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3.紅いたまごの殻




「姫の様子はどうだ?」


 従者であるシットエは長に呆れも隠さず「ご自分で窺ってくれば良いでしょう」と進言した。ヤトノは文机に突っ伏し頭を抱える。


「しかしな、僕が何か言ってあれ以上頑なになられてもな。子供たちの様子は?」

「変わりありません」


 自分の溜息が重くのし掛かる。


「ご自身のご威光を発揮させるべきでは。何を躊躇なされているのだ。神を畏れてこその人間なのだぞ」

「それくらいわかっておる。おぬしは人間に化け物を見るような目を向けられたことがないから……」

「メリュクシナ殿に果てしなく冷たい視線は向けられたが」

「何? おぬしメリュクシナの元へ参ったのか!?」

「誰が文や食事を運んでおると思っていたのだ。ここは女手もない。姫とあらばさぞ心細いだろうに」


 言い終わるか否やというところで竜の長たる神は疾風のごとく部屋を飛び出した。




 メリュクシナの住まいは離れにある。美しい庭園には池があり七色の鯉が泳いで、果実のなる木や人の世では見られぬ花が咲いていた。

 ヤトノは部屋を訪ねるつもりで庭園に面した廊下を進んでいた。ふいに鳥のさえずりに混じり、鈴の音のような可憐な笑い声が風に乗ってきた。

 庭園では白と黒の子竜が駆け回り転がり飛んでいた。その中心で菫色の着物に身を包んだ姫が一輪の花のようにしなやかに佇み、笑っている。


 ついぞヤトノには見せなかった華やかな表情に長は見惚れ、思わず柱の後ろに身を隠した。自分が出ていってはせっかく安らいでいる姫の邪魔をしてしまう。とはいえこのまま立ち去るのは惜しい。

 子供と戯れる花のなんと和やかなものか。

 柱を背にヤトノは胡座をかいてしまう。耳に優しい子供と女神の声に久しぶりに息をつく。


 神の勤めは当然のものだ。しかし彼は人に寄り添う神ゆえに、人に関わらぬ神よりも人に近く心の機微は細やかだった。永く見守り続ければ識るからだ。

 ともすれば心無い言葉に傷つきもする。厭だという感情もある。楽しいことや美しいものがいとおしい。


「ひめさま大好き! ずっとここにいてなの!」

「シロ、抜け駆けなの! ボクだってひめさま大好き!」

「まあまあ、おのこがそのように軽々しくおなごに抱きついてはなりませぬよ」

「だってひめさまは母さまになるんでしょう?」

「かかさまには甘えても良いの!」

「わ、わたくし、なりませぬ! 母などと呼ばないでくださりませ!」


 今回も駄目かもしれぬ。ヤトノはぼんやりと思った。

 メリュクシナは今までの贄とはどこか違った。でもそれも単なる反発心や子供染みた抵抗なだけかもしれない。露わになる苛烈な感情に触れたことのないヤトノだから惹かれた。人とはこうであるのかと身近に感じられた。


 子竜らも彼女の奔放さを好いたのだろう。気遣わしげな視線を子は敏感に見抜く。子とて気を遣う。母と慕いこそすれ形だけのものに成り果てる。これまでも母の抱く手に愛情など感じたことのない者のが多かった。そういうものだった。

 メリュクシナの様子を見るにヤトノやシットエという成竜には心を開かぬが、素直な子供は何の腹積もりもない好意を晒すせいか受け入れ易かったのだろう。成人の儀を済ませたとはいえ彼女もまだ十も半ばの子供なのだから。


 でもやはりそれでは、ならぬのだ。

 ――もしこのまま彼女が卵を育てず、竜が滅びの道を辿るとしたら。


 長あるまじき考えが浮かび、自分で驚いてしまう。でも考えずにはいられないのはなぜだろう。

 ヤトノとて竜の神であれいずれ死ぬ。子供たちも成人すれば順に死んでいく。

 同様に女神が育てる卵が次々に生まれ、勤めを継いでゆく。

 黄昏島はそうやって何千何十年と人間を見守り罰を与えてきた。


 ふいに天啓が下るように閃いた。

 メリュクシナが卵を育てず、それがきっかけで竜が滅びるのなら、それは人間の罪が晴れた証ではないのか。そのような人間を遣わされ、竜を不要とした天上のご意志ではないのだろうか。

