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6.神罰




 あまりにも永かったのだろう。

 それでも悠久の刻を苦痛に思うことはなかった。変化のない時間の流れは、ひとつひとつが生まれては消える星の瞬きのように一瞬で過ぎ去る積み重ねだ。美しいひとときを次から次へと重ね過ごす日々は退屈とは無縁であり、あっという間だ。だから永い刻を永いと思う暇もなかった。




 聖域では竜に囲まれた女神が楽しげな声を上げている。穏やかな風に舞う髪には花びらが散り、彼女は草原に寝転がった。もう立派な成竜のシロの竜化した背に寄りかかれば彼の尾がゆらゆらと揺れて歓喜に騒ぐ。

 こんな光景が見られる日が来るとは思わなかった。


「ヤトノ!」


 女神は長を見つけるなり満面の笑みを伴い駆けた。シロやクロ、フレレラすら置いて一目散に長の元へ行く母に竜たちは少しだけ羨む。母は誰よりもヤトノを大切に想っている。今やそれは周知のこととなった。彼女が誰のために子を育てるか。ヤトノのために他ならない。

 メリュクシナは目の前まで来ると少女のような初々しさで目を伏せる。それが恥じらいと期待であると竜の長は何度目かで学習した。黙って両の腕を広げて微笑む。すると顔を上げたメリュクシナは喜びを隠しもせず腕の中に飛び込んだ。この時ばかりはいつも淑やかな女神もやんちゃな竜の子らと変わらない。


「あのね、もうすぐ次の子が産まれます。あの赤いのと緑のよ。元気な子だと良いのだけど」

「そなたが育てているのだ。元気な子だろう」


 メリュクシナはヤトノの一言一言に微笑み返す。今が何より幸せである。それが身体中から溢れ輝いている。

 全身全霊で向かってくる愛情を受け止め慣れていないヤトノは時々途方に暮れてしまう。心が落ち着かない。胸が騒ぐ。

 幸せで嬉しい。なのに不安がもたげる。不安は大きくなるばかりだった。不慣れだというヤトノの杞憂だけではない。


 このところ生まれ出でる卵が一回りも二回りも小さくなった。以前のように背の丈よりも大きな卵は出現しなくなった。せいぜいメリュクシナと同じくらいか、ほとんどはヤトノの腹の高さ程度にしかならない。元々卵の大きさには大小様々あった。だけど彼女が育て上げるたびに、次の卵は小さくなっていった。

 大きさだけでない。今では力の小さな子ばかりになった。竜としての力。人間の想いの大きさ。


「どうしたのです? 何か心配事がおありですか」

「いや、なんでもないよ」

「ヤトノ。わたくしは大丈夫ですから」


 嘘をつけばなぜかメリュクシナはすぐに気がついた。きっと今までも女神たちはヤトノの憂いや秘密に勘づいていたのかもしれない。それでも神の意志に叛かぬように笑顔の奥に不信を隠した。たくさん、たくさん、石ころを積み上げるように心に重しを築いていった。

 でもメリュクシナは人間の機微に疎い竜にもわかりやすく問いかける。時々困ることもあるけれど、メリュクシナとの間には今までの女神たちと築いてしまったわだかまりはない。

 ――それがいけなかったのだろうか。


「僕はそなたと出逢って何か変わってしまったのだろうか」

「まあ。そのように口説いてくださらなくてもわたくしはヤトノをお慕いしております」

「……口説いたつもりはないのだが」

「ヤトノの以前を知りませぬから変化があったかは存じません。でもわたくしが大神の何かに変化をもたらせたのなら嬉しいのです。女神がヤトノに何かの影響を与えたことは以前にもおありに?」

「多分、ない」

「ほら、最高の口説き文句です。ヤトノはわたくしだけ。ね?」

「そうだ。メリュクシナだけなのだ。そなたが来てからここの空気もいくらか変わってしまった気がする」


 女神はヤトノの口振りに幾分不満を露わにして口を尖らせた。


「なぜ変わって『しまった』などとおっしゃるのです。まるでわたくしと出逢ったことや変わったことがいけないことのよう。人や環境が変われば変化を伴うこともあるでしょう。ヤトノは変化が怖いのですか」


