5.嵐の日
嵐が来た。
吹き荒れる風。怒り狂った雷。雨粒は礫のごとく降り注ぐ。
天空の島、黄昏島も嵐に見舞われることがある。天上神が島の穢れを洗い流しているらしい。そう言われるとどうにもたてがみを丸洗いされているようで落ち着かない。おそらく誰もがそんな気分になりそわつく。そのせいかこの時ばかりは島中の竜も家に籠りやり過ごしていた。
黄昏島が大嵐の年は地上では豊作になるという。嵐の被害は神が肩替わりし、島から流れた良き水と恵みの太陽を燦々と浴び稲は揚々と育つ。神の恩恵である。
ヤトノは代々の竜の名が連ねられた帳面に新たな名を書き足したあとに過去を眺めた。多くの名がある。ヤトノが書き連ねた者も数多いる。帳面が古くなればなるほど顔も思い出せぬ者が増える。
「まさかもう耄碌したか?」
自嘲してひとりごちる。
神の寿命は決まってはいない。お役目を果たしたとされる時に天上へと還る。ヤトノは先代を知らなかった。先代が亡くなる丁度その時に産まれたからだ。
凄まじい嵐の日だった。
地上では日照りが続き、水も涸れた夏の日。稲は枯れ、今年の冬は食料が不足するだろうと言われていた。長の寿命が尽きる影響だろう。
そんな折りに黄昏島に嵐が来た。人々は歓喜し、竜たちも色めき立った。
長の死に消沈し、新たな長の選び方もわからない。外では悲しみに暮れるような雨と雷光が激しく、竜といえど心細さが募る。
だが悲しみの他に本能がざわついているのを竜たちは気づいていた。何が起こる。理解できぬ気配は畏れの象徴だ。
この時何の因果か、女神不在の時期でもあった。新たな女神を迎える前に長は死んだ。だから今は卵は孵らない。新たな命が生まれ得ぬ状況も竜たちは畏れていた。
長の代替わりを経験した者などいなかった。長より生きる竜など存在しないのだ。
けれども刻が来ればおのずと理解する。
嵐の中、聖域にひと柱立った。光柱。神の威光。
目にせずとも竜の本能に響いた。誰ともいわず彼らは聖域に集い、奇跡を目にする。
割れた卵の中でただひとつ。光明に照らされた赤子。すでに人型を取っている竜の子は光に護られ、雨風に晒されることなくきゃっきゃと笑っている。
これが神の誕生だ。
天上神に祝福され、女神の手も借りずに産まれ出づる。
赤子の時分からすでに神々しくある。
神の名はすでに賜れ、言わずとも皆が知っていた。
ヤトノ竜大神、彼こそが次なる長であった。
そして彼もまた自らの生まれに何の疑問も抱かず、神として幼き頃より勤めを果たし竜を束ねていた。知識や理など学ぶに及ばず、賜れたる神のご意志に耳を傾ければおのずと知れた。
嵐が強まるばかりだ。障子に映る木々の荒れように憂鬱にもなる。
誰かがくる。クロが飛び込んでくる一拍前に声をかけてやると障子を勢い良く開けた少年は矢継ぎ早に告げた。
「かかさまが!」
「なんだ、またメリュクシナがそなたらを困らせたか?」
「面白がってる場合じゃないよ! 嵐なのに聖域から戻ろうとしない!」
嵐なのに、ではなく、嵐だから、が正しかった。
聖域に急ぎ飛んだヤトノは豪雨に身を晒しながら卵を雨風から護ろうとする非力な女神を前にして、「人間とは」と呆れにも近いいとおしさに襲われた。
非力で足掻いても無駄と知りつつ、足掻かずにはいられない小さな生き物。虫や魚とは違い本能のままに生きられぬ賢き生き物。
「かかさま、卵はしょうがないんだよ、戻ろうよ。人間は病気になるんだよ。かかさまが死んじゃったら悲しいよ」
クロを伝達に寄越したシロはメリュクシナの安全を守ろうと必死だ。なのに彼女は小さな卵は大木の傍に移動させ、動かせない卵は身を呈して雨を防ごうと雨に打たれるのも構わない。あまりにも無駄で愚か。
「メリュクシナ、そなたが風邪を引いたら誰が子らの世話をする」
「ヤトノ様!」
竜の神が現れたと知るや否や、彼女は足元にひれ伏した。衣は雨と泥で汚れ、女神というにはあまりにもみすぼらしい。
「ヤトノ様のお力でなんとかしてくださいまし!」
「なんとか、とは」
「嵐を退けるとか、卵を移動させるとか。このままでは全ては孵せませぬ!」
