、二人の名を呼んだ。
彼らはメリュクシナの優しさに目を細めて、短い間に受けた確かな母の愛を懐かしんだ。柔らかくあたたかな記憶だ。こんな記憶を抱いて槍となれる竜はこれまでいなかった。シットエすら無の内に消え去ったのだろう。
「フレレラ、おぬしの名は祝福されている。母を頼んだぞ」
「我らの勤め、しかと母にお見せするのだ。最後まで着いてこい」
「……確かに承知しました。お勤めご苦労様です」
「待って、あなたたち何を」
「母さま、兄さまに最期のお言葉を」
「さいごって、だって」
「メリュクシナ姫、これからも息災であらせますよう」
「姫様が母で幸せでありました」
二竜は母の正面に向かい合い深く頭を下げた。向き合ったメリュクシナは戦慄く。何をするつもりかわからずとも結果は推し量れてしまった。
「シロ、クロ」
「そなたに呼ばれると、この名もそう悪くはなかった。では参ろうぞ、兄弟」
「かかさま、大好き」
子供の頃のように笑った二人の躯は光に包まれる。翼を躯にぴったりと沿わせて急降下を開始する。
「兄さまの晴れ姿をよく見ていてあげて。行くよ!」
フレレラも鼻先を地上へ垂直にし二つの光を追った。
風が切れる。
光の粒が燃える。
炎が逆立つ。
何も言えなかった。風の中で目を凝らすのに精一杯で息子たちが光になるのを見ていることしか出来なかった。
神の槍。突き進んでゆく光はまさに天から放たれた槍だ。迸る光と炎が帯を引いて落ちていく。流星だと見紛ったあれは全て槍だった。
なら、あれは。美しいと眺めた金の光、ぜんぶ、ぜんぶが竜の子らだったのか。
メリュクシナの中に激情が渦巻く。憤りと嘆き。どちらに心が痛むのかわからない。引き裂かれる痛みではなく、重しに押し潰される痛みだ。じわりじわりと末端から死んでゆく。
「いかないで!!」
声は風に掻き消える。
槍は地上へ堕ちた。
燃え上がる。
家を焼き、人を滅し、跡形もなくなるまで炎は盛る。
竜の声は聞こえない。姿もない。
炎となった。そうして人々を灰にしている。
人間の神への憎しみの声が断末魔となって地上を覆う。誰も彼もが嘆き、恨み、最後には赦しを乞う。
これが神の断罪か。
メリュクシナがヤトノを愛した末路か。
「あああ……あああああ!」
人間が育てた竜の子が人間を滅ぼす。あんなに愛して大切に育てた子供たちが、あんな、あんな。
言葉にならず、女神は空を旋回する竜の背で咽び泣いた。
炎の熱と竜を憎む声ばかりが記憶に残った。