 怖い、のだろうか。考えたこともない。考えなくても良かったことを考えるようになったことが怖いのかもしれない。

 考え過ぎるな。シットエはいなくなる前に言った。彼はメリュクシナがヤトノにもたらす変化を予感していたのだ。


「竜にも怖いものがあるのですね」

「僕は弱いのだろうか。僕がしっかりしていればこんなことには」

「わたくしはヤトノのお優しいところが好きです。もし竜大神がヤトノでなければわたくしなどとっくに喰われていたのではないかと今でも思います」

「女神を喰らう竜はいないよ」


 冗談かと思い笑い飛ばしてみせれば彼女は目を伏せ、寂しげに首を振った。


「ヤトノ様はお優しいから……」


 わだかまりはなくとも二人の間には埋められぬ溝がある。壊せぬ壁は高く聳えている。越えてはならぬものだ。


「でも竜の言葉をお借りすればこれも神の思し召し。わたくしとヤトノが出逢うのも必然と思えば嬉しさしかありませぬ。触れてもよろしい?」


 指が伸ばされる。ヤトノはメリュクシナの求めを拒んだことはない。触れ合うことで双方に何かを及ぼすとは考えなかったから。

 指先を目の前にしてヤトノは一歩下がってしまった。

 ならぬ、と思った。

 次の瞬間には後悔した。メリュクシナの表情がみるみる変化する。ほころぶ花が散ってゆく。泣きはしない。だけど出逢ったばかりの固い表情よりももっとわかりやすく傷がついた。


「すまぬ、ならぬのだ……ならぬ」


 言い訳とも言えぬ謝罪をヤトノ自身もひどく狼狽しながらこぼし、目の前の女に、まるで畏れを為した無力な子のごとく下がる。逃げる。


「ヤトノ……待って!」

「神が、神がお呼びになられたのだ。すまぬ、話はまた」


 神力がヤトノを貫く。清浄なる気が圧力を以て彼の周囲に吹き荒ぶ。光が満ちる。目を灼く眩さに気を取られている間にも白鱗が輝く。気づけば巨大な白銀竜が大きな翼を悠々と羽ばたかせた。ヤトノが竜化するのはとても珍しい。せずとも空は飛べる。力も使える。未熟な竜とは違う。メリュクシナも初めての姿に戸惑った。彼は本当に美しい『竜』なのだ。


「待って! 待ってくださりませ! ヤトノ様!」


 風に圧され近づくこともできぬ女を視界の端に入れながら竜は飛び立った。

 神に呼ばれてなどいない。ただ逃げたのだ。自分の感情から。メリュクシナの想いから。これ以上はならぬ。変質してはならぬ。どうしようもなく焦燥した。これこそ神のご意志ではないのか。竜の本能。本質からは逃れられない。


 雄大な躯は矢のように真っ直ぐ天を目指した。黄昏に鱗が染まる。朱を白銀が貫く。

 だが彼の心中は乱れていた。

 ならぬ。ならぬ。ならぬ。

 なぜ。どうして。何が。

 メリュクシナをこの手に抱くのは幸せではなかったのか。

 幸せ。なぜ幸せなどと。竜は神の勤めを果たす者。己が幸福など考えたこともなかった。人々を想い、女神を護り、奪う。竜を立派に育てねばならぬ。

 女神は竜のもの。ヤトノのものではない。なのにメリュクシナが。

 ならば突き放せば良い。以前と同じく女神たちから畏れられるようにすればいい。微笑む冷酷な瞳に射抜かれればいい。

 言葉にならぬ想いが天に轟く咆哮となって空に、島に、地に響いた。竜たちは長の不安に同調し落ち着きがなくなり、女神はヤトノの悲痛な叫びに胸を打たれ、民は神の怒りに触れたと怯えた。