「メリュクシナ。そのようなこと出来ぬのだよ」
彼も膝をつき、子供を諭すように目線を合わせた。
「なぜです!」
「なぜ、と問われてもな……。すまなんだ、僕は全能神ではないのだ。我らは人間に寄り添い、人間を導くためにいる。子も勤めのために生まれてくるが、天上神の成される理には逆らわぬ。嵐は人々への恵み。子が死ぬのならそれも神の思し召し。そなたが気に病む必要はない」
「なぜ! ヤトノ様はなぜいつもお子に冷たいのですか! ご自分のお子でしょう! わたくしとて、たとえ腹を痛めた子ではなくともいとおしく思っております! なぜ……なぜ……!」
空がカッと瞬いた次の刹那、雷が卵に落ちた。轟きに身を竦ませたメリュクシナは顔を上げて、起きた事実を目にした。
「あ、あ、あ……ああああわたくしの子が!!」
ヤトノを押し退け、煙が燻る割れてしまった卵の元へ駆け出そうとしたメリュクシナを咄嗟に掴む。
「《ならぬ》!」
強い『言霊』が口を衝いて出た。メリュクシナが「あ」と声を震わせたあと自失してしまう。
威光など振るうつもりはなかった。ヤトノはすぐに雰囲気を和らげていつもの微笑みを宿す。
「そなたが怪我をしたり、病になっては子らが心配する」
振り向けば二人と同じように雨に濡れそぼり尾を垂らして成り行きを見守る竜たちが、シロクロだけでなく、いつの間にか増えていた。子はフレレラが産まれてから随分と増えた。メリュクシナはひとりひとりに卵の頃から名をつけ、大事に大事に見守った。毎日飽きもせず、楽しそうに卵に話しかけて笑っていた。
「でも、でも……産まれておらぬからと卵たちをないがしろにしては……」
「僕も『なぜ』と問うて良いか」
震える瞳が僅かに頷く。ひたむきな瞳がヤトノを見つめる。こんなに真っ直ぐに竜神の目を射抜けるおなごなどいなかった。いれば、きっと覚えていた。
「そなたはなぜそのように卵に接するのだ」
彼女は意味がわからなかったらしく、問おうとして、けれど瞬きもせず自ら思考する。もう島に来たばかりの娘ではない。何でもかんでも聞いて済ませば良いとは思わぬ。自分で考えねばならぬ時にはしっかりと考える。
「これはわたくしに課せられたお役目です」
ヤトノの期待とは裏腹のつまらぬ解に裏切られた気になる。そんな様子を見透かしたようにメリュクシナは目を厳しく細めた。
「竜は人を喰らう悪しきものだと思っておりました。戯れに人を罰するような非道な神々だと。そのような場所に嫁げと命じられた時は死んだほうが良いと本気で考えました」
彼女のはっきりとした物言いに苦笑する。こうも嫌われていたとは。無理もないと納得はしてもヤトノ自身は人々が憎いのではない。勤めは必要だからこそ槍を振るう。恵みの雨をもたらす天上神とは違う。竜は神の槍だ。人々の憎しみすら神の盾として受け入れる。
メリュクシナは澄んだ瞳を曇らせることなく続けた。
「同時にわたくしをこのような目に遭わせた父上を恨んでいました。わたくしがお役目を果たさずあなたに打ち首にされたら父上の面目も潰れるだろうと、そんなことばかり考えていてシットエ様にも随分ご迷惑をおかけしましたね」
「あいつはそんなこと何も……」
「あの方はあなたが打ち首などしようもないと笑い飛ばしておいででしたよ」
ヤトノは言い様もなく、微笑みを張りつけた。メリュクシナの目にヤトノがどう映ったかはわからない。彼女は何も知らない。そうでなければならない。
「わたくしがなぜお子を大事にするか。ヤトノ様はおわかりにならない?」
「メリュクシナは僕を怖がっているようには見えない」
まあ、と心底意外そうに声を上げられ、ヤトノのほうが驚いた。
「脅されたくらいでは屈しませんことよ。わたくしは子らが本当に可愛い。大切にしてやらねばならぬと思います。人に課せられた勤めであるだとか竜に喰われるのが恐ろしいからではありませぬ。わたくしは竜がいとおしい。それゆえないがしろになされるヤトノ様すら許せませぬ」
ヤトノは困惑していた。
竜がいとおしい?
