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2.女神のつとめ



 メリュクシナの機嫌は全く回復しなかった。それどころかあれ以来住まいを訪ねても逢ってくれず、途方に暮れていた。

 こんなことは本当に初めてだ。贄は竜大神の機嫌を損ねぬようにと恐怖を押し隠して微笑みを絶やさず仕えた。それがたとえ偽りの笑みであってもヤトノが態度を変えることはない。幾許かの感傷を抱きつつ、女たちのために優しくあり続けた。彼女たちには優しさこそが必要なのだ。そうして一身に役目を果たして貰わねばならない。


 しかしメリュクシナときたらヤトノの優しさなど偽りであると断じ、「贄などにそのような慈悲を賜れるのならご自分で勤めを果たされよ」とまで文を寄越してきた。

 そうは出来ぬから人間のおなごを納めさせているというのに。


 穏やかに微笑みながら腹の内に憎しみを溜め、しかし畏怖に押し潰され勤めに励む姿を見守り続けねばならないよりかはメリュクシナの態度はわかりやすい。それでもいつかは、それも近いうちに勤めを果たして貰わねば困ることには変わりない。

 前任の最後の報告と現在の聖域の状況を照らし合わせ、ヤトノはひとり気難しく唸った。


「長! 姫君が鳥居をご覧になられて、それで――我らにはどうにも!」

「まさか『落ちた』のではあるまいな?」


 飛び込んできた従者と入れ違いにヤトノが飛び出し、風のごとき速さで鳥居へと正に飛んで向かった。




 ヤトノの杞憂は杞憂で終わった。メリュクシナは鳥居の前で座り込み茫然と地上を見下ろしていた。


「危ないぞ。そうそう落ちはせぬが、万一のこともある」

「わたくしが言うことを聞かねばここから落とすと?」


 仕方のない娘だ。ヤトノは姫と目線を合わせるために腰を落とした。神のあまりにも飾らない姿にメリュクシナは己を恥じて唇を噛む。


「そなたにはいて貰わねば困る。傷つけたりするものか。僕はそなたが心穏やかに過ごせるようにと考えている」

「またそのような戯言を。わたくしは惑いはせぬ。どうしてもというなら無理矢理辱しめれば良いではないか! 神の御力にわたくしは逆らえませぬ」

「辱しめ? 何か誤解を――」


 子が、と姫が絞り出したと同時にふいに島が揺れた。あ、とよろめくメリュクシナが気づいた時にはヤトノの腕が支えていた。ふわりと薫る香に姫は意図せず胸を突かれ、竜の神を見上げた。ヤトノは姫と目が合うと暖かみのある金色で微笑んだ。


「……わたくしを帰さぬためにこのようなことを? この島はなぜ大地から離れてしまったのですか」

 彼女が憤っていたのはこの竜の住まう島が故郷を離れ、遥か遠い天空へと来てしまったからなのだ。ひとり置き去りにされて心細い姫が慰めにと、己のかつての故郷を眺めようとした中での予想外の仕打ちに打ちひしがれてしまった。


「元々この島は浮き島なのだ。そなたを迎えるために降り立ったに過ぎぬ」

「もう戻らぬのですか」


 長は音もさせず立ち上がり姫に手を差し出した。


「おいで」


 彼女は取るのを僅かに躊躇し葛藤ののち、細い指先をヤトノの手のひらにそうっと乗せた。

 手を引き、彼女の歩幅に合わせながら歩く。何も言わない神を不安に思っていることは触れた指先から伝わったが、メリュクシナも問いただしはしなかった。神には逆らえぬ。彼女もまた他の贄と同様に自分の立場を諦めたのだろうか。

 神は畏れられる存在でなければならない。

 でも畏れる目が自分に向けられるのは居心地の良いものではなかった。決して相容れぬと知らしめられる。竜と贄は神と人の象徴で在り続ける。それが当然のことだった。ヤトノもよく理解しているから畏れられる自分のままでいる。