 であれば良いのに。

 ヤトノはまだ自身の威光を振りかざしていない。これをすれば大抵は反抗心など失せ、黙って従う。威光すら振り払えた時こそ天のご意志だろう。今はまだ早計だ。

 それに女たちはいずれ――。


「大神はわたくしなどと夫婦(めおと)となるつもりはないのです。ですからそなたたちの母とはなれぬのですよ」

「ヤトノは関係ないの! ひめさまがかかさまでしょう? 女神さまはみんなそうだったの」

「皆様あなた方の母様に? 前の贄がご生母様ですか」

「前の女神さまはボクたちが生まれてからすぐ死んじゃったの」

「まあ……では大神がおひとりで?」

「ヤトノは何もしないの」

「まあ! 仕方のない父上ですわね」

「ヤトノはヤトノなの」

「お父上をそのように呼んではなりませんよ」

「でもヤトノなの」


 黒い子竜が向かいの縁側を指差す。柱の影から垂れた白い尾がのんびりと揺れていた。


「まあ……」

「ずっといたの」

「ひめさまと遊びたいの」

「仕方のない神様ですね」


 頬を綻ばせた姫君は静かに竜神の傍に寄った。驚かせるつもりはなく、また怒りや反抗心も今はどこかへ行ってしまった。彼女は優しく「大神」とだけ呼んだ。呼べばすぐに反応すると思った。ヤトノは微動だにせず、メリュクシナは多少の不安を抱いた。自分は神の不興を買ってばかりだ。ヤトノは優しいから怒りもしないけれど、竜の怒りに触れればはらわたを喰われるだけでは済まないだろう。


「大神……?」


 恐る恐る覗き込めば、金色の瞳はしっかりと閉じられ寝息を立てていた。


「まあ」

「ねぼすけなの」

「きっとお疲れなのでしょう」


 神ともなれば人には知り得ない勤めが他にもたくさんあるに違いない。メリュクシナは唐突に手持ちぶさたになり落ち着きがなくなった。このまま神をこんなところで寝かせるわけにもいかない。けれど起こすのも忍びない。

 自分の羽織を脱ぎ、そっとヤトノの膝にかける。

 庭を駆け回る子供たちを見守りながら、彼女も縁側に腰掛けた。時折聖域の花の香がヤトノから薫るとメリュクシナはいとおしげに目を細めた。

 久方ぶりに穏やかと思える時間だった。




「ヤトノ! ヤトノはおられるか!」


 慌ただしく駆けてきたシットエは長と姫の仲睦まじい様子に舌打ちしかけた。邪魔をするつもりはなかったのだ。

 しかし従者の並々ならぬ血相に今まで眠っていたとは思えない反応でヤトノは金の瞳を見開いた。驚いたメリュクシナが軽く悲鳴を上げて、またヤトノも驚愕する。なぜ姫が。だが今はそれどころではない。


「如何した」

「聖域の子らが」

「間に合わなんだか」


 心痛な面持ちの従者と端から諦観していた様子の神を見ればいくらメリュクシナでも良くないことがあったとわかる。


「どうなされたのですか……お子らに何か……?」

「そなたが気に病むことはない」

「ヤトノ! なぜ姫にお命じにならぬのです! このままにしておく理由があるならお聞かせ願いたい! 次に出立する竜たちも不安がっておる! 長!」

「理由か、理由な……」


 ヤトノは困惑しているメリュクシナの頬をそっと撫でた。彼女は一瞬びくついたものの、金の瞳を見上げるとその心意を窺うように瞳の中を覗いた。


「美しいものを壊すのは心というものをひどくつまらぬものにする」

「大神……?」

「そなたが我が名を呼んでくれたなら……いいや、詮なきことだな。聖域に参るぞ」

「わたくしも……?」

「そなたが居らねば意味がない」


 強い肯定にはすでに強制力がある。メリュクシナはおどおどと目を泳がせると小さくなって「仰せのままに」と呟いた。ヤトノは心が重くなる感覚を味わっていた。いつも通りだ。