神の槍である竜を人間がいとおしむなど、そんなこと今まであったか。
人は皆、人のために願った。竜の怒りに触れぬために勤めを果たせと、人に命じられた姫は人々に降りかかる災いが少しでも和らぐようにと心を殺してヤトノに仕えた。
美しい笑みを張りつけたまま、ヤトノを畏れ、心の奥底では恨みを募らせた。竜神が傍にいては気も休まらないだろうとひとりにしてやればヤトノの不興を買ったと気に病む。だからといって笑って傍にいても自由が失われたと自分を嘆く。
卵とて彼女らが真にいとおしむことなどついぞなかった。
嵐が来ても見に行くどころか、勤めに出かけに行かなくて良い理由ができたとばかりに部屋に篭った。卵が割れて悲しむ女がいただろうか。子竜に囲まれれば命を危ぶむおなごばかりだった。少し甘噛みされたくらいで大袈裟に騒ぎたて、ヤトノが様子を見に行けば殊勝な態度を取る。神が竜たちをたしなめるとやっと姫は自分が顧みられたと感じるようだった。
――名は女神がつけなければならない。
人の想いが竜を創る証だ。
彼女たちはいつも最後が近づく頃には名に呪いをかける。
シロとクロ。前任の女神が最後に孵した子だ。彼らの卵が白と黒色だった。そんな単純な名。願いや想いなど欠片も込められることはなかった空虚な呪い。
でも何の想いが込められていないほうが良いこともある。
シットエもまた女神が力尽きる最後の年に孵った子だった。彼の名は『死』を意味する名だ。女神はシットエだけでなく、全ての竜の末路を蔑み彼にこの名を与えた。
忌み名を持つ竜は多い。人が竜を憎む限りは仕方のないことなのだろう。それでも竜は人を恨まず憎まず、ただひたすらに勤めを果たす。
「メリュクシナは竜をいとおしいと、そう思うのか。人とは違うこの身をおぞましいと、人を傷つけるこの爪を恐ろしいと、蔑まぬのか」
「今までそのような浅慮な方を娶っていらしたの? ヤトノ様ほどお美しい竜はいないと思いますわ。白銀の髪にこがね色の瞳。冷たく見える白鱗の尾だって温かいのに何がおぞましいのですか」
「だが角もある」
「そうですね」
肯定に気落ちするヤトノに女神は微笑む。
「わたくしには少しばかり眩しいですが、とても素敵でいらっしゃいます。触れてもよろしいですか?」
ヤトノは静かに肯定する。彼女が背伸びをしてもまだ届かない。竜が少し屈むと髪を流れた雨粒がメリュクシナの頬に落ち、彼女は驚いて瞬く。
「あ、すまない。これでは風邪を引くな、やはり戻ろう」
反射的に身体を離してしまったヤトノにメリュクシナも咄嗟にすがる。
「待って」
腕の中に転がり込んできた女はヤトノの角ではなく頬を撫でた。そっと大切な卵に触れるように優しく。
「お慕い申しております」
「メリュクシナ」
「わたくしは決して恐れませぬ」
ヤトノは受け入れた。否。受け入れたかったのだろう。
畏れを知らぬ言葉を。人間の真心を。竜に決して向けられることのない想いを。
抱き締めたメリュクシナの熱はきっと忘れないのだと。