 視界に一筋の光が降り注ぐ。流星のごとく地に向かう一点は神の槍だ。ヤトノの意志ではない。ならばこれは天上神のご意志。

 槍を追った。迸る光が散ると燃え盛る炎へ変わった。空で立ち止まり槍を見送った。声を聞いた。

 そして地上で盛った。槍は人々に業火をもたらし、血の雨を降らせ、咽び泣き逃げ惑う人々の上に罪の形を改めた。大地は抉れ、黒炭へと変わり、何もなくなる。

 それから恵みの雨が降り、黒の大地に草木が芽吹く。春の風に運ばれた花々がそよぎ、残るのは生まれ変わった大地と途方に暮れる生き残りの人間たち。

 彼らは罪を犯した者を丁寧に悼む。罪を認め罰を受け入れた証に浄められ神への捧げ物として奉られる。

 神への畏れを忘れることはない。日々の暮らしの中で忘れかけても神はいつも見ている。忘れて罪を犯した隣人が罰せられた時に己を正す。自分は神を敬っております、と一心に祈る。

 忘れてはならぬのだ。


「竜大神……? 竜大神であらせられまするか?」


 生き残りのひとりが血と涙に汚れた顔を上げた。ヤトノを見つけるなり掠れた声ですがりつくように叫ぶ。

 見覚えのある顔だった。一体どこで。すぐに合点がいく。


「メリュクシナ様が大神のご不興を買ったのでしょうか」


 震える頭は荘厳なる竜を前にして額を地面に押しつけた。

 彼はメリュクシナに付き従ってきた者だ。人の神官なのだろう。ならばここは彼女の故郷。神は女神の古里を滅ぼしたのだ。


「女神様の父君のお屋敷に天罰が下られました……メリュクシナ様は、メリュクシナ様は一体何を……? 我らは神のお怒りを買ってしまったのでしょうか。竜大神よ、どうかどうかお赦しくださりませ!」

「メリュクシナは……よくやっている、あれは悪くない」


 竜は絞り出して唸った。


「ではなぜ? 我らの何が罪だと申すのですか!? 私の娘は目の前で消し炭になった! 村の者たちも、ほらこの通りです! みんな死んだ! 我らが何をしたというのです!」

「神の……神の、思し召しなのだ……」

「神など! 神などいつも罰するばかりじゃないか! 稲が枯れた時に助けてくれましたか! 水が足りなくとも雨を降らせてもくれない! 疫病神め! 立ち去れ! 贄などくれてやってもこのざまだ! 竜など滅びてしまえ!」


 騒ぎを聞きつけた生き残りたちはいなくなったばかりの人たちのために恨みと憎しみに満ちていた。人など簡単に踏み潰してしまえる巨大な竜に向かって石を投げつけた。呪いの言葉を吐き、石や瓦礫、その場にあるものを武器に神に殺意を抱く。


「すまぬ……すまぬ」


 ヤトノは憔悴しきっていた。力を使う気にもなれず、手負いの獣のように尾を巻いて飛び去った。神の威厳などありはしない。人々に疎まれ憎まれた哀れな竜だ。

 なぜ。なぜ神はこのような仕打ちをした。

 メリュクシナの愛する民を滅し、竜への憎しみを募らせた。

 竜は女神に愛されるべき生き物ではない。

 勤めを果たせ。意味を思い出せ。

 神はヤトノを罰したのだ。

 地上から見上げる黄昏島は虹の中に輝くこがねの島。とても美しい楽園に見える。そして人間たちは見上げるたびにそこから降り注ぐ槍を憎み、そこに住まう竜を疎んでいた。

 少し考えればわかることなのに考えもしなかった。もしかしたら前にも考えたかもしれないけれどすぐに忘れてしまった。

 考えてはならぬ。竜とは愚かな生き物であらねばならないのだ。


「ああ、神よ、なぜ!」


 ヤトノが心を揺るがせればするほどに。神への不信を露わにすればするたびに。

 黄昏島からこがねの槍が降り注ぎ、地上を灰にした。


「神よ、僕の子供たちを殺さないでくれ!!」


 悲痛な竜の願いは、彼が全てを諦め自分の屋敷に引きこもるまで届くことはなかった。





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