 聖域は変わらず花の香に満たされていて、ひんやりとした風が流れている。雲ひとつない空は青くどこまでも晴れ渡り、まさに天界の楽園だ。

 だが以前とは違う。花の香に混じり死臭がする。否。肉の腐る生理的拒絶感とは別の、何かが這い寄るおぞましい気配。冷たく重い。何も感じないはずなのに確かに何かが死んだと思わせる臭い。

 堪えきれずメリュクシナは口元を覆ってせり上がる吐き気をこらえた。


「これは、わたくしのせい……?」


 あれだけ至るところに転がっていた色とりどりの美しい卵がどこにも見当たらない。いや、よくよく見れば分厚い殼が花園中に埋もれて花畑をまばらにしている。割れた殼。中身はない。綺麗さっぱりなくなっているのに、それが無事に産まれたとは到底思えなかった。


「わたくしが、勤めを果たさなかったから、あなた様のお子が……?」

「構わぬ。今回は到らなかっただけだ。子はまた創れば良いのだ」

「また次も姫が勤めを拒否したらどうするのです!」

「おぬしは黙っていろ」

「ヤトノ竜大神。そなたのお立場をお忘れか。勤めを果たさねば幾百の竜が、幾万の民が、惑うのですぞ」

「わかっている!」


 すっ、と息を吸った。空気が変わる。


「――メリュクシナ」


 顔を上げた女はきつく唇を噛んでいた。冷えてゆく空気の前に彼女は視線を逸らさず口を開いた。


「なぜ、ちゃんと教えてくださらなかったのですか。わたくしがやらねば卵が割れてしまうなど、考えも及びませんでした。わたくしが言うことを聞くまでお子を死なせるつもりで? それともお子を死なせたわたくしを死罪にし、次なる贄を迎えようと? わたくしが愚かだから罰したかったのですか」

「メリュクシナ、それは違う、僕は」

「いいえ、いいえ。大神は、ヤトノ様はちゃんとわたくしに、わたくしなどに頼んでくださりましたね……わたくしが聞く耳を持たなかっただけ」


 大粒の涙が流れた。顔を覆ってしまうことなく彼女は唇を噛んだまま俯いた。


「メリュクシナ……いいのだ。これから勤めを果たしてくれれば」

「良くはありませぬ! この中からシロやクロのような子が産まれるはずだったのでしょう? わたくしは、わたくしはなんということを……!」


 彼女はかぶりを振ると走り出した。原の中を足元も覚束ないのに懸命に掻き分け、割れた殼を避け、岩影を覗き、広い大地を隅々まで探し回る。


「メリュクシナ! 良いのだ、そなたが怪我でもしたら」


 卵はまた創れる。もしまだ割れていない卵があったとして、それがちゃんと産まれるとも限らない。一度失敗したものは駄目だろう。


「ヤトノ様!」


 着物は泥だらけ。綺麗な指は傷だらけ。なのにメリュクシナは輝く瞳に期待を乗せて呼んだ。その手には彼女が抱えられるほどの卵があった。


「割れておりませぬ! それに、温かい!」


 ヤトノは彼女に期待には応えられず曖昧に微笑んだ。中身が生きているとは思えなかったのだ。されど気づかぬ姫は大事に卵を抱え、抱き締め頬を寄せた。


「早ようお父上にお顔を見せてくださりませ」

「メリュクシナ……」

「簡単にお子を諦めてはなりませぬ。お父上なのでしょう? お見捨てにならないでください!」


 父に捨てられた娘は言う。


「……すまなんだ」


 卵に触れると彼女の顔が泣き出しそうに綻んだ。

 ぱり。

 メリュクシナが目を瞠る。

 ぱり。ぱり。


「キュイ〜」


 殼を割ったのは紅い鱗に覆われた小さな竜だ。竜は真ん丸な真っ赤な瞳で女神を見つめてもう一度鳴く。


「ヤトノ様!」


 同じくらい赤い目をしたメリュクシナはくしゃくしゃに泣いて笑った。





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