 島の西端まで来ると切り立つ崖から滝が流れ落ち、そのまま空で霧になるという人の世では到底見られない光景が広がっていた。滝壺の代わりに虹がかかるさまはこの世のものとは思えない。

 メリュクシナが感嘆を洩らし、元気のなかった怒りの瞳が輝いたことにヤトノはこっそり微笑んだ。手のひらを眼下に広がる雲海に翳す。どこからともなく風が吹き抜け、光柱が立つと雲が流れた。合間から地上が垣間見えた瞬間、姫が「あ」と声を上げた。すっかり雲が晴れてしまうと彼女の故郷の山並みが見下ろせた。


 夕日に彩られた山々は金色(こんじき)に輝き、島からの風も光を帯びているようだ。靡く稲穂。駆ける子供たちの姿までまざまざと見えているかのような姫の様子に苦笑を飲み込んだ。


「この島が『黄昏島』と呼ばれていることは知っているか」


 メリュクシナは頷いて自分が今まで読み聞かせられてきた島の知識を唄に乗せた。


「気まぐれに大地を覗けば憂鬱がひとつ。罪が積み重なる前に罰を下そう。

 昼と夜の境目、曖昧な時間ならば愚かな人間は隣人が消えたことにも気づかぬとお思いか。

 かの島からは金色の槍が降り注ぐ。たれそかれ。我らは隣人を忘れ得ぬ。

 ゆえに神の住まう黄昏島へ贄を贈ろう。神が憂鬱を忘れてしまうように」


 凛とした声音で唄われた歌は地上での伝承だ。代々唄い継がれ、神は畏れと罪の象徴として存在し続けた。


「あんまりな歌だと思わぬか? まるで僕が憂さ晴らしに槍を投げているみたいだ」


 ヤトノは肩を竦めて笑ってみせた。


「違うのですか」

「人の罪がなくなれば槍は効力をなくす」

「過去になくしたことが?」

「ない。人はどんなに罰を畏れても罪を犯すようだ」

「呆れておしまいにならないの? 見放して滅ぼしてしまいたいとか、お勤めを辞めてしまいたくは? 贄にうつつを抜かして忘れてしまったりは?」

「神は見捨てもしないし、辞めもしない。忘れたこともない」

「では贄など送っても意味はないのですか」

「あの唄は人間が作ったものだ。贄はそもそも我らが求めたものだからね。それがいつからか赦しを乞う供物の意味を持ってしまった」


 思考に耽る姫は黄昏に沈む市井を眺め、どうにも納得がいかず首を振った。


「人の罪とは如何様なものとお考えですか」

「そなたらが罪だと認識していること」

「それは神ご自身は罪が何であるかおわかりになっていないということ? それなのに人を罰するというの」

「自身が罪だと認めているのだから僕は何も言うことはないんだよ。でも罪を改められぬのなら罰せねばならない」

「勝手だわ」

「そうかもしれぬ」

「なっ!」

「そうかもしれぬがやらねばならぬのだ。僕は人間が好きだからね」


 呆気に取られたメリュクシナは理解の範疇を越えたとばかりに理解を諦めた。


「わたくしを……」


 言いかけて唇を噛む。怒りを堪える時の癖なのだろう。ヤトノは余計なことは言わず彼女が吐き出したくなるのを待った。


「わたくしを、ここに送ったことを罪と思う人間はいるでしょうか」

「どうかな」

「甘言は垂れ流すのに慰めはしないのですね」

「随分な言い草だな。ここは人と神の狭間にある。狭間の虚ろ。黄昏。言い得て妙だ。識るべきことさえ弁えていればそう悪くはないところだよ。飢えもなく糸を紡ぐ必要もない。市井の人間が知れば到底罪悪感は抱かぬだろう。それにここから人の世の黄昏を眺めるもなかなかの絶景であろう?」

「……それでもわたくしはわたくしを見捨てた彼らを憎く思わずにはいられないのです」


 紅い唇がきつく閉じられる。


「そなたは怒りや恨みを僕に向けないのだな」

「とても駄々を捏ねた自覚はあるのですけど」

「それとは違う」


 強い断言にメリュクシナは首を傾げるばかりだ。


「……神のお考えはわかりませぬ」


 彼は説明するつもりはなく、口元だけで笑む。


「ヤトノでいい」

「え?」

「そろそろ勤めを果たして貰わねば持たぬか」


 天を仰いだヤトノは次の瞬間にはメリュクシナを抱え上げ走り出した。走るというよりも風になると言うほうが正しかった。空気のほうから道を開くような不思議な感覚にメリュクシナは夢見心地になりかける。

 しかし竜の神の言葉を思い出すと自分の意地が勝った。


「わたくしは勤めは果たさぬと何度申せば……! 離してくださりませ! そのようなお方だとは思いませんでした!」

「それでは困るのだ。僕の相手が嫌ならそれでも構わない。だがあの子たちはそうもいかぬ」

「なっ! あなた様のお相手ばかりか他の方のお相手までと申すのですか!? なんと賤しい!」

「そなたは何を言うておるのだ。そのように嫌がる勤めではないと思っておったが違うのか?」

「ああ、神がこのようなお考えとは嘆かわしい!」


 顔を覆って今にも泣き出しそうなメリュクシナをそっと下ろしてやる。彼女は顔を上げると予想外だと言わんばかりに唖然とした。笑顔はみせてはくれずとも表情の豊かなおなごだ、とこっそりいとおしむ。


「褥に向かわれるのでは……?」

「もう寝るつもりか? 夕餉もまだというに気の早い」

「わ、わたくし……」


 今度は顔を紅のように染めて両手で隠してしまった。忙しない。疲れはしないのだろうか。肩を震わせる姫に構わず、手を取り聖域に踏み入れる。

 広大な平原は御山の山頂にある。火口原だ。ぽっかりと火口に囲まれた原には所々から白い煙が立ち上る。しかし一面には色とりどりの花が咲き乱れ、花の香に酔ってしまいそうになる。

 メリュクシナはふと、ヤトノの衣の香がこの匂いによく似ていることに気づいた。


「大神はよくここに?」

「うむ、女神が勤めを果たす時はよく共にな」

「女神?」

「そなたたちのことだ。最初に神としての勤めを与えただろう。ほら、あれだ」


 指し示してやると彼女は辺りを漠然と眺める。何のことだかわからないようで少しの間不思議そうにきょろきょろしていたが、唐突に「あ」と畏れと好奇心を覗かせた。草に埋もれるようにして転がる色とりどりのものを岩か何かと思っていたようだ。


「あれは何なのですか?」

「卵だ」

「あのように大きな? 一体何の」


 はっとしたメリュクシナは思わずヤトノの神々しい角を見上げた。


「そう。竜の卵だ。そなたにはあれを育てて欲しいのだ」

「……もしかしてお勤めとはこのこと?」

「うむ。子を育てて欲しいと頼んだつもりでいたのだが」

「卵なら卵とおっしゃって欲しかったですわ! わたくしてっきりあなた様のお子を……」

「ん? この子たちもみな僕の子だ。もしやメリュクシナは卵すら見たくもないほど僕が厭か。ううむ、こればかりは我慢して貰わねば……そなたがいる間はここにも顔を出さぬようにしよう」

「わたくしそのようなこと一言も言っておりませぬ。お好きにお子のお姿ご覧くださりませ!」


 ぷい、と踵を返してしまった。また何か姫君の気を悪くすることを言ってしまったらしい。ヤトノは呆気に取られ、艶やかな白髪を乱雑に掻いた。


「待て、帰り方を知らぬだろう!」


 慌ててメリュクシナを追った。